金華考~晴れ、時々もっと晴れ~

金華山を歩く、音楽を聴く、歌を歌う、数学を解く、英語を学び続ける、プログラミングを続ける。ああ、学びたい!

【立秋】原爆詩一八一人集から(中日春秋)

2017年08月10日 | 日記
【立秋】原爆詩一八一人集から(中日春秋)


「上記の詩集から、吉田美和子さんの詩です。」

ふいに サイレンの響きとはちがう

無数の唸りが

私の耳の中を揺さぶっていく

あの日 あの時

母の温もりの中で

守られていた小さな生命が

声ひとつ

あげる間もなく

吹き飛ばされ 風と化していった



「まだ生まれるまでもまく、誰にも会わずに消えてしまった命もあった。
 そういう命のことをどう表現したらいいのだろう?」

オグ・マンディーノ 人生を語る (メモ)

2017年07月31日 | 日記
「人生というゲーム」のルール17


ルール1 恵まれている点に目を向ける

ルール2 給料以上の働きをする

ルール3 過去の失敗や不幸を引きずらない

ルール4 一日の労苦は円満な家庭でいやす

ルール5 楽天的考えを土台に今日という日を築く

ルール6 行動に自分を語らせる

ルール7 「今日の不幸」に「明日の幸福」のじゃまをさせない

ルール8 時間は「小事」に浪費せず「大事」のためにとっておく

ルール9 「今日は自分の最後の日」と思って生きる

ルール10 「今日一日かぎりの命」のつもりで人に接する

ルール11 自分の人生を笑う心のゆとりをもつ

ルール12 小さなことをおろそかにしない

ルール13 毎日、朝を笑顔で迎える

ルール14 大きな夢も毎日、少しずつやれば達成できる

ルール15 人生をとりしきるのは、あなた

ルール16 災いの中に「福の種」を探す

ルール17 真の幸福はあなたの内にある


ひとりで成功した者はいない

「虚数の情緒」

2017年07月28日 | 日記

昨年、20年以上前に買って、読まずに埋もれていた「細雪」を読んで思った。

1日1ページでも読んでいれば、3年で読めたのに・・・。

少年老い易く、学成り難し、なんて言葉を思い出せる頃には、いずれのおんときやら、

思い出してばかりの頃になると、やっとしみじみとしみてくる。

あなや、もののあはれか。

さて。

虚数の情緒というぶあつい本が今手元にあるのだが、ぶあついけれど、1000頁ない。

つまり、細雪よりも短い。

1日1ページがんばろう。

でも、たまたま開いたページにアレフゼロの話が、あ、これ昨年、もう高校数学ばかりではいやだと思って、現代数学のみんなのため版みたいなのを読んで、驚いたあいつだ。

偶数と自然数の数は同じって考える。

nと2nって、1対1に対応するから、数は同じなんだという考え方。

捉え方なのかな、それとも事実なのかな。

うまい言葉もある。

濃度が同じという言い方をされると、なんか、確かに、そんな気がしてくるではないか。

ま、そんな与太話はさておき。

あらためて、1ページめ。

いや、これはいいよ。

まるで、「先生」の授業を聴いているみたいなんだよ。

「先生」というのは、もちろん先生とは違う。

分かってくれるかな、分かってもらえないかな。

学校や予備校の授業をするのが先生とは限らないんだよ。

お仕事ですからね。お金もらってやってるから、プロなんだ。でもそれは先生とは違う。

斎藤先生じゃなくて、斎藤さんでほんとはいいんだと思う。

でも、この人は、確かに、先生なんだ。

そんな気がして引き込まれてしまった。

なんか1ページ目からじ~んとしてしまった。

生きる価値のない人間なんていない

2017年07月27日 | 日記
今日の中日新聞の記事は、ぜひ書いておきたいと思った。

いや、正確には写しておきたいではるのだけれど。

精神障害者を支援するNPO法人の理事を務める岩坂正人さん(66)の語るエピソードだ。

1975年に署名活動をしていたときに「高い金をかけて、障害者が生きるあるのか」と断られ

「辞めたい」と思っていた頃の話である。

当時十代だった女性に出会ったそうだ。

彼女は、岩坂さんがギターで童謡を弾き語りすると、笑顔で体を大きく左右に揺らした。

夜勤明けで疲れて和室で休んでいると、女性がどこかから毛布を持ってきて、いたわるように近くに座っていることもあった。

「自分にこれほどの優しさがあるかと考えさせられた。『生きる価値のない人間はいない』と身をもって示してくれた」

 実際、そうなのである。

 彼らは(実は私は一人しか知らないのだが)、

 純粋な思いやりを持っている。

 私たち凡人ならば、いいことをしようとしえさえも、ああ、なんかいいことをしようとしちゃがるなと思われたらどうしようなどと考えて、したい気持ちはあっても、躊躇したり、いざしたとしても、何も見返りをもとめないにしても、ぎこちなくなってしまう自分に嫌気がさしたりする。

 彼らの思いやりは、本当に純粋なのだ。何も求めてもいない。ある意味、神様に近い存在かもしれない。

 障害者施設は見方によっては、神社やお寺と同じだと思う。

 そこがあるだけで、人間の持っている善意がゼロではないことを信じられるではないか。

 かりに莫大なお金がかかるとしても、その思いやりが何らかの形で伝えられるならば、もっともっと知ってもらえるならば、それはただ黙って立っている仏像よりも、はるかに

 「ああ・・・」と思える存在になりうると思う。