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誰も知らない南の島

いつか南の島にいきたい

ローマを観光する予定があるなら、是非この映画を見ておくべきだ/天使と悪魔

2009年05月31日 | ふたりの真希
ダ・ヴィンチ・コードがルーブル美術館案内であるとしたら今回はローマ観光案内だ。
バチカンの内でのコンクラーベの映像を擬似にしろ見ることができる。
コンクラーベはミケランジェロの天地創造の絵の下で開かれようだ。
ハリウッドとバチカンの距離感が微妙に映画に反映し、ある意味で大胆な作品になっている。

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孔明の祈りが天に通じたか、西風が止んだ/レッドクリフ 2

2009年05月31日 | 谷本歩実柔道一本勝負
曹操の軍勢は百万に近く、呉と蜀の軍の劣勢は否めなかった。
しかし、東風が吹き始めたとき、呉と蜀は進軍を開始した。

レッドクリフ Part 2を映画館で見た。
こういう映画は映画館で見たほうが楽しい。
そして、監督も、そう語っているが、この映画は過去のみを語った映画ではなく、現在の状況に鋭く迫り、未来への展望を切り開く志を映像化した映画なのだ。

2008年の撮影にあたって時代という病を、両軍の疫病への対応という形で描き、あたかも2009年のパンデミックを予見したかのような監督の慧眼に驚かされた。

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もし君が小さく未熟な青豆に育つなら、私は薄く脆い白い殻に包まれた卵となって/1Q84

2009年05月31日 | 谷本歩実柔道一本勝負
ブックデザインの緑のQの字の形が、私には、どうしても、やや細長い卵に見えてしまう。それは、たぶん、気のせいだろう。
ルイス・キャロルは、アリスの中で卵の割る位置を争う政党政治家の話を述べたが、春樹が、この春に語った卵の話は、もちろんファンタジーではなかった。
もちろん、ルイスもまた、ファンジーを語っては、いなかったのだが。
アリスの世界はいざ知らず、2009年に卵の立場に立つことは容易ではない。
少なくとも私には、卵の立場に立つ勇気がない。
しかし、豆の立場になることは、さらに容易ではない。
かつて、豆殻をもって豆を煮るといふ言葉があった。
真に慄然とするコトバである。

9 人中、3人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
微かな「希望」という光を際だたせるために必要とされる、深い陰影, 2009/5/31
By navyfrog993 (東京都渋谷区) - レビューをすべて見る
自分の人生に欲求不満の人殺しとゴーストライターの物語。
と一行で片付けても、表層的には間違っているとは言えない。
平易な文章で綴られているが、暗喩に満たされたこの「難解」な小説の読み解き方は読者次第で。
読み解けない、あるいは答えが明示的に提示されないことに対してフラストレーションを持つ人は、おそらくたくさんいるだろう。

だから、この小説を先の一行、あるいはそれに近い受け止め方をして、「つまらない」「理解できない」という人がいても、驚くには当たらない。

この小説だけに限らないが、入学試験の国語の問題みたいに答えが一つしかない、ということはない。
人それぞれに答えは異なり、それは作者も了解していることだ。
だから私の答えを人に押しつけるつもりもない。
したがって以下の「読み解き」は、あくまでも私個人の受け止め方であるのだが。
この小説には、悲観もしくは諦観の表出が詰まっている。

例えば。

本来は人間を幸福にするためのものなのに、「脳味噌の纏足」と化してしまっている宗教に対するペシミズム、あるいは本文中にはこの言葉は使われないが、エルサレム賞スピーチで言うところの人間が作り出したのにいつの間にか人間がそれにコントロールされてしまっている「システム」に対するペシミズムと。

「説明しなければ分からないのであれば、説明したって分からない」という認識論的ペシミズムと。

「メタ小説(1Q84の中で描かれる小説)」に対する批評、すなわち「謎解きがなされない小説は作家の怠慢である」という批評が平気でなされる日本の文壇へのペシミズム、あるいは「謎や暗示に対する答えは必ずしも用意されているわけではないが、人を最後まで惹きつけて離さない小説」すなわち村上春樹氏の小説一般への一部の評価についてのペシミズムと。

自分の分身であるところの自らの作品に対する小説家の思いと、その作品を商品あるいはビジネスとして捉える編集者をはじめとする出版社との果てしのない相克へのペシミズムと。

自分の幸福の追求によって自分を取り巻く周りの人たちを不幸にしてしまっているのではないか、結果自分の幸福はありえないのではないかというペシミズムと。

世俗的な物に対するペシミズムや、人間の本性にたいするペシミズムなど、これら以外にも確かにこの小説にはペシミズムが満ちているが。

救いがない物語では、決してない。

目の前の選択肢の片方を選べば、別の選択の結果は決して知り得ない(=「1Q84」vs「1984」)という意味で不可逆的選択の集合体である人生を、単に悲観してペシミズムに陥るのではでなく。

自分の人生でどこかに必ずあったはずの啓示、それは必ずしも誰かから与えられ受け止めるだけの啓示でなく、自ら作り出すべきものとしての啓示を信じ。

「生まれ方は選べないが、死に方は選べる」という言葉に象徴されるように。
悲観し諦観することなく、自らの手で積極的な選択を行えば。

「人間自身が作り出したシステムに人間が支配される」のではなく。
本来あるべき姿に戻れるはずだ、すなわち自分の人生の主人公の座を自分自身に取り戻せるはずだ。
深い陰影を描き続けることによって、もしかしたら気付かれないかもしれないほどの、人生に射し込んだ細くてかすかな一条の光をまばゆく見せる。
私自身はそういった希望とそれを実行する人間の決意を描いた小説であると受け止めました。
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1Q84(1)
村上春樹
新潮社

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1984年

2009年05月31日 | 宮間あや/湯郷からロンドン五輪決勝戦へ
2009年に生きるものにとって、1984年は25年、四半世紀前の過去の年だ。
しかし、だからといって、この作品が過去を語っているものと判断することは軽率すぎる。

28 人中、25人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 4.0 古典的ディストピア, 2007/4/11
By もなか - レビューをすべて見る
新語法(ニュースピーク)、二重思考(ダブルシンク)といった造語、「自由は屈従である」等のスローガン、スパイ団、テレスクリーン等の監視装置、、、。本書の刊行された1940年代以降、西側諸国においてディスとピアとしての共産主義≒全体主義社会像を決定付けた記念碑的作品である。
本書の提示するイメージあまりに鮮烈過ぎたためか、オーウェル自身の意図とは離れ、逆に世間のディストピア観を矮小化するに至ったとさえ感じることがある。「1984年的でない社会」=「自由な社会」という短絡に対する警鐘は「マトリックス」の登場を待たねばならなかった。自ら考えることを放棄させる術は、本書の描くように絶え間ない監視と強制によるものではなく、むしろ穏やかで高等な環境操作によるべきであろうことは21世紀の今日では簡単に想像がつく。
とはいえ、20世紀の下半期、西側社会のバイブルであり続けた重要小説であることには間違いない。
1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)
ジョージ・オーウェル,新庄 哲夫,George Orwell
早川書房

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