先週、お勉強会での先生のお話で、中国の古典「陰隲録(いんしつろく)」というものを聞きました。
それがまだ頭に残っているうちに、今読んでいる本にも同じものが載っていました。
忘備録として、掲載します。
袁了凡(えんりょうぼん)は、代々医術を家業とする家に生まれ、
早くに父を亡くしたため母の手で育てられました。
家業を継ぐべく医学を学んでいた少年のころ、突然、一人の老人が訪ねてきて、
私は理法(易学)を極めたものだが、天命に従って、あなたに易学の真髄を伝えきたと告げます。
老人はさらに母親に向かって、
「お母さんはこの子を医者にしようとお考えかもしれないが、彼はその道をたどりません。
長ずるに及んで、科挙の試験を受け、役人となるでしょう」
といい、何歳の時に何の試験を受け、何人中何番で合格するかということだけでなく、
若くして地方の長官に任ぜられ、たいへんな出世をすること、結婚しても子供はできないこと、
さらに53歳で亡くなることなど、少年の運命を次々に予告します。
その後、了凡の人生はすべてこの予告どおりのものとなっていきます。
そして地方長官となった了凡は、あるとき名高い老師がいる禅寺を訪ね、ともに座禅を組みます。
それが無念無想のすばらしいものであったため、老師が感心して、
「一点の曇りもない、素晴らしい禅を組まれる。いったいどこで修行をなされたのか」
と尋ねます。了凡は修行の経験などないことを語り、さらに少年のころ出会った老人の話をします。
「私はその老人の言葉どおりの人生を歩んできました。やがて53歳で死ぬのも、私の運命でしょう。
だから、いまさら思い悩むこともないのです」
しかし、それを聞いた老師は了凡を一喝します。
「若くして悟達の境地を得た人物かと思えば、実は大バカ者であったか。
ただ運命に従順であるのがあなたの人生か。運命は天与のものであるが、
けっして人為によって変えられない不動のものではない。
善きことを思い、善きことをなしていけば、あなたのこれからの人生は運命を超えて、
さらに素晴らしい方向へ変わっていくはずだ」
と因果応報の法則を説いたのです。了凡はその言葉を素直に聞いて、以後、悪いことをなさぬよう心がけ、
善行を積んでいきました。その結果、できないといわれた子供にも恵まれ、
また寿命の方も予言された年齢をはるかに超えて、「天寿」をまっとうしたのです。
1つの場面に遭遇したとき、
「善きことを思い、善きことをなしていく」のと、
「悪しきことを思い、悪しきことをなしていく」のでは、
10年、20年先の人生は全く別のものになっているのではないでしょうか?
というお勉強でした。