1月31日(日)のつぶやき その3

2016-02-01 | ツイート

@fusagikosan しかし1967県議選で御坊市選挙区は定数2から1へと減少し、俊太郎ともう一人の現職が一議席を争う椅子取りゲームとなった。この戦いで元々劣勢であった俊太郎は敗北、政界を引退する。67歳だった。通算成績9戦2勝5敗2不戦勝であった。

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@fusagikosan 1970年勲五等双光旭日章を叙勲される。1971県議選御坊市選挙区では俊博擁立の動きがあったものの結局は自民党に入った現職の無投票再選となった。俊博側が秘書業務の為に断ったからであるという。

当時遠藤の政治生命は佳境に入っており手放せなかったであろう。

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@fusagikosan 1972年遠藤三郎が現職のまま死去、それに伴い二階俊博も中央政界を後にし、以後俊太郎後継として定数1となった県議選御坊市選挙区への立候補活動を本格化させていく。

1974年には明日のふるさとを考える青年の会、二階俊博の後援会「新風会」が結成される。

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@fusagikosan 新風会結成大会には俊太郎の代用教員時代の教え子達や郷里の人々、旧稲原村の有志、旧御坊造船の社員も多く駆けつけた。これら御坊市外の人々は後の二階俊博の国政進出で運動の中心的な役割を担っていくことになる。

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@fusagikosan 万全の準備を施した二階俊博は1975県議選御坊市選挙区に立候補する。俊太郎は引退した身であり一線に立つことも無かったが、俊博の選挙戦術には戸惑う事が多かったという。

選挙結果はかつて父を破り自民に属した現職を100票余の小差で破り、初陣を勝利で飾る。

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@fusagikosan 県議選の半年後、紀州水害対策事業としての椿山ダムと紀州水害復興事業としての日高新港の設営の必要性を息子・俊博にこんこんと唱えた翌日に逝去する。この二つの事業は戦後県政に復帰した俊太郎が提唱したものである。それを託して世を去ったのである。享年75。

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@fusagikosan 椿山ダムと日高新港は俊博が提唱した「紀伊半島一周高速道路」と共に二階俊博の県政時代の政策三本柱となる。そのうち椿山ダムは県議在職中に目処をつけ、紀伊半島高速道路を広い大義、日高新港を日高地方での大義として掲げて国政に打って出ることになる。

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@fusagikosan 俊太郎のもう一つの悲願であった日高新港は曲折を経て2003年竣工、2004年に供用される。だが事業計画以来半世紀経過したことにより、想定された経済効果とは大きく異る運用結果となってしまった。

この点、椿山ダムも水害対策として狙いとは異なる結果となった。

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@fusagikosan 二階俊博は椿山ダム完成と日高新港供用によって、父との約束を果たし、実現力のある政治家としての存在感を示した。
それを成すために和歌山に戻ってきたのであり、どちらかと言うと脆弱であった俊太郎の選挙地盤を活用しつつ新たなる地盤を作り上げたのである。

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@fusagikosan 二階俊太郎はプロの政治家として生きる長男・二階俊博と異なり、政治のプロではなかった。選挙術家でもなかった。

何が本職なのか分からない。職業不詳だけど、いつも馬車馬のように走り続ける。ただひたすらに時代を走り続けた一人の漢であった。

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@fusagikosan 俊太郎はある後援会会合で言ったという。

「私は政治に生命を賭けている」

ひたすらに夢中になって政治に情熱を燃やし、何がなんだかよくわからない状態であっても突っ走る、今の日本では絶滅してしまったような漢が二階俊太郎であって、これは息子もマネはできまい。

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@fusagikosan 長らくの読了ありがとうございました。
これが二階俊博の父親、二階俊太郎の生涯であります。二階の選挙術には父・俊太郎の生き方に対する懐疑やテーゼを経て、やがて飲み込んでいくのですが、それは父親のターニングポイントと同じ頃になったところが面白いところです。

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@fusagikosan 二階俊博は父親の選挙術に対して「なんで落ちるのか?」という疑問がふつふつと湧いていたという。
落ちてしょげてても次の瞬間「さぁ、やろうか」と立ち上がる父・俊太郎に対して、「もっとやり方があるだろう」というのが息子・俊博の意見であった。

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@fusagikosan ところが人生、ずっと合理やテクニック「だけ」で乗り越えられる訳ではない。この壁を二階は50代と60代で体験していくなかで、父親の壁にぶち当たる時の思いなどを初めて飲み込んでいく事ができるようになって、現在の選挙術家になっているんですわね。

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@fusagikosan 逆に考えれば、それまではひょいひょいと乗り越えていったって事を考えると、若いころの二階もタダモノではないんですけどね。

人生一筋縄にはいかない訳で、政治家たるものやはり一足飛びとはいかないという訳です。

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@fusagikosan 大下英治版「二階俊博」「小説二階俊博」には数行しか触れられていない二階俊太郎の部分、実は概略とはいってもこの程度の分量があるんですよね。人の人生は数行では表せないということです。

端折っているのは書いてもキリがないからだと思われる。

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~⊂'"゛`づ,゜Д゜彡つ<ぶっちゃけ言えばwikipediaに二階情報を私に書かれちゃ困る人らがいるんですわ。本当のこと書かれたら困るってアホやがなwww

酷使様かサヨった人か知りませんが。

twitter.com/fusagikosan/st…

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~⊂'"゛`づ,゜Д゜彡つ<二階俊太郎話。概略とはいえ長かった・・・・・
これと二階俊博話を合わせりゃ、十分大河ドラマに耐えられるんだよね、ホントにw

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1月31日(日)のつぶやき その2

2016-02-01 | ツイート

@fusagikosan 紀州新報社御坊支局の記者となった俊太郎は同郷の縁者がいるつてで御坊市で医院を営む古久保家に出入りし、やがてその家の娘・菊枝と懇意になる。
当時菊枝は父の医院に医者として働いていた才媛であった。そういう事情があったのか、俊太郎は中央大学専門部に入学する。

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@fusagikosan しかし体質に合わなかったのか、程なくして専門部を辞めて御坊に戻り、引き続き記者を続ける。やがて懇意にしていた菊枝と結婚する。

この結婚に対し古久保家では反対の声が上がったという。そりゃそうである。時代は戦前、家格が違い過ぎるのだから。

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@fusagikosan しかし俊太郎が魅力的な男だったのだろう、菊枝は「見所がある」として反対を押し切って結婚に踏み込んだ。
かくしてどこの馬の骨とも分からない政治家志望の新聞記者と代々医業を営む家の女医という、当時としては大変珍しい夫婦が生まれた。やがて2男2女を儲ける。

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@fusagikosan 一方、中央政界での異変が和歌山政界にも達していた。立憲民政党の分裂である。和歌山県は民政党が強い地域であり、分裂によって誕生した国民同盟に加担する者が相次いでいた。その中に俊太郎の勤める紀伊新報社の社主もおり、積極的な刺客擁立工作を行っていく。

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@fusagikosan 1935年、社主の勧めもあって二階俊太郎は和歌山県議選に国民同盟の候補者として故郷・西牟婁郡選挙区に立候補した。

ところが民政党側はこれを許さなかった。無投票選挙を画策するも阻まれた為に俊太郎の選挙活動を激しく妨害し、官憲まで使って邪魔をした。

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@fusagikosan 結果、俊太郎は落選。苦い初陣となった。この時民政党側で選対指揮を取ったのが海南選出の県議の小野田種次郎という人物で、ルパング島から帰還した小野田寛郎の実父である。種次郎はこの借りを40年後に俊太郎の子息に返すことになる。

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@fusagikosan この選挙で和歌山県内の国民同盟側は手痛い敗北を喫し、やがて紀伊新報社の社主は一線を退くことになった。その煽りを受けて御坊支局は閉鎖、俊太郎は新聞記者の地位も追われてしまう。

しかし、こんなことでめげる俊太郎ではない。紀州国民新聞社を立ち上げて発刊した。

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@fusagikosan ところがこの紀州国民新聞、一年ほどで休刊に追い込まれる。作ったのは良かったが資金の回収が出来なかったからであったという。ショートした資金の帳尻は妻の菊枝が行ったというが、文句の一つも言わなかったそうである。

以降、残った設備で印刷業を営む俊太郎であった

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@fusagikosan やることなすこと一筋縄にはいかない二階俊太郎であったが、その境遇に全くめげること無く、周りを見ることもなく、ただひたすらぶち当たり続けたのが功を奏したのか、またもや転機が訪れる。

前任者失職により1938年に行なわれた和歌山県議選補選に推されたのである

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@fusagikosan 失職した前任者と知遇を得ての後継者として日高郡選挙区補選に出馬した俊太郎であったが、ここでも落選してしまう。だが天は俊太郎を見放さなかった。
当選者が選挙違反で失職。代わって俊太郎が繰り上げ当選したのである。こうして二階俊太郎は和歌山県議となった。

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@fusagikosan 翌1939年、二階家待望の長男が誕生する。この時二階俊太郎39歳。二階夫妻は三人目にしてようやく男の子を授かった。これが二階俊博である。

この頃5年間に5回も村長が変わった稲原村の村長就任を求められたりと俊太郎には次々と仕事が舞い込んできた。

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@fusagikosan また国策により日高郡の五つの造船会社を合併して誕生した木造船造船会社「御坊造船」の世話を依頼されて社長に就任、企業経営を行うなどこれまでの不遇を吹き飛ばすような多忙な日々を送った。

和歌山県経済部長として赴任してきた遠藤三郎との友誼もこの時のものである

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@2petri2 wwwwwwwww いえいえ、持続する自信がありませんですわww


@fusagikosan 1943年戦時中である為に地方選自体が中止され、二階俊太郎は1939年に続いて選挙を経ずに県議職を続けることになった。戦争は激しさを増し、家族は自身が村長を務める稲原村に疎開。
幼い二階は父親の出征式の壮行演説をこの疎開先で聞いており、覚えているという。

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@fusagikosan やがて戦争が終わると、俊太郎は御坊に新聞社を設立したいという後輩記者を発起人の一人として支援し設立に尽力する。これが御坊新聞社である。
また、戦後初の総選挙に県議兼職のまま自由党公認で和歌山県選挙区に出馬。結果として18位で落選する。

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@2petri2 ちょこちょこなら何とかなるかもwww
しかし、ネットにもどこにも殆ど情報がない人物のネタがこんなに残っているのはおっさんの賜物ですわ。てか、知ってる人の子孫の話というのがヤバイw


@fusagikosan 落選した俊太郎には更なる追い打ちが待ち構えていた。公職追放である。稲原村長として大政翼賛会に参画していた事を問われての事であった。これにより県議を追われた二階俊太郎は以降、専ら御坊造船の経営と紀州新聞への寄稿を主に活動していくことになる。

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@fusagikosan やがて公職追放が解かれた俊太郎は1955和歌山県議選日高郡選挙区に民主党公認で立候補する。当時岸信介に従い民主党で活動していた遠藤三郎の縁による。しかしこの選挙でも俊太郎は落選。

以降、合併した自民党に合流し、設立された御坊支部の世話役となる。

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@fusagikosan この間、御坊造船社を木造船需要の低迷により解散し精算している。時代の変化の中で人生の激しい浮沈にめげず政治への情熱をたぎらせる二階俊太郎もいよいよ還暦の時が迫っていた。

その頃、長男・俊博は高校を卒業し中央大学進学の為に故郷を離れる。

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@fusagikosan 自民党御坊支部が設立されたのは1954年に市制が敷かれた御坊市ができた事に伴い、県議選で新たに定数2の御坊市選挙区が置かれたからである。その世話役である俊太郎は当然ながらその選挙区に自民党の公認候補として立候補する、筈であった。だが自体は一変する。

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@fusagikosan なんと別の二名が公認されてしまい、御坊支部の世話役であった俊太郎が外されてしまったのである。

これは戦前、国民同盟からの立候補であったり、和歌山で民主党からの合流者という傍流の位置にいたこと、高齢元職を嫌がってのものであったという。

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@fusagikosan しかし、こんなもので引くような二階俊太郎ではない。俊太郎は「もういい。ワシは立つ」と言い放って無所属で御坊市選挙区から立候補。2名の自民公認者と革新系無所属候補者と2議席を争う選挙戦を戦った。

結果俊太郎は2位当選。1位は革新系が入り、自民は共倒れした

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@fusagikosan 俊太郎は7度目の選挙で初めて勝利を手中に収めて県議となった。悲願の復活を果たした俊太郎は自民党入りし、県政に再び参画することとなった。

この当時二階俊博は東京で大学三回生。少年時代、父親の現役政治家としての活動をついに見る機会はなかったのである。

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@fusagikosan 晴れて県議となった俊太郎は息子俊博の懇請を受けて衆議院議員となっていた遠藤三郎を紹介する。そして俊博は当初の自分の意図を大人たちによって外され、予定外の遠藤三郎の秘書として勤務することになる。

もちろん二階俊太郎の狙い通りだった事は言うまでもない。

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@fusagikosan それどころか遠藤三郎の秘書となった俊博は、選挙応援に参じた遠藤の娘の舅である杉原荒太と意気投合し、1963県議選の時にはその杉原が俊太郎の応援のために来坊するというという挙にまで出て、俊太郎の支援者らの俊博に対する期待を高めた。この選挙でも俊太郎は勝った

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1月31日(日)のつぶやき その1

2016-02-01 | ツイート

~⊂'"゛`づ,゜Д゜彡つ<昨日のゆるりん?祭りは一服の清涼剤であったとさw


~⊂'"゛`づ,゜Д゜彡つ<ゆるりん?氏の唱える橋本徹二階派論は超絶過ぎて素晴らしい論であった!


twitter.com/Lynette_Ellils… 頑固な狐面のひとになにいっても無駄やろけど、見当違いや。「総合区と大阪会議をやらせてください!」とガンガン主張しなかったことが敗因のひとつ。狐面のひとが思っているほど「総合区」になどこだわっとらんかったわ(笑)。

フサギコさんさんがリツイート | 2 RT

twitter.com/Mugu_RI/status…
こだわってなかったらそもそもやらずによかったんですよ。
そもそも対案を出せって突っつかれて出てきたのが総合区だったじゃないですか。

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~⊂'"゛`づ,゜Д゜彡つ<ここらはガンガン意見を戦わせていいと思うんですよね。もちろん大阪自民内でですけど。

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大阪会議なんてのも構造改革路線だものなぁ。それを提案したのが失敗。RT twitter.com/Mugu_RI/status…
こだわってなかったらそもそもやらずによかったんですよ。
そもそも対案を出せって突っつかれて出てきたのが総合区だったじゃないですか。@nekotausagi:

フサギコさんさんがリツイート | 3 RT

ならば竹下登、二階俊博、古賀誠、甘利明等もクリーンな政治家ということになりますが。 twitter.com/sukeju/status/…

フサギコさんさんがリツイート | 4 RT

~⊂'"゛`づ,゜Д゜彡つ<みんなクリーンだよ!w


@2petri2 みんな三木さんに比べりゃ十分クリーンですわwww


~⊂'"゛`づ,゜Д゜彡つ<二階俊博の父・二階俊太郎に関する情報がネット上においては皆無の状況であり、概略だけでも記載しなきゃいけないのかな?と勝手に思っている次第。

但しwikipediaには書かない。ちゃんと書いても不都合な人が必死に訂正してくるんでw

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@fusagikosan 二階俊博の父・二階俊太郎は1900年和歌山県西牟婁郡の日置川中流域で農業を営んでいた二階儀三郎の長男として生まれる。

二階家は農業とは言うものの山間部の僅かな土地だけでは成り立つ筈もなく、養蚕やら材木切り出しの手伝い等を行って生計を立てていた様である。

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@fusagikosan 当時の暮らし向きが決して楽ではないことは容易に想像がつく訳で、二階家の長男として誕生した俊太郎には三人の弟がいたが、いずれも養子に出され、二階姓を名乗るのは俊太郎の家のみという様であった。

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@adjacencypair あ~あ、やはり今もそういう業界があるんですね~。

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@fusagikosan われわれの業界では両親の三代前にはさかのぼらないとその人のことはわからないと言われていますw

フサギコさんさんがリツイート | 1 RT

@fusagikosan そういった家の事情もあり、俊太郎は向学心はあったものの尋常小学校を卒業すると職につかなければならなかった。だが、その心には世の中という大海原に乗り出さんとする強い想いがあった。

俊太郎は日米航路の船上員となったのである

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@adjacencypair 分かりますです。環境は大きく作用しますもんね!

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@fusagikosan あ,出自差別とかそういう意味ではないです。その人を形成している精神的背景を知る必要がある,みたいなコトです。二階さんはいかに^^

フサギコさんさんがリツイート | 1 RT

@fusagikosan 強い外への憧れを日米航路の船上員という仕事は満たすものであっただろう。ところが程なくして不幸が訪れる。病気で船を降りなければならなくなったのである。

失意の俊太郎は実家に戻ることとなった。だが、こんな事で諦めるような俊太郎ではなかった。

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@fusagikosan 病状が回復すると、今度は大阪に出てきて中山製鋼所に勤める。ところが程なくして再び発症し、職を辞して故郷に戻らねばならなくなってしまう。

俊太郎は母・加津の「故郷に残って欲しい」という懇請を受け入れ、以後家業である農業と養蚕業の傍ら筏師として働く。

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@fusagikosan しかし俊太郎の心には外への強い想いが失せることはなかった。この頃既に農作業の合間に演説の練習をしていたという。政治に対し期すべきものが既にあったのである。

そんなおり転機が訪れる。母校の代用教員にならないかとの誘いがあった。

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@fusagikosan 小学校の成績優良で外への見聞があるというのが事由であった。俊太郎は21歳、一つ返事で了解したという。こうして俊太郎は代用教員となり、故郷の子弟の教育を担う事になった。

また母校では教鞭の傍らテニスを教えていたそうで、なかなかハイカラな一面もあった。

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@fusagikosan 晴れて代用教員を勤めていた俊太郎に更なる話が舞い込んでくる。田辺に拠点を置く紀伊新報社が御坊支局員の退社に伴ってその後釜を探している、という話であった。
二階俊太郎は記者経験など皆無であったが躊躇なく手を挙げ、採用が決まり、新聞記者として御坊の地を踏む。

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@fusagikosan 退社予定の御坊支局の記者は、当初この未経験の素人記者の赴任に驚いたそうであるが、新任記者の俊太郎に一ヶ月間付き添って業務を引き継いだという。

事実上、俊太郎は体当たりの実戦経験のみで記者という仕事を覚え、同郷の家の世話になりながら御坊で暮らした。

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