1月31日(日)のつぶやき その1

2016-02-01 | ツイート

~⊂'"゛`づ,゜Д゜彡つ<昨日のゆるりん?祭りは一服の清涼剤であったとさw


~⊂'"゛`づ,゜Д゜彡つ<ゆるりん?氏の唱える橋本徹二階派論は超絶過ぎて素晴らしい論であった!


twitter.com/Lynette_Ellils… 頑固な狐面のひとになにいっても無駄やろけど、見当違いや。「総合区と大阪会議をやらせてください!」とガンガン主張しなかったことが敗因のひとつ。狐面のひとが思っているほど「総合区」になどこだわっとらんかったわ(笑)。

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twitter.com/Mugu_RI/status…
こだわってなかったらそもそもやらずによかったんですよ。
そもそも対案を出せって突っつかれて出てきたのが総合区だったじゃないですか。

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~⊂'"゛`づ,゜Д゜彡つ<ここらはガンガン意見を戦わせていいと思うんですよね。もちろん大阪自民内でですけど。

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大阪会議なんてのも構造改革路線だものなぁ。それを提案したのが失敗。RT twitter.com/Mugu_RI/status…
こだわってなかったらそもそもやらずによかったんですよ。
そもそも対案を出せって突っつかれて出てきたのが総合区だったじゃないですか。@nekotausagi:

フサギコさんさんがリツイート | 3 RT

ならば竹下登、二階俊博、古賀誠、甘利明等もクリーンな政治家ということになりますが。 twitter.com/sukeju/status/…

フサギコさんさんがリツイート | 4 RT

~⊂'"゛`づ,゜Д゜彡つ<みんなクリーンだよ!w


@2petri2 みんな三木さんに比べりゃ十分クリーンですわwww


~⊂'"゛`づ,゜Д゜彡つ<二階俊博の父・二階俊太郎に関する情報がネット上においては皆無の状況であり、概略だけでも記載しなきゃいけないのかな?と勝手に思っている次第。

但しwikipediaには書かない。ちゃんと書いても不都合な人が必死に訂正してくるんでw

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@fusagikosan 二階俊博の父・二階俊太郎は1900年和歌山県西牟婁郡の日置川中流域で農業を営んでいた二階儀三郎の長男として生まれる。

二階家は農業とは言うものの山間部の僅かな土地だけでは成り立つ筈もなく、養蚕やら材木切り出しの手伝い等を行って生計を立てていた様である。

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@fusagikosan 当時の暮らし向きが決して楽ではないことは容易に想像がつく訳で、二階家の長男として誕生した俊太郎には三人の弟がいたが、いずれも養子に出され、二階姓を名乗るのは俊太郎の家のみという様であった。

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@adjacencypair あ~あ、やはり今もそういう業界があるんですね~。

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@fusagikosan われわれの業界では両親の三代前にはさかのぼらないとその人のことはわからないと言われていますw

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@fusagikosan そういった家の事情もあり、俊太郎は向学心はあったものの尋常小学校を卒業すると職につかなければならなかった。だが、その心には世の中という大海原に乗り出さんとする強い想いがあった。

俊太郎は日米航路の船上員となったのである

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@adjacencypair 分かりますです。環境は大きく作用しますもんね!

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@fusagikosan あ,出自差別とかそういう意味ではないです。その人を形成している精神的背景を知る必要がある,みたいなコトです。二階さんはいかに^^

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@fusagikosan 強い外への憧れを日米航路の船上員という仕事は満たすものであっただろう。ところが程なくして不幸が訪れる。病気で船を降りなければならなくなったのである。

失意の俊太郎は実家に戻ることとなった。だが、こんな事で諦めるような俊太郎ではなかった。

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@fusagikosan 病状が回復すると、今度は大阪に出てきて中山製鋼所に勤める。ところが程なくして再び発症し、職を辞して故郷に戻らねばならなくなってしまう。

俊太郎は母・加津の「故郷に残って欲しい」という懇請を受け入れ、以後家業である農業と養蚕業の傍ら筏師として働く。

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@fusagikosan しかし俊太郎の心には外への強い想いが失せることはなかった。この頃既に農作業の合間に演説の練習をしていたという。政治に対し期すべきものが既にあったのである。

そんなおり転機が訪れる。母校の代用教員にならないかとの誘いがあった。

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@fusagikosan 小学校の成績優良で外への見聞があるというのが事由であった。俊太郎は21歳、一つ返事で了解したという。こうして俊太郎は代用教員となり、故郷の子弟の教育を担う事になった。

また母校では教鞭の傍らテニスを教えていたそうで、なかなかハイカラな一面もあった。

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@fusagikosan 晴れて代用教員を勤めていた俊太郎に更なる話が舞い込んでくる。田辺に拠点を置く紀伊新報社が御坊支局員の退社に伴ってその後釜を探している、という話であった。
二階俊太郎は記者経験など皆無であったが躊躇なく手を挙げ、採用が決まり、新聞記者として御坊の地を踏む。

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@fusagikosan 退社予定の御坊支局の記者は、当初この未経験の素人記者の赴任に驚いたそうであるが、新任記者の俊太郎に一ヶ月間付き添って業務を引き継いだという。

事実上、俊太郎は体当たりの実戦経験のみで記者という仕事を覚え、同郷の家の世話になりながら御坊で暮らした。

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