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先人樹を植え、後人その下に憩う

桃山病院と殉職者慰霊碑

2021-05-06 18:29:55 | まちづくり
コロナウイルスの蔓延拡大、医療逼迫が連日報じられ、2021年5月7日現在、大阪はじめ第3次の「緊急事態宣言」下にあります。
とりわけ、大阪にあっては、第1波、第2波、第3波の状況の中で、「都構想」投票とか、「都構想」擬き条例に熱中した維新府市首長が、コロナ禍対策を怠ったことの結果であることは明らかであります。
特に保健・医療行政においては、目玉政策的に統廃合を強行し、顧みることなく疲弊させてきた事実は、枚挙にいとまがありません。
大阪市制施行(明治22[1889]年4月1日)より2年早く、明治20年3月に、桃山筆ヶ崎(現天王寺区)の地に避病院として開設した「桃山病院」①が、昭和12[1937]年5月7日に、創立50周年の記念式典を挙行し、「殉職者慰霊碑」②が本院の前庭に建立されることとなり、翌昭和13年3月19日に除幕式並びに慰霊祭が行われています。
その慰霊碑が、平成5[1993]年12月1日開院の「大阪市立総合医療センター」(都島区)に感染症センターとしての「桃山病院」も、併設する「桃山市民病院」(昭和21[1946]年開院)と共に、統合されてしまい、跡地はマンションとショッピングセンターに、その残地の片隅③④に移設されてしまっています。
昨年のお盆の「大坂七墓めぐり」で、この「慰霊碑」を案内していただきました。題号は篆書体ながら「殉職者慰霊碑」と判読できましたが、裏面の碑文は判読叶わず、医療センターや市健康局に問い合わせるも、判明しませんでした。
旭図書館職員の方にお世話になり、「大阪市立桃山病院創立七十周年記念誌」(昭和32年11月20日発行)⑤や「醫事公論」(昭和13年4月2日)等の資料を教えていただくも、確固たる碑文の解明にはいたりませんでした。
碑文を写真に撮るも読み解けず、市保健局の許可をいただいた上で、「河内の郷土文化サークルセンター」所属の「中河内拓本クラブ」の方に採拓⑧⑨していただき、旭図書館で「五体字類」「漢和大辞典」により、漸くルビ振り⑥と意訳⑦を試みることができました。
このところの「コロナ禍」対応での医療現場の逼迫状況を思うに、かかる「殉職者慰霊碑」の顕彰を改めて、思いを馳せるところです。
令和3(2021)年5月7日


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