囲碁漂流の記

週末にリアル対局を愉しむアマ有段者が、さまざまな話題を提供します。初二段・上級向け即効上達法あり、懐古趣味の諸事雑観あり

奇人変人の系譜

2019年05月24日 | ●○●○雑観の森

 

終身制名人の言動の巻】


■現在の「名人」は主要タイトルの一つで「七番勝負を4勝した者」に与えられる称号だが、旧「名人」は囲碁界における政治・経済の最高権力者だった。寺社奉行から許しを得た「碁界の取りまとめ役=名人碁所」は官職であり、全棋士の生命線「段位認定権」を独占していた。この地位を巡る死闘、暗闘は数知れず、今日の政治闘争と変わりない。
 
■江戸から昭和初期は「九段が即名人」であり、天下にただ1人。数人あるいは空位の「八段」は準名人、御城碁出場権のある「七段」は上手(じょうず)と呼ばれ、これらは今の「三大リーグ入りの一流棋士」に相当した。
 
■旧「名人」は10人しかいない。空位期間は、家元筆頭の本因坊家が「とりまとめ役」を務めた。ちなみに囲碁では名人を「〇代名人」などと代数で呼ぶことはない。
 
■歴代名人(終身制名人)
本因坊算砂(さんさ)  1559~1623
中村道碩(どうせき)  1582~1630
安井算知(さんち)   1617~1703
本因坊道策(どうさく) 1645~1702
井上道節因碩(いんせき)1646~1720
本因坊道知(どうち)  1690~1727
本因坊察元(さつげん) 1733~1788
本因坊丈和(じょうわ) 1787~1847
本因坊秀栄(しゅうえい)1852~1907
本因坊秀哉(しゅうさい)1874~1940
 
         ◇
 
■こうしてみると、江戸期8人、維新後2人だけ。文献によると、なかなかの奇人変人ぞろいである。
 
■「名人の中の名人」と畏敬された秀栄の逸話は、とりわけ数多く残っており、興味深い。その一部を紹介するとーー。
 
・スポンサー徳川家を失った維新後の碁界は、政財界からの支援で食いつないでいる状態。特に財閥からの出資に頼っていた。当時の豪商の妻、高田民子夫人から多額の出資を受けていた秀栄だったが……。
 
・秀栄が夫人宅に代稽古にやっていた野沢竹朝は師匠以上の奇行の持ち主。夫人が「野沢という新弟子は無作法だから断ったらどうです」と忠告した。これに秀栄が激怒。「いかに恩人とはいえ、芸道に云々するとはもってのほか。芸の神聖や自分の見識は売り物にしない」。それっきり高田家に誰も行かせず、月謝も取りにいかず、経済的困窮に陥った。
 
・維新後の最高権力者、時の参議・大久保利通の「清貧」を敬い、大久保宅に出入りしていた。ある時、他の碁打ちがやってきて、秀栄十八番の辛辣な皮肉が炸裂する。「お前、ご祝儀がほしいなら、この家にきてもダメだよ」。かたわらに人があるにもかかわらず、ズケズケとやったものだ。
 
・若い頃、秀栄が「浅草の玉乗り」に感心して熱心に見物していた。それを知人が見つけ、怪しんだ。秀栄曰く「何事も名人となるには、一種言うべからざる面白味がある」。
 
・市井の碁会所をしばしばのぞいていた。「高段者の碁は規矩縄墨(きくじょうぼく)に従っていて、面白味がない。素人の碁は、時にはかり知るべからざる妙想がある」と真顔で話していた。
 
・李氏朝鮮後期の政治家で日本亡命中の志士・金玉均と親交があった。福沢諭吉の支援を受けた人物だったが、当時の日本政府は外交上の負担と考え、各地を転々させられていた。遠く八丈島に流された時は、便船に頼って訪ねて慰めた。ともに革命児的性格により肝胆相照らす仲。後の本因坊秀哉となる田村保寿が、秀栄の門に入ったのは、金玉均の口添えによるものだった。
 
・平明で美しい打ち回しの棋譜と、破天荒な言動とのギャップ。逸話から垣間見えるのは、金力権力に対しては反逆児、芸事に対しては常に真理創造を追求せんとする常識破壊の革命児だったことか。名人の中の名人の気迫である。
 

 


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