「本人の中でも、『うまく治るんじゃないか、痛みが消えるんじゃないか』とか、起きたときに『とんでもない事故になったわけではない』と厳しく考えていなかったと思う。数日間、悩んだと思う。不慮の事故という形になる」
中日ドラゴンズ・与田剛監督は残念そうな表情でコメントしました。
もう、ニュースになって何日も経っていますが、キャンプで(なくても)あってはならないことが起こってしまいました。移籍2年目で完全復活を目指す松坂大輔選手が右肩違和感のため、しばらくノースロー調整で様子を見ると、2月11日に球団が発表。しかも、その理由が、「ファンに右手を引かれたこと」だったというのです。そのアクシデントが発生したのは、発表のあった数日前のことと思われます。ドラゴンズのキャンプ地はブルペン横に投手陣のロッカーがあり、球場の三塁側通用口に移動するようになっています。この20mほどの通路は、出待ちのファンが並び、ファンが手を伸ばし、選手も気軽にタッチしながら移動する光景が見られます。そこで、手を強く握られたのか、松坂選手は右腕を後方に引っ張られるような形になり、肩に軽い違和感を覚えたとのことだそうです。
今回の松坂選手のケガが非常に気になるのは、プレー以外でケガしてしまったことです。プレー以外でのケガで思い出す選手がいます。
中里篤史さん(中日ドラゴンズ→読売ジャイアンツ)はプロでの通算成績は実働6年間で34試合に登板し、2勝2敗、防御率4.65とこの数字だけ見れば、とても活躍した選手とは思えません。ただ、その全盛期のピッチングの150km/h前後の浮き上がるようなストレートは個人的に上原晃さん、森田幸一さんと並ぶ5本の指に数えられる“私が興奮したドラゴンズの伝説ピッチャー”です。
中里さんの出身校は強豪の埼玉・春日部共栄高ですが、甲子園の出場歴はありません。高校三年夏の埼玉大会では、当時夏の甲子園で最多タイ記録を出した浦和学院高の坂元弥太郎さん(元ヤクルトスワローズなど)と決勝で投げ合い、延長の末に敗れています。
二年秋には5回参考記録ながら全15のアウトを三振で奪う完全試合を達成するなど、2000年のドラフト1位で中日ドラゴンズに指名され入団しました。1年目から二軍のローテーションに定着し、リーグ3位タイとなる7勝をマークしてフレッシュオールスターでも好投。シーズン終盤には一軍で2試合に先発し、順調にプロ生活をスタートさせました。
しかし、そんな中里さんを悲劇が襲います。2年目の春季キャンプで宿舎の階段から転倒しそうになり、とっさに手すりを掴んだ際に利き腕の右肩が引っ張られてケガしてしまいました。その後2年間はリハビリで登板なし。2005年にリリーフでプロ初勝利をマークしたものの、その後も故障が続いて9年目の2009年にドラゴンズを戦力外となり退団。翌年からは読売ジャイアンツに移籍したものの、2年間で一軍登板は2試合に終わり、2011年に引退となりました。現在はジャイアンツでスカウトをしています。
同様にプレー以外のケガで悲運に見舞われた選手は他にもいます。中谷仁さん(元阪神タイガースほか)は、和歌山・智弁和歌山高の三年時には主将として夏の甲子園で優勝。超高校級の強肩と強打が評価され、1997年のドラフト1位で阪神タイガースに入団しました。1年目から二軍で経験を積み、将来の正捕手として期待されていましたが、そんな矢先の2年目に他人が投げた携帯電話が左目を直撃して失明寸前という重傷を負ってしまいます。その後のリハビリにより、捕手としてプレーするのに支障がないほどに回復したものの、その間にトレードで加入した選手や若手の台頭もあり、タイガースに在籍した8年間に一軍でプレーしたのは2002年の17試合だけでした。
その後、中谷さんは2005年オフに東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍し、2011年オフに戦力外となった後は合同トライアウトを経て、読売ジャイアンツに入団するも2012年を最後に引退。15年間のプロ生活でヒットはわずか28安打に終わりましたが、イーグルス時代の2009年にはキャリアハイの55試合に出場して4割近い盗塁阻止率を記録するなど、まだまだ強肩には定評がありました。現在は母校の智弁和歌山高にコーチとして復帰し活躍しています。
どの選手も素晴らしい才能を持ちながら不慮の事故によるケガによって、その才能を開花させることなく野球人生を終えてしまった選手です。もし、ケガがなかったとしたら、どれだけの記録を残していたのかは分かりません。
今回、松坂選手がファンとの交流における不運な出来事によって、選手生活の終焉を迎えることだけにはなって欲しくないと祈りたいです。また、このようなことが一件でも少なくなることを願いたいです。