一休さんというと、♪ すきすきすきすき すき すきあいしてる すきすきすきすき すき すきいっきゅうさん ♪という、とんちで有名な子どもの頃の一休さんをイメージしますが、 「オトナの一休さん」という番組が放送されていました。みなさん、「オトナの・・・」と言うことで変な番組を想像してはいけません。Eテレがリアル一休さんのエピソードを、史実を基にアニメ化した、クソ真面目な番組です。
第一則「クソとお経」、第二則「すずめの葬式」は既に放送が終わっており、今日は第三則「思春期の一休さん」が22時45分からが再放送されます。
その前に実はとんちで有名な子どもの一休さんは実在しないのです。ですが、一休さんは室町時代に実在した臨済宗の禅僧という、とんちのような話があります。
一休さんが生まれたのは1394年。その2年前までは、それまで約60年間にわたって吉野(奈良県)と京都と南北に分かれて対立してきた南北朝(二つの朝廷が本家争いをしていた)時代が和議したばかりでした。で、当の一休さんは北朝の後小松天皇のご落胤との説があります。そして、一休さんの母上さま南朝に仕えていた貴族の娘という家系です。そのため、反逆を皇后に疑われたがために宮中を追われたと伝えられています。幼い頃は「千菊丸」といい、6歳にして安国寺に入門すると「周健」の名が与えられ、17歳のとき西金寺(さいこんじ)の謙翁の弟子となると「宗純」と名づけられました。道号の「一休」は、このあと禅興庵(祥瑞寺)の華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となり、師から与えられた公案を解いた際に授けられたものです。このとき一休さんは25歳。ですから、とんち小僧の一休さんは本当は実在しないということになります。
ちなみに、新右衛門さんこと蜷川新右衛門親当(ちかまさ)さんも実在した方で、代々、足利氏に仕える家柄に生まれ、主に財政管理と領民訴訟を司る事務方「政所公役(まんどころくやく)」に従事して長官である執事の執務代行職「政所代(まんどころだい)」を務めた官僚です。室町幕府六代将軍・足利義教さんのもとで右衛門少尉という役職でしたが、1441年の義教暗殺事件(嘉吉の乱)ののち出家しました。これと前後して禅宗に帰依し、「智薀(ちうん)」という法名と「五岑(ごしん)」という道号を禅僧から授けられました。この頃に一休さんとの交流があったと言われています。一休さんとは歌の形で禅問答を交わした「道歌問答」を残していて、「門松は冥途の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし(ある年の正月にドクロを竹に掛けて京の町々を歩いたという話)」という歌があり、この歌に対して「馬かごもなく泊り屋もなし」と下の句違いの歌があります。どうでもいいことですが、格闘家の武蔵さんはこの蜷川家の子孫になりますが、祖父が婿養子に入ったために傍系血族に位置することから「第26代蜷川新右衛門」とは呼べず、曽祖父で約800年続いた蜷川家直系23代の系譜は断絶しているそうです。
それでは一休さんと新右衛門さんのお話しをどうぞ。
話を戻して、EテレHPには次のように各話が紹介されています。
第一則「クソとお経」
弟子たちが読経をしているところに現れた一休さん。持ってきたのは、まだ湯気が立っているクソ。その下にはなんとお経が。新右衛門さんが驚き、兄弟子が激怒すると、一休さんはフンと鼻を鳴らして言った。「無縄自縛だな」。いったい一休さんは何を伝えようとしたのか?窮屈な社会に生きる現代人に、喝!
第二則「すずめの葬式」
涙を流しながら読経する一休さん。誰の葬式かと新右衛門さんがいぶかると、なんとかわいがっていたすずめの葬式だった。兄弟子が「諸行無常というではないか」と説教すると、一休さんはいきなり兄弟子の鼻をひねりあげた。いったい一休さんは何を伝えようとしたのか?喜怒哀楽をガマンしがちな現代人に、喝!
第三則「思春期の一休さん」
新右衛門さんが一休さんのとんち小坊主エピソードをたずねると、兄弟子はそんなものは皆作り話だと否定。では本当の一休さんはどんな少年だったのか? 兄弟子は多感な思春期の一休さんのリアルエピソードを話しはじめる。純情いちずな一休さんが詩で訴えたかったこととは? 純粋さを失いがちな現代人に、喝!
子どもの頃の一休さんはもちろん良いですが、大人になった一休さんの話も良いです。
現代社会に生きる私たちは、何かありがたいといった時点で何かに自ら縛りつけてしまうことになります。世間や常識、ありもしない縄にしばられず、自分の答えを見つけなければいけませんよね。