10月31日の朝のニュースで知りましたが、この日の未明に沖縄県那覇市の首里城正殿で火災が発生し、ほぼ全焼してしまいました。とても残念なことです。ただ、これまでのところ、ケガ人は発生していないということだけは、幸いなことです。
今年の2月に沖縄へ行った初日、首里城を見学することを楽しみにしていたのですが、ひめゆりの塔と平和祈念公園へ行き、最後に首里城へと向かいましたが、到着時間とちょうどに閉園時間を迎えてしまいました。
よって、写真はこれだけにして、次回来た時のお楽しみとして、首里城を後にしていたこともあり、今回のことは残念でなりません。
しかし、私以上に、沖縄の方々にとって想像以上のショックな出来事だと思います。
首里城は1429年から1879年までの約450年間、琉球王国の中心的な城で、政治と文化の中心でした。
国王とその家族が居住する「王宮」であると同時に、王国を統治する行政機関である「首里王府」の本部でもありました。沖縄各地に配置された神女たちをつうじて、王国祭祀を運営する宗教上のネットワークの拠点でもありました。首里城とその周辺では芸能・音楽が盛んに演じられ、美術・工芸の専門家が数多く活躍していました。
鮮やかな朱色が印象的な首里城は、内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成していました。そこには、中国と日本の築城文化が融合された独特の建築様式や石組み技術が用いられていて、今回焼失した正殿や南殿、北殿にも中国と日本の建築文化の影響が見られました。
琉球王国は、1429年に尚巴志(しょうはし)さんが琉球(沖縄本島)を統一。当時の明(中国)に朝貢し、王に任命してもらう冊封体制に入りました。しかし、1609年、薩摩藩が3000人の軍勢を持って侵攻し、首里城を占拠。以後、表向きは明の支配下にありながら、実情は薩摩藩と徳川幕府の従属国であるという微妙な国際関係の中で形式的には独立国家として存続していました。1853年には浦賀を訪れる前のペリーさんが来航し、首里城を訪問していました。
日本の幕藩体制に組み込まれたが、中国への朝貢も継続。1879(明治12)年に。
日本に明治政府が誕生すると、1872年には琉球藩が設置され、琉球国王の尚泰 (しょうたい) が藩主となった。一方、清(中国)も、琉球王国に対する宗主権を主張。1879年、明治政府が王国を解体、沖縄県を設置する琉球処分を断行し、首里城明け渡しとともに琉球王国は崩壊し、沖縄県が誕生するとともに、清との臣従関係は終わりました。
沖縄県となった後、首里城は日本軍の駐屯地などに利用されました。1925年には首里城の正殿が国宝「沖縄神社拝殿」に指定され、昭和の大改修が行われましたが、1945年の沖縄戦で焼失。戦後は跡地が琉球大学のキャンパスになったが、1992年に本土復帰20周年を記念して国営公園として復元された。
戦後、跡地は琉球大学のキャンパスになりましたが、1980年代前半の大学移転後に復元事業が行われ、1992年に本土復帰20周年を記念して、正殿など旧来の遺構を埋め戻す形で国営公園として復元されました。
1993年にはNHK大河ドラマ「琉球の風」の舞台になり、1999年には都市景観100選を受賞しました。
2000年12月、「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」として世界遺産に登録されますが、登録は「首里城跡」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではありません。
同年には「九州・沖縄サミット」の社交夕食会が開かれ、二千円札にも描かれています。
また、2020年の東京オリンピックの聖火リレーでは、首里城公園が出発地点となることが決まっています。
実は首里城の焼失は史上5度目となるそうです。1度目は1453年、王位をめぐる争いによって全焼。2度目は1660年、3度目は1709年に火災に見舞われています。4度目が1945年の沖縄戦です。再建にはそれぞれ、10年以上の時間を要しました。
首里城は沖縄の文化や伝統、歴史が凝縮した、日本の世界遺産というよりも、ウチナンチュ(沖縄人)の心のシンボルです。
首里城の復興・再建については、すでに多くの話が挙がっています。再建を心待ちにしています。