♪ ひとり上手とよばないで 心だけ連れてゆかないで
わたしを置いてゆかないで ひとりが好きなわけじゃないのよ
ランディ・ジョンソンさん(サンフランシスコ・ジャイアンツほか)は2001年ワールドシリーズ第6戦で勝利投手になり「明日も投げる気はあるか?」と問われ、「当たり前じゃないか」と答えた。「子どもの頃、いつもワールドシリーズの最終第7戦で投げる自分を夢想しながら壁に向かってボールを投げていたんだ」。そして、第7戦に実際に救援で連投、優勝に導いた。
オジー・スミスさん(セントルイス・カージナルスほか)が野球殿堂入りした2002年に行った受賞演説で「幼い頃、数限りないワンマン・ベースボール(一人野球)で遊んだ」と語っていた。「ボールを屋根に放り上げ、戻ってくるところを捕球する。最初のグローブはスーパーの紙袋だった」目をつぶったまま放り上げて捕球できるようになった頃、メジャーリーグの夢を抱くようになった。
MLBのロサンゼルス・ドジャースのキャンプ地だったフロリダ州ベロビーチには練習用の壁がありました。これはマイナー最下部のドミニカ共和国の野球学校にも同じ壁を設けているそうです。また、ニューヨーク・メッツのキャンプ地のポートセントルーシーにも丸印をつけた壁があるそうです。
詩人の平出隆さんは著書「白球礼賛」(岩波新書)に「ひとりぼっちの西鉄-南海」として、自宅アパートの壁が「あっという間に熱狂のスタジアムに変貌する」と書かれています。段差で打球が変化したり、記録帳を作っていました。「試合は9回裏、2対1で南海リード」…耳の中の実況放送では西鉄ライオンズ・稲尾和久さんと南海ホークス・杉浦忠さんの両エースの投げ合いになってました。
元・阪神タイガースの監督も勤められた吉田義男さんはタイガース若手時代、阪神甲子園球場の外野フェンスの壁当てでゴロ捕球と送球練習を繰り返したそうです。さらに、地面にデコボコのトタン板を敷いて、不規則バウンドに対応する特訓も行っていました。
壁に書いた四角の枠。その大きさは自分が勝手に描いたもの。
その壁から、自分で作ったマウンドまでの距離も適当なもの。
小さいころから使っていたグローブと、つるつるになったボールがチームメイト。
それこそ数え切れないほどボールをぶつけていました。もちろん、投球制限などはないため、時には一人で2チーム分を完投することもあった。
投げたボールのコースや壁に当たった時に音の大きさで、ホームラン、3ベース、2ベース、ヒットや外野フライ、内野ゴロを自分で判定。厳しいコースへ投げられた会心のボールのときには三振をさせることもある。もちろん、誤審も多々あった。
頭のなかでは野球の実況生中継が放送されており、自分の名前を伝えている。
そんな「一人野球」を放課後や日曜日には日が暮れるまで楽しむのが日課だった。
そんな自分だけの小さなブルペンは近所の人が良くとおる小道の側にあった。
だから人が多くとおる時間帯には、もう一つの野手養成グラウンドへ行く。
こちらは凸凹の壁のため、投げたボールがどこに跳ね返ってくるか判らない。また、壁までの距離が短いから、投げたボールはすぐに跳ね返って来るので休む暇もない。ここのアスファルトの小さなグラウンドではほとんどの試合が乱打戦だった。
少年野球チームもないようなこの街に転校して来たばかりで、まだ友だちも少ない自分にとっては、フィールド・オブ・ドリームであった。
そんな妄想を心に抱きながら、一人で壁にボールを投げ続けていたというのは、当時でも恥ずかしいことであり、誰にも言うことはなかった。
読んだ本や聞いた話に、自分と同じように少年時代に一人野球に興じた人が多いことに驚いた。
大人になってから、その場所に行った。ブルペンはなくなっていましたが、アスファルトの小さなグラウンドは、そのまま残っていました。自分が大きくなったこともあり、グラウンドがやけに小さく思えた。