野球小僧

ハーリー・レイス / 美獣

米国の元・プロレスラー、ハーリー・レイスさん(本名ハーリー・レランド・レイス)が8月1日(日本時間2日)に亡くなりました(1ヶ月以上も経っての話ですみません)。

ハンサムと名乗り、日本では美獣、ミスター・プロレスなどと呼ばれて尊敬されたレイスさんは元世界ヘビー級王者スタニスラウス・ズビスコさんらの指導を受けて、1960年にプロレスデビュー。ダイビング・ヘッドバッド、パイルドライバーなどを得意とし、1965年にはラリー・ズビスコさんとのタッグでAWA世界タッグ級王座を獲得しました。

1973年にドリー・ファンク・ジュニアさんを破って当時世界で最も権威のあったNWA世界ヘビー級王座を奪取。同王座を通算8度奪取し、1978年にはWWWF(現WWE)ヘビー級王者スーパースター・ビリー・グラハムさん、1980年にはWWF(現WWE)世界ヘビー級王者ボブ・バックランドさんと2度、王座統一戦も行いました。1986年にWWFに移籍。1995年に引退し、2004年にはWWEの殿堂入りしました。

来日経験も豊富で、1968年に日本プロレスに初参戦。1973年からは全日本プロレスの常連となり、1978年と1980年の2度、ジャイアント馬場さんにNWA世界ヘビー級王座を奪われましたが、短期間で取り返すなど名勝負を繰り広げ、ジャンボ鶴田さん、ミル・マスカラスさんらとも防衛戦を行いました。

レイスさんは、町の不良少年がスポーツで更正し、世界チャンピオンになるという、まさしくアメリカンドリームのような道を歩んできました。

15歳のときに高校の先生を殴って退学になりました。退学した後、家出少年同然だったレイスさんは昼間は伝説のレスラー・スタニスラウス・ズビスコさんの農場で働き、夜になるとズビスコさんからレスリングを習うという生活を送りました。子どものころからテレビでレスリング・フロム・マリゴールド・ガーデン・イン・シカゴ(ドゥモン・ネットワーク)を観ていたからプロレスは大好きでした。

16歳の誕生日の数週間まえにカンザスシティーのプロモーター、ガスト・キャラスさんに雑用係として雇われました。体重800ポンドの超巨漢レスラー、ハッピー・ハンフリーさんを乗せるトラックの運転とハンフリーさんがシャワーを浴びるのを手伝うのが仕事でした。そして、プロレスの試合会場に出入りするようになって、キラー・バディ・オースチンさんからプロレスの基礎を教わり、1959年に16歳で初めてプロレスラーとしてリングに上がるようになります。

カンザスシティーのあとはテネシー州ナッシュビル、ナッシュビルのあとはテキサス州アマリロへと流れていきます。そのアマリロで、レイスさんはまだ大学生だったドリー・ファンクさんとハイスクールを卒業したばかりのテリー・ファンクさんのファンク兄弟とよくいっしょにトレーニングをしました。

プロモーターのドリー・ファンク・シニアさんは、天然のカーリーヘアとアゴの形がよく似ているという単純な理由で、レイスさんとラリー・ヘニングさんにタッグチームを組ませます。“ハンサム”ハーリー・レイスさん&“プリティ・ボーイ”ラリー・ヘニングさんはコンビ結成から2年後にヘニングさんのホームタウンのミネソタに転戦し、1965年1月30日にディック・ザ・ブルーザーさん&クラッシャー・リソワスキーさんの実力派コンビを下してAWA世界タッグ王座を手に入れます。

このとき、おそろいの黒のロングタイツをはいたレイスさん&ヘニングさんのコンビはその後、AWA世界タッグ王座を通算4回獲得していますが、現役時代のレイスさんは時代、キャリア、ステージごとにそのビジュアル・イメージを微妙に変化させていきました。

ドリーさんから初めてNWA世界王座を奪ったときは、短いブロンドヘアに花柄のショートタイツというスタイルで、それから4年後にテリーさんを下して2度めのNWA世界王座についたときは孫悟空型のブラウンのショートヘアにイエローのストライプの入った黒のショートタイツを愛用していました。1980年代からは白髪まじりのカリーヘアに口ひげ、あごヒゲを伸ばし、無地のブルー、レッドのショートタイツと同色のロングガウンを愛用するようになりました。

レイスさんがNWA世界王座について長期政権を築いた1977年から1981年までの5年間(途中、1979年にダスティ・ローデスさん、1979年と1980年にジャイアント馬場さん、1981年にトミー・リッチさんに敗れ王座を失うが、いずれも短期間で王座奪回)は、巨大カルテルNWAが全米各地のNWA加盟団体をコントロールした最後の時代でした。

レイスさんは場所、対戦相手、シチュエーションによってヒールもベビーフェースも演じる世界チャンピオンとして、ほぼ毎日のように60分フルタイムのタイトルマッチをこなしつづけていました。年間300試合のスケジュールをいちども苦しいと思ったことはなかったそうです。

全日本プロレスの常連外国人選手でもあったレイスさんは、ジャンボ鶴田さんからUNヘビー級王座(1982年8月1日)、ジャイアント馬場さんからPWFヘビー級王座(1982年10月26日)を奪取。そして、ニック・ボックウィンクルさん、ジェシー・バーさんなどパートナーを代えながら毎年のように世界最強タッグリーグ戦にも出場していました。

その後、WWEへと移籍。王冠をかぶりロイヤル・パープルのケープを身にまとった“キング”ハーリー・レイスとして、リングに上がり、1995年に引退し、1999年にレスリング・スクール“ハーリー・レイス・アカデミー・オブ・プロフェッショナル・レスリング”を開校し、スクールの卒業生レスラーたちが活動するリングとして独立団体WWL(ワールド・レスリング・リーグ)を運営していました。

現役時代の得意技はオールドファッションなバーティカル・スープレックス(ブレーンバスター)、トップロープからのダイビング・ヘッドバット、ダウンした相手の額への鋭角的なニードロップ、サウスポー・スタイルのパンチでした。

ご冥福をお祈りいたします。


コメント一覧

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eco坊主さん、こんばんは。

まあ、私もニックネームについては?でした。

昔の長時間抱え上げるブレーンバスターは、まさしくでしたね。座布団を丸めて、真似したことがあります。もちろん、その後は3カウントを奪っていました。

この頃のプロレスは、時代なりに面白かったですし、TVのゴールデンに放送されていて、家族で観れていましたので。

東京兎壊滅事件は、関係者の心情を配慮して、書くことを辞めました(大体、こういうネタを書くと、記録がストップすることですしね)。
eco坊主
おはようございます。

あれっ、今日は新潟~群馬~東京兎壊滅事件(西村京太郎風)ではないのですか(笑)

ハーリー・レイスさん観てましたよ~
当時は何故美獣というのか不思議でしたが(笑)
あのバーティカル・スープレックスは印象的でした。
自らのお尻から砕けていくような形でしたけど、
あれが本当の”脳天杭打ち”だったんですもんね。
サウスポー・スタイルのパンチは天龍さんに引き継がれたのかしら・・・
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