八咫烏(やたがらす、やたのからす)とは、日本神話において神武東征(じんむとうせい)の際、高皇産霊尊(タカミムスビ)によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国(現在の和歌山県新宮市熊野)から大和国橿原(現在の奈良県橿原市)まで道案内をしたとされる、三本足のカラス(烏)です。よって、八咫烏は日本神話において、導きの神、太陽の化身として信仰されています。
日本神話の「東征」では、八咫烏は瀬戸内海から近畿に進もうとした神武天皇の道案内を務めたとされています。神武天皇は西から大阪に攻め入って敗れたため、太陽神である天照大神の子孫である自分たちは西から東へ日に向かうのではなく、東から西へ日を背にして攻め入るべきだと考えました。そこで八咫烏の案内により、紀伊半島を大きく迂回して、現在の新宮付近から攻め入ることにし、その後、吉野を経て橿原に行き大和朝廷を開きました。
熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏は熊野大神(素戔嗚尊)に仕える存在として信仰されており、熊野のシンボルともされています。例えば、熊野周辺をバス運行している熊野交通の社紋には八咫烏が採用されています。
孝霊天皇の御代、山でイノシシを追っていた「千代包」(ちよかね)という名の猟師がカラスに導かれて大木をみいだし、そこにみえた光に矢を向けると、「私は熊野の神である」という声が聞こえたため、その神を祀る社を建て、その宮の別当(熊野三山の管理職)になったと言われています。このときが、熊野の神が人々の前にはじめて姿を現した瞬間だと伝えられています。
八咫烏の記録は「古事記」「日本書紀」「延喜式」のほか、奈良県・キトラ塚古墳の壁画や福岡県・珍敷塚古墳の横穴石室壁画、千葉県・高部三〇号噴出土鏡、玉虫厨子(法隆寺)の台座などにみられます。
戦国時代には、紀伊国の雑賀衆を治めた鈴木家の家紋・旗ともなっています。
ちなみに、咫(あた)とは長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約18cm)のことを言い、八咫は144cmとなりますが、八咫烏の八咫は「大きい」という意味になります。
八咫烏が三本足であることが何を意味するかについては、熊野本宮大社では八咫烏の三本の足はそれぞれ天(天神地祇)、地(自然環境)、人を表し、神と自然と人が、同じ太陽から生まれた兄弟であることを示すとしています。また、かつて熊野地方に勢力をもった熊野三党(榎本氏、宇井氏、藤白鈴木氏)の威を表すともいわれています。
しかし、「古事記」「日本書紀」には八咫烏が三本足とは記述されておらず、八咫烏を三本足とする最古の文献は、平安時代中期(930年頃)の「倭名類聚抄」であり、この頃に八咫烏が中国や朝鮮の伝承の鳥「三足烏(さんそくう)」と同一視され、三本足になったとされています。1939年(昭和14年)に「天皇の命令」の形式をとる勅令第496号によって制定された従軍記章に八咫烏を用いられましたが、二本足だったそうです。
現代では、八咫烏は主に日本サッカー協会のシンボルマークおよび日本代表エンブレムのデザインに使用されている事でも知られています。このシンボルマークは、大日本蹴球協会(日本サッカー協会の前身)創設に尽力した漢文学者・内野台嶺さんらの発案を基に、彫刻家・日名子実三さんのデザインにより、1931年(昭和6年)に採用されたものです。
また、天武天皇が熊野に通って蹴鞠をよくしたことにちなみ、よくボールをゴールに導くようにとの願いが込められているとも言われています。なお、蹴鞠の名人とされる藤原成通は、五十回以上も熊野詣でをして蹴鞠上達を祈願し、熊野大神に「うしろまり」を披露して奉納したとされ、現在でも日本サッカー協会はワールドカップ等の出場前に熊野本宮大社で必勝祈願を行っています。
和歌山県の熊野本宮大社に参拝する時間がありませんでしたので、「日本三熊野」と総称され、熊野信仰の一つの熊野皇大神社(長野県北佐久郡軽井沢町)と碓井権現熊野神社(群馬県安中市)に参拝し、八咫烏の御朱印を授かってきました。
熊野皇大神社の八咫烏の御朱印は台紙の型抜き仕様になっています。
碓井権現熊野神社の御朱印です。右側に八咫烏が描かれています。
さて、今夜というか明日の未明から、ワールドカップ決勝トーナメントの日本 vs. ベルギーです。相手はFIFAランキング3位、前回大会8強という強豪国、世界のトップ3にランクされているチームにどう挑んでいくか。
今はベルギーに勝つまでの力を持っていないかもしれませんが、チーム全体で何か別の力をつくり出して戦って欲しいと思います。ここまでくれば、神頼みでも、なんでもあれです。
頑張れ!!日本代表!!