今日は第99回全国高校野球選手権の開会式です。
開会式の一番の見どころは、何と言っても大会歌斉唱でしょうけど(私の場合)、ほとんどの方が選手宣誓に注目されることだと思います。ただ、今年は早くも7月8日に東・西東京大会の開会式で、早稲田実高の清宮幸太郎選手が日本中をあっと言わせる選手宣誓をしました。別に張り合う必要はないと思いますが、多少プレッシャーはあると思います。
■2017年 早稲田実業高 清宮幸太郎主将
「宣誓。私たちは野球を愛しています。私たちは野球に出会い、野球に魅せられ、野球によって様々な経験を重ねてこの場所に立っています」
「野球を愛しています」というフレーズは、故・小林麻央さんの最期の言葉から着想を得たそうです。「好きよりも、愛しているのほうがより気持ちが伝わるじゃないですか。野球がなければ今の自分はない。愛していると同時に、野球に感謝もしています」
元々、選手宣誓は古代オリンピックが起源と言われているそうですが、近代オリンピックで1920年のオランダ・アントワープ大会から行われています。
「我々は……競技規則を守り、騎士道精神にのっとって、祖国の名誉と競技の栄光のために戦う」
なお、オリンピックの選手宣誓は、宣誓する選手が自分で考えるものではなく、大会ごとに作られる細則で定められているそうです。
高校野球では、1929年の第15回大会で慶応商工(東京、現・慶應義塾高等学校)の黒崎数馬主将が最初になるそうです。
■1929年 慶応商工(東京、現・慶應義塾高等学校) 黒崎数馬主将
「訓示の通り正々堂々戦います」
その後、戦争が近づくとともに選手宣誓の内容が変わっていったそうです。
■1938年 掛川中(静岡、現・掛川西高) 村松幸雄主将
「我等ハ武士道ノ精神ニ則リ、正々堂々ト試合シ、誓ッテ中等学校野球ノ精華ヲ発揮センコトヲ期ス」
村松主将が読み上げた選手宣誓を、出場選手が一節ごとに唱和したそうです。村松主将は後にプロ野球・名古屋(現・中日ドラゴンズ)入りしますが、1942年に召集しされ、1944年7月にグアムで戦死しました。22歳でした。「イガグリ頭の16歳の選手は、このような宣誓をせざるを得なかった」と掛川西高野球部の100年史には、このときの宣誓についてこう書かれているそうです。
戦後になってから、高校野球の選手宣誓は定型的なものが続きます。
「宣誓。われわれ選手一同は、スポーツマンシップにのっとり、正々堂々と闘うことを誓います」
この定型文をベースにしたものでしたが、絶叫調が多く、「何を言っているのかわからない」という苦情もあったそうです。
選手宣誓が変わった元祖が1982年の京都大会になるそうです。
■1982年 京都・洛星高校 青木武嗣主将
「宣誓。我々選手一同は輝く太陽のもと、体いっぱいの声を出し、体いっぱいの汗を流し、打ち、走り、守り、燃えることを誓います」
この宣誓文は監督の提案によって「本当に表現したい言葉」を野球部20人全員から募集し、そこから検討を重ねて作ったものだそうです。「決められた言葉を言うものだと思っていたので、えっ自分で決めていいの、と思った」そうです。宣誓を行った後は、観客がざわつき続けたそうです。それほど革新的な選手宣誓だったと言われています。
大きく変わったのは1984年です。この大会から「自分のことばで語るように」と方針が変わりました。
■1984年 福井・福井商業高 坪井久晃主将
「我々、選手一同は第66回全国高等学校野球選手権大会に臨み、若人の夢を炎と燃やし力強く逞しく、甲子園から大いなる未来に向かって正々堂々と闘い抜くことを誓います」
以降、野球に対する熱い想いや時代背景などが独自の言葉で語られて行きます。社会言語学を専門とする陣内正敬関西学院大学教授の研究「高校野球・選手宣誓の時代性」(2012年)で、高校野球の選手宣誓は時代別に大きく3つに大別できると分析しています。
1970年代までは、「スポーツマンシップ」「闘う」「正々堂々」などの語彙が頻出していて、「これから闘う者として意気込みのみ」が語られてきた。
1980年代以降は、「自分を客観視する視点」が生まれ、「これまでの練習の思い出、またいまこの甲子園球場に立っているということの感慨」が語られるようになった。
1990年代以降は「夢」「舞台」「感謝」「感動(を与える)」という語彙が頻出するようになる。
陣内教授は「従来の『競技者』に加え『演技者』としての意識が垣間見える」と分析しています。
■1999年 新潟・新潟明訓高 今井也敏主将
「宣誓。甲子園球場。野球というスポーツを愛するわたしたちにとって、なんと心に響く、言葉なのでしょうか。1900年代、最後の夏。わたしたち選手一同は、今、この甲子園に集うことのできた喜びを噛み締めています。スタンドで応援してくれる控えの選手を始め、わたしたちの野球を支えてくれる、すべての人たちに感謝し、暑い日も、また吹雪の日も、気力で継続してきた練習を信じ、21世紀に大いなる希望を持って前進するために、全力でプレーすることを、ここに誓います」
ポエムの選手宣誓のピークかも知れません。ただ、この後、選手宣誓は大きく変化していきます。
■2011年 岡山・創志学園高 野山慎介主将
「宣誓。私たちは16年前、阪神・淡路大震災の年に生まれました。今、東日本大震災で、多くの尊い命が奪われ、私たちの心は悲しみでいっぱいです。被災地では、全ての方々が一丸となり、仲間とともに頑張っておられます。人は仲間に支えられることで、大きな困難を乗り越えることができると信じています。私たちに、今、できること。それはこの大会を精いっぱい元気を出して戦うことです。『がんばろう! 日本』。生かされている命に感謝し、全身全霊で、正々堂々とプレーすることを誓います」
ちょうど、阪神大震災の年に生まれた年代でした。被災者に語りかけるように心がけたという野山主将の言葉は「弱っている気持ちに活が入った」など全国から大きな反響を呼びました。大学入学後、福島県出身の同級生に「あの時、宣誓を聞いて泣いた」と声をかけられたこともあったそうです。この選手宣誓を見て、創志学園高の野球部に入部した選手が何人もいたそうです。
翌年2012年の選抜と選手権大会は、共に東北地方の高校が選手宣誓を行いました。
■2012年 宮城・石巻工業高 阿部翔人主将
「東日本大震災から1年、日本は復興の真っ最中です。被災をされた方々の中には、苦しくて、心の整理がつかず、今も当時のことや、亡くなられた方を忘れられず、悲しみにくれている方がたくさんいます。人は誰でも、答えのない悲しみを受け入れることは苦しくてつらいことです。しかし、日本がひとつになり、その苦難を乗り越えることができれば、その先に必ず大きな幸せが待っていると信じています。だからこそ、日本中に届けます。感動、勇気、そして笑顔を。見せましょう、日本の底力、絆を。我々、高校球児ができること、それは、全力で戦いぬき、最後まであきらめないことです。今、野球ができることに感謝し、全身全霊で、正々堂々とプレーすることを誓います」
■2012年 山形・酒田南高 下妻貴寛主将
「私が暮らす東北を、そして東日本を未曽有の災害が襲ったあの日から、いま日本は決して忘れることのない悲しい記憶を胸に、それでも復興への道を少しずつ確かな足取りで歩み始め、多くの試練と困難に立ち向かっています。私たちのひた向きなプレーが、あすへと懸命に生きる人々の希望となることを信じ、私たちの躍動する体と精神が、あすへと進む日本の無限の可能性となることを信じ、そして、私たちの追い続ける夢が、あすの若者の夢へとつながっていることを信じます。全国の仲間が憧れたこの甲子園で、わき上がる入道雲のようにたくましく、吹き抜ける浜風のように爽やかに、正々堂々と全力でプレーすることを誓います」
石巻工高のグラウンドは津波で水没、阿部主将の自宅も全壊したそうです。そんな中でつかんだ甲子園出場でした。震災直後の夏、石巻工高の野球部には「あきらめない街・石巻!! その力に俺たちはなる!!」という横断幕が掲げられていたそうです。
高校野球の大会が始まってから100周年を迎えた2015年の第97回全国高校野球選手権では、第1回の優勝校・京都二中の流れをくむ京都・鳥羽高の梅谷成悟主将が選手宣誓を行いました。
■2015年 京都・鳥羽高 梅谷成悟主将
「宣誓。1915年8月、第1回全国中等学校優勝野球大会が始まりました。それから100年間、高校野球は日本の歴史とともに歩んできました。この100年、日本は激動と困難を乗り越えて今日の平和を成し遂げました。このような節目の年に、聖地・甲子園で野球ができることを誇りに思い、そして支えていただいた全ての方々に感謝し、全力でプレーをします。次の100年を担うものとして8月6日の意味を深く胸に刻み、甲子園で躍動することを誓います」
開会式のあった8月6日は広島原爆の日です。この選手宣誓は「戦争で甲子園に出たくても出られなかった方もいる。普通に野球ができるのは、誰かの支えがあるから」と梅谷主将は当時語っています。100年分の歴史を俯瞰したものなのでしょう。
新世紀を迎える高校野球。次なる選手宣誓は、どんな言葉で私たちを感動させてくれるのでしょうか。