お盆など、お勤めの中でも 一番短いお勤めの時には、『讃佛偈』を読ませて戴きます。
「光厳巍巍」(こうげんぎぎ)「光かがやく かおばせよ」
「威神無極」(いじんむごく)「みいずかしこく きわもなし」
と・・
『無量寿経』の中にある 一節。阿弥陀仏が 法蔵菩薩であった時、師佛である 世自在王佛を讃え奉られ そして、自らも 佛(阿弥陀仏)と成ると誓われた言葉。その中に、
智慧為上〈ちえいじょう〉「世にすぐれたる佛たらん」
吾誓得仏〈ごせいとくぶつ〉「われ誓うらく、さとりをえて」
普行此願〈ふぎょうしがん〉「ひろくこの願はたしなば」
一切恐懼〈いっさいくく〉「おそれなやめるもろびとの」
為作大安〈いさだいあん〉「憩いの家とならんかな」
『佛説大無量寿経』讃佛偈
という一節があります。
阿弥陀佛の救いの働きは、今現在のこの私の様々な恐れや不安、苦しみを、取り除き、安堵心を恵んでくださることになるのだと思います。
学生時代、蓬茨祖運という先生は、何かの本の中にこんなことを述べられていたように思います。
「
南無阿弥陀仏」という佛さまは、この私に喜びを与えてくださるとともに、苦しい哀しい心さえ癒してくださる」と。
悲しみを悲しいと感じる心さえ、癒してくださる。悲しむべきことさえ和らげてくださることに、何か ありがたいのだけれど、〈言葉で表現できませんが〉複雑なような思いを述べられていて、悲しむべきことを 悲しまなくてもよいのか・・と そんな思いを述べられていたように思いましたが、悲しむべきことは悲しむべきであり、また、悲しみは 癒やされるべきものだと思います。苦しみや悲しみに対する救いとは それを忘れることではないと思います。それを かみしめて 乗り越えさせて戴くことなんじゃないかなと・・
阿弥陀さまの救いは、この私の 恐れや不安、悲しみ 苦しみを和らげ、安堵の心を恵んでくださるのだと思います。
自然のままの人間からは、悲しみ 苦しみ、煩悩の心は、なくすことはできないと思います。しかし、人間の心が、悲しみや苦しみや不安を受け止めつつ 阿弥陀仏の御心に触れて その苦しみや悲しみを超えさせて戴いていくということはあるのだと思います。
しかし、それでも、すべての私は 今、現に、生きている中で、不安や恐れや悲しみや苦しみを決して離れられない自分であるということと思います。〈それがなくなったら宗教も必要でないのではないか〉
また、それ故に、阿弥陀仏の本願の慈悲が働いてくださるのだと思います。
ごく たまに、指に とげがささったりすると、ほんの数ミリのとげが 指先に刺さったとしても 私は それを ひどく痛み 私の心は その 小さな指先に 全神経が向かいます。指先の痛みは 私全体の痛みでもあります。そうすると、ほんの 小さな指先のどげという 痛みに対して 私の全神経は そこに注がれ それを痛むのであります。そして、そのとげを 取り去って 傷口を治そうと動き出します。この関係を 稲城和上は「包摂の関係」とか「逆対応の関係」というように仰っていたと思います。関係というと 二つの別のものが 関係しているという感じですが、しかし、佛と衆生は 別々ではないのだと思います。佛の御心は 例えば 子に対する親のような心 それは 子どもの心が親の心である 別のものではない そういうものだと思います。
私と阿弥陀さまの関係も このような関係なのだと思います。『華厳経』であったか・・に、「衆生病むが故に 佛(菩薩)も病みたもう」という言葉があったと思います。これを「同体の大悲」とも言われます。私の悲しみや苦しみは 私だけのもののようでありつつ それは その苦しみや悲しみを 同体となっていてくださる佛の悲しみなのではないかなと思います。私が 悲しむ時 佛も同じように悲しんでくださり、私がよろこぶとき 佛も微笑みたもうのではないかと思うのであります。
煩悩に生きるこの自己と、その 恐れや不安を、和らげ 安心を恵まんと働いてくださっている阿弥陀さまは、一つなのではないかと思います。
「光厳巍巍」(こうげんぎぎ)「光かがやく かおばせよ」
「威神無極」(いじんむごく)「みいずかしこく きわもなし」
と・・
『無量寿経』の中にある 一節。阿弥陀仏が 法蔵菩薩であった時、師佛である 世自在王佛を讃え奉られ そして、自らも 佛(阿弥陀仏)と成ると誓われた言葉。その中に、
智慧為上〈ちえいじょう〉「世にすぐれたる佛たらん」
吾誓得仏〈ごせいとくぶつ〉「われ誓うらく、さとりをえて」
普行此願〈ふぎょうしがん〉「ひろくこの願はたしなば」
一切恐懼〈いっさいくく〉「おそれなやめるもろびとの」
為作大安〈いさだいあん〉「憩いの家とならんかな」
『佛説大無量寿経』讃佛偈
という一節があります。
阿弥陀佛の救いの働きは、今現在のこの私の様々な恐れや不安、苦しみを、取り除き、安堵心を恵んでくださることになるのだと思います。
学生時代、蓬茨祖運という先生は、何かの本の中にこんなことを述べられていたように思います。
「
南無阿弥陀仏」という佛さまは、この私に喜びを与えてくださるとともに、苦しい哀しい心さえ癒してくださる」と。
悲しみを悲しいと感じる心さえ、癒してくださる。悲しむべきことさえ和らげてくださることに、何か ありがたいのだけれど、〈言葉で表現できませんが〉複雑なような思いを述べられていて、悲しむべきことを 悲しまなくてもよいのか・・と そんな思いを述べられていたように思いましたが、悲しむべきことは悲しむべきであり、また、悲しみは 癒やされるべきものだと思います。苦しみや悲しみに対する救いとは それを忘れることではないと思います。それを かみしめて 乗り越えさせて戴くことなんじゃないかなと・・
阿弥陀さまの救いは、この私の 恐れや不安、悲しみ 苦しみを和らげ、安堵の心を恵んでくださるのだと思います。
自然のままの人間からは、悲しみ 苦しみ、煩悩の心は、なくすことはできないと思います。しかし、人間の心が、悲しみや苦しみや不安を受け止めつつ 阿弥陀仏の御心に触れて その苦しみや悲しみを超えさせて戴いていくということはあるのだと思います。
しかし、それでも、すべての私は 今、現に、生きている中で、不安や恐れや悲しみや苦しみを決して離れられない自分であるということと思います。〈それがなくなったら宗教も必要でないのではないか〉
また、それ故に、阿弥陀仏の本願の慈悲が働いてくださるのだと思います。
ごく たまに、指に とげがささったりすると、ほんの数ミリのとげが 指先に刺さったとしても 私は それを ひどく痛み 私の心は その 小さな指先に 全神経が向かいます。指先の痛みは 私全体の痛みでもあります。そうすると、ほんの 小さな指先のどげという 痛みに対して 私の全神経は そこに注がれ それを痛むのであります。そして、そのとげを 取り去って 傷口を治そうと動き出します。この関係を 稲城和上は「包摂の関係」とか「逆対応の関係」というように仰っていたと思います。関係というと 二つの別のものが 関係しているという感じですが、しかし、佛と衆生は 別々ではないのだと思います。佛の御心は 例えば 子に対する親のような心 それは 子どもの心が親の心である 別のものではない そういうものだと思います。
私と阿弥陀さまの関係も このような関係なのだと思います。『華厳経』であったか・・に、「衆生病むが故に 佛(菩薩)も病みたもう」という言葉があったと思います。これを「同体の大悲」とも言われます。私の悲しみや苦しみは 私だけのもののようでありつつ それは その苦しみや悲しみを 同体となっていてくださる佛の悲しみなのではないかなと思います。私が 悲しむ時 佛も同じように悲しんでくださり、私がよろこぶとき 佛も微笑みたもうのではないかと思うのであります。
煩悩に生きるこの自己と、その 恐れや不安を、和らげ 安心を恵まんと働いてくださっている阿弥陀さまは、一つなのではないかと思います。
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