聞思(もんし)の部屋

浄土教の祖師方親鸞聖人多くの先生からお育ていただいた尊いお言葉から私の味わいなどを中心に書き残していきたいと思います。

本願を信じて殊勝なる程も知るなり・・(『蓮如上人御一代聞書第百五十一』)

2017-08-18 02:42:02 | 日々の味わい
「鑽(き)れば弥(いよいよ)かたし、ということあり。物を鑽(き)りてみて かたきとい知るなり。本願を信じて殊勝なる程も知るなり、信心おこりぬれば、たふとくありがたく、よろこびも増長(ぞうちょう)あるなり」
        (『蓮如上人御一代聞書第百五十一』)

現代語訳
「きれば いよいよかたく、仰げばいよいよ高し」という言葉がある。実際に切り込んでみて、はじめてそれが堅いとわかるのである。これと同じように、阿弥陀仏の本願を信じて、その素晴らしさもわかるのである。信心をいただきながら、仏の本願がますます尊く、ありがたく感じられ、喜ぶ心もいっそう増すのである」と仰せになりました。

 そのものが どういうものであるかは、実際にそれに触れなければわかりません。硬そうなものが目の前にあっても、それがどれほど 硬いかは、それに触れ切り込んでみて分かるのである。山の高さも同じで、ふもとに来て 登ろうとするほど 仰げば仰ぐほど、その高さが分かってくるものであります。
 阿弥陀さまも、そのご本願の尊いことも、外から眺めているだけ、ただ呆然と 聞いたり見たりしているだけでは その中身は分からないのだと思います。ただ 何となく見たり聞いたりしているたぜけでは ただの話に終わるのかもしれません。
 ところが、この人生の究極の問題が意識され、聞かずにおれなくなって 聞かせて戴くと、その教えの深さ、尊さが しみじみと 心に染み渡り 味わわれてくるのではないでしょうか。
 
 この人生の中には、様々なものと出会い、さまざまな物を手に入れます。喜びもあります。しかし、この世で出会ったもの、手に入れたもの、喜びさえ、無常のもの、変化し 生滅していくものばかりであります。

 この世、この人生は 変わりづめの世であると思います。しかし、そのような すべてが移ろいゆく中において、決して 消滅していくことがない、かわらない 「真実」がある。それが、阿弥陀仏であり、その本願と仰っていると思います。
 この世で 手にしたものは すべて消滅していく無常なものばかりだけれども、ただ一つ、阿弥陀仏の本願、念仏とも言っていいと私は思いますが、それは、消滅しないどころか、仰げば仰ぐほど尊く、聞かせてもらえばもらうほど深く、そこに 戴いた味わい 喜び、仏法味は、ますます「増長」していくのである」と 仰っておられます。

「南無阿弥陀仏に身をばまるめたる・・」『蓮如上人御一代聞書』第百一条

2017-08-16 23:03:01 | 日々の味わい
「丹後法眼(ほうげん)、衣装ととのへられて、前々住上人の御前に伺候(うかがいそうろう)そふらかしとき仰せられ候(そうろう)。衣の襟(えり)をたたきありて南無阿弥陀仏よ、と仰せられ候。又前住上人は御畳をたたかれ、南無阿弥陀仏にもたれたる由仰せられ候ひき。南無阿弥陀仏に身をばまるめたると仰せられ候ふと符号申し候。」
          (『『蓮如上人御一代聞書』第百一条』)

現代語訳

「丹後法眼蓮応(たんごほうげんれんのう)が、正装して、蓮如上人のもとへおうかがいしたとき、上人は 蓮応(れんのう)の衣(ころも)をたたいて、「南無阿弥陀仏だぞ」と仰せになりました。また実如上人は、座っておられる畳をたたいて、「南無阿弥陀仏に支えられているのである」と仰せになりました。この二つは、前条の「南無阿弥陀仏にその身を包まれている」と示されたお言葉と一致しています」 (『浄土真宗 聖典 蓮如上人聞(現代語訳版)書』)

 この条を読ませて戴くと、ここでは、「南無阿弥陀仏が世界そのものになっている」という感じがします。私たちは、衣装に包まれ、畳にこの身を支えられていることでありますが、そのように、南無阿弥陀仏に包まれ、支えられていると その 喩えのようにも 読めますが、
 しかし、ここでは、そういう 譬喩を超えて、衣装そのものが南無阿弥陀仏であり、畳に座っていることがそのままな無南阿弥陀仏と共に生きている実感を述べられたように感じます。南無阿弥陀仏と申すこの私と南無阿弥陀仏は別々ではなく、その念仏申すその私が 南無阿弥陀仏に包まれ南無阿弥陀仏の中で支えられていると 味わえる気がいたします。
 

心得たと思ふは心得ぬなり(『蓮如上人御一代聞書』)

2017-08-13 02:10:16 | 日々の味わい
「心得たと思ふは心得ぬなり、心得ぬと思ふは心得たるなり、弥陀の御助あるべき事の尊さよと思ふが心得たるなり。」(蓮如上人)

蓮如上人のお言葉です。
「心得たと思う」とは、知的理解にとどまっていることです。

「心得ぬ」とは、本当に如来の大悲をいただいた信心ではないと申されています。

自分は、「心得た」と解った、知識として承知する状態」が、最初の「心得たと思う」です。

一方の「心得ぬと思ふは心得たるなり」とは、直接、仏心に値遇して頭の下がった状態を指しておられます。

人間は、まずは知識や知性による理解から入る必要がありますが、それはそれで大切なことですが、知識として知った理解したことが、宗教的な魂の開眼と誤解する、それが大悲の領受である信心と思うのは誤りです。

蓮如上人のご指摘は、知識や知的理解が信心であると心得ているあり方への戒めだと思います

本当に、心得ているお方というのは、ただ、自分が知っている心得ているという思いでなく、ただ、ほれぼれと、己を空しうして、本願のお救いを仰ぐばかりだと思います

親の心を知的に理解しているのが親の心に出会っているのではない、ただその心にまみえるばかり が 親の心に出会っているのと同じだと思います
浄土真宗の聴聞は、それを聞くのだと思います

『「往覲偈(おうごんげ)」(『仏説無量寿経』)』現代語訳(後半)

2017-08-11 22:36:04 | 日々の味わい
『「往覲偈(おうごんげ)」(『仏説無量寿経』)』の後半は、印象深い言葉が連なっています。たとえば、

「もし人 善本なければ、この経を聞くことを得ず」と、この教えに遇い難きことを示しつつ、今、出遇えている歓びをあらわし、
 「謙敬にして聞きて奉行し」と、法を聞くあり方を示し、
「如来の智慧海は 広深にして崖底なし」と、阿弥陀仏の智慧を讃えています。この言葉は、学生の時、恩師から色紙に書いて戴いた言葉でもありました。
 「寿命 はなはだ得難く」「仏世もまた 値(あ)い難し」と、人に生まれることは難く、また仏の教えに遇うことの難きことを教え、
 「もし、聞いたならば、精進して求めよ」「この法を聞いて よく忘れず、見て 敬い、大いに慶ぶ者は わが親友(しんう)である」とも言われています。
 そして、「たとえ、この大千世界が火に 満たされたとしても 必ず それを過ぎて 教えを聞くならば、必ず 生死を超え 仏道を成就し 仏となる」と 結ばれています。

『「往覲偈(おうごんげ)」(『仏説無量寿経』)』(後半)

もし、人にして 前世に 善本がなかったならば、

この世においてこの経を聞くことはできない。

また、前世に 清く戒律をたもったものでなくては、

この世において無量寿仏の御名を聞いて、

信心を得ることはできないのである。

まことに、かつて前世において諸仏世尊を拝んだものは、

すなわち、よくこの世において、

無量寿仏の本願を信じ、

身をへりくだり 法を敬いて、

聞いて 忘れず、信じて 背かず、

大きな歓びを得ることができる。

かの驕慢(きょうまん)と、懈怠(けたい)とは、

この大法を信じることは困難である。

前世に 諸仏を見たてまつった者は、

我と心に願い求めて 

この教えを聴くであろう。

如来のみ心は、声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)のような聖者でも、

疑いをいだく者は とうてい 思いはかることが出来ない。

まことに、如来の智慧は、海のようであって、広くしてほとりなく、

深くして底がない。

声聞、菩薩の よく 測り得るところではない。

ただ、仏たちばかり、明らかに知りたもう。

たとえ、世界のあらゆる衆生が、一人も欠けずそろって、

仏の道を得て、無漏(むろ 浄らかな)智慧をもって、

宇宙の本来みな空(くう)の理(ことわり)を知り得るようになって、

億劫の間、かかりづめに如来の智慧を思いはかり、

力をきわめて求め、わが命は尽きるとも 

きわほとりのない仏の智慧を知ることはできない。

如来の智慧は これほどまで深く広く、

清浄の証(さとり)に至らせられたのである。

寿命は まことに得がたい。

幸いにして寿命を受けたとしても、

仏の在世には なお値(あ)いがたい。

仏の在世に値いたてまつっても、

ことに 人として 信心の智慧あることは

いよいよ困難である。

もし、一たびでも、教えを聞いたならば、

おこたらず求めよ。

法を聞いて信じ、精進して忘れず、

敬うて大いに 慶ぶならば、

すなわち、我が 善き 親友(しんう)である。

されば、まさに 他力の大菩提心を起して

智慧の信心海に入れ。

たとい 大千世界に、充ち満ちておる火をも過ぎゆきて、

仏のみ名を聞く人は、ながく 不退(ふたい 仏になることに決まった)にかなうのである。

精進して求めるならば、

必ず必ず、仏となって、

広く 生死の流れを流れを救い渡し、

自利利他円満の 大利益を得るに相違ない。

「往覲偈(おうごんげ)」(『仏説無量寿経』)現代語訳(前半)

2017-08-11 20:59:02 | 日々の味わい
『「往覲偈(おうごんげ)」(『仏説無量寿経』)』現代語訳(前半)

ここより 東方の諸仏の国は、

その数、恆河沙(ごうがじゃ)のごとくである。

それらの国々の菩薩たちは、

ことごとく往きて 無量寿仏(阿弥陀仏)にまみえたてまつる

かくのごとく、南、西、北、四維(しゆい)と その上下

ありとあらゆる仏国の菩薩たちも、

ことごとく往きて無量寿仏にまみえたてまつる。

かくのごとき菩薩たち、

おのおの天の妙華と宝香と

無上の衣とをもって、

仏に捧げたてまつり、

咸然(がんねん)として、声をあわせて、

妙なる天楽を奏し、

うるわしく階和する音調をもって、

このすぐれた無上なる仏特にたたえて、

仏に捧げたてまつる。

みほとけは、智慧と神通とをきわめ尽くして、

深き真理のなかにあり、

ありとあらゆる功徳をあつめて

欠けたるところなし

そのすぐれたる智慧は及ぶのものなく、

かがやいて世の一切の人びとを照らして

生死の闇をのぞきたもう と。

うやうやしく仏のほとりを 右より三たび、

み前に首(こうべ)をたれて

深く敬礼し、まなこを上げて

仏のきよき国を見るに、

その微妙なること、

はるかに思議をこえたものである

驚嘆して心に嘆息すらく、

ああ、わが住む国もまたかくのごとくあれかし と。

このように菩薩らがいま眼のあたりに見る浄土のお姿を

おのが国にうつし建てんと 心に思ったとき、

「無量寿仏の容顔はかすかに動き、

微笑はその口辺にのぼってきました。

そして、御くちより無数の光差し出て

遠く十方に及んで あまねくその国々を照らし

光は再びかえりきたって、

大きく仏身をめぐること三たび

やがて御頭上に至って 消えました。

これを見て、座にいる一切の神々もまた 人びとも、

いっせいにどよめいて 賛嘆し歓喜しました。

このとき観世音菩薩は、起ってその衣をただし、

うやうやしく仏に礼して問いたてまつりました。

このとき、仏のみ声は、かの雷霆(らいてい)の地をふるうがごとく深く

八種の好声をあわせたものとせられるその妙音は朗々としてひびいた。

「わたし(如来)はこの菩薩たちの未来を予言しようと思う

なんじたち、はっきり聞くがよい」

「いま十方よりきたれる菩薩たちが、心にいだく志願を私は知っている。

この人びとはまたわが浄土のごとき国土を建設せんことを願っておる。

その善き志願は必ず成就し、

菩薩は仏となる時が来るのであるろう」

もし、一切の存在はすべて夢のごとく幻のごとく、

また消えていく 響きのごときものであることを悟って

かたく思い定めるならば、

そのとき、かえって もろもろの志願は成就し、

そこに浄土を建設し得るであろう。

一切のものは、すべて電のごとく影のごとく、

果敢(はか)ない存在であると知りつつ、

菩薩の道を求めて、

もろもろの功徳の本を積むならば、

その人は必ず目的をとげて仏となるであろう。

あらゆる存在の本性は、

それみずから すべて空(くう)であり、無我゛あることを知りつつ、

あえてここに理想の国土をうち建てんとするならば、

その願いは必ず 成就して、

わが浄土をそこに再現することができるであろう。

諸仏は菩薩らに告げて

「かの安楽の国に無量寿仏をたずね、

その教えを聞いてこれをおこない、

すみやかに、かの国土にうまれよ。

かの厳浄の国に至らば、

すぐれたる神通を得て、仏に予言せられて、

必ず仏となるであろう。

無量寿仏の本願の力は、偉大であって、

そのみ名(南無阿弥陀仏)を聞いて、

往生しようと心に思えば

みなことごとく仏になること まったく疑いをいれない」と教えた。

この時、菩薩ら、かの国に至って まのあたり浄土を見て、

心に至上の願いを起こし、

願わくは、わが住む国土も この浄土とひとしくなり、

あまねく一切の衆生を救って、

その名十方に高らかんことを」と。

かくて、十方に飛んで 一切の国々をめぐり、その限りない仏につかえ、

これを敬い、歓喜つくることなくして、

やがて、かの永遠の故郷なる

無量寿国へとかえり往ったのである」と。