「鑽(き)れば弥(いよいよ)かたし、ということあり。物を鑽(き)りてみて かたきとい知るなり。本願を信じて殊勝なる程も知るなり、信心おこりぬれば、たふとくありがたく、よろこびも増長(ぞうちょう)あるなり」
(『蓮如上人御一代聞書第百五十一』)
現代語訳
「きれば いよいよかたく、仰げばいよいよ高し」という言葉がある。実際に切り込んでみて、はじめてそれが堅いとわかるのである。これと同じように、阿弥陀仏の本願を信じて、その素晴らしさもわかるのである。信心をいただきながら、仏の本願がますます尊く、ありがたく感じられ、喜ぶ心もいっそう増すのである」と仰せになりました。
そのものが どういうものであるかは、実際にそれに触れなければわかりません。硬そうなものが目の前にあっても、それがどれほど 硬いかは、それに触れ切り込んでみて分かるのである。山の高さも同じで、ふもとに来て 登ろうとするほど 仰げば仰ぐほど、その高さが分かってくるものであります。
阿弥陀さまも、そのご本願の尊いことも、外から眺めているだけ、ただ呆然と 聞いたり見たりしているだけでは その中身は分からないのだと思います。ただ 何となく見たり聞いたりしているたぜけでは ただの話に終わるのかもしれません。
ところが、この人生の究極の問題が意識され、聞かずにおれなくなって 聞かせて戴くと、その教えの深さ、尊さが しみじみと 心に染み渡り 味わわれてくるのではないでしょうか。
この人生の中には、様々なものと出会い、さまざまな物を手に入れます。喜びもあります。しかし、この世で出会ったもの、手に入れたもの、喜びさえ、無常のもの、変化し 生滅していくものばかりであります。
この世、この人生は 変わりづめの世であると思います。しかし、そのような すべてが移ろいゆく中において、決して 消滅していくことがない、かわらない 「真実」がある。それが、阿弥陀仏であり、その本願と仰っていると思います。
この世で 手にしたものは すべて消滅していく無常なものばかりだけれども、ただ一つ、阿弥陀仏の本願、念仏とも言っていいと私は思いますが、それは、消滅しないどころか、仰げば仰ぐほど尊く、聞かせてもらえばもらうほど深く、そこに 戴いた味わい 喜び、仏法味は、ますます「増長」していくのである」と 仰っておられます。
(『蓮如上人御一代聞書第百五十一』)
現代語訳
「きれば いよいよかたく、仰げばいよいよ高し」という言葉がある。実際に切り込んでみて、はじめてそれが堅いとわかるのである。これと同じように、阿弥陀仏の本願を信じて、その素晴らしさもわかるのである。信心をいただきながら、仏の本願がますます尊く、ありがたく感じられ、喜ぶ心もいっそう増すのである」と仰せになりました。
そのものが どういうものであるかは、実際にそれに触れなければわかりません。硬そうなものが目の前にあっても、それがどれほど 硬いかは、それに触れ切り込んでみて分かるのである。山の高さも同じで、ふもとに来て 登ろうとするほど 仰げば仰ぐほど、その高さが分かってくるものであります。
阿弥陀さまも、そのご本願の尊いことも、外から眺めているだけ、ただ呆然と 聞いたり見たりしているだけでは その中身は分からないのだと思います。ただ 何となく見たり聞いたりしているたぜけでは ただの話に終わるのかもしれません。
ところが、この人生の究極の問題が意識され、聞かずにおれなくなって 聞かせて戴くと、その教えの深さ、尊さが しみじみと 心に染み渡り 味わわれてくるのではないでしょうか。
この人生の中には、様々なものと出会い、さまざまな物を手に入れます。喜びもあります。しかし、この世で出会ったもの、手に入れたもの、喜びさえ、無常のもの、変化し 生滅していくものばかりであります。
この世、この人生は 変わりづめの世であると思います。しかし、そのような すべてが移ろいゆく中において、決して 消滅していくことがない、かわらない 「真実」がある。それが、阿弥陀仏であり、その本願と仰っていると思います。
この世で 手にしたものは すべて消滅していく無常なものばかりだけれども、ただ一つ、阿弥陀仏の本願、念仏とも言っていいと私は思いますが、それは、消滅しないどころか、仰げば仰ぐほど尊く、聞かせてもらえばもらうほど深く、そこに 戴いた味わい 喜び、仏法味は、ますます「増長」していくのである」と 仰っておられます。