浄土真宗の中核をなす信心とは、盲目的な信心ではありません。神秘にどっぷり
つかったようなドグマを妄信することは要求されません。
信心とは、むしろお念仏の生活からごく自然に結果する、一種の存在のあり方です。
浄土真宗ではドラマチックな知識よりも、称名念仏のほうが強調されます。
このような側面からわが師ピーパーは私に毎日お勤めするようにと『正信偈』をくれまし
た。(中略)時間を見つけては、わたしは公園へ出かけていってそこで人群れから離れ
植え込みでガードされたところで、『正信偈』を読み、お念仏を称えたのでした。
『ナマンダーブ、ナマンダーブ、ナマンダーブ‥』この一種の朗吟に身と心を任せていると
大きな心の平安に体内が満たされ、私をあらゆる方向から包み込む自然との深い
調和を感じることができました。我を忘れて練習に没頭して、私は小鳥達が少しずつ
私のまわりに集まって来て、とうとう私の足元で輪をつくってじっと動かないで私に注目
しているのもわからないのでした。また時には私が腰かけているベンチの上にリスが乗っ
て来て、私の肩で跳びはねたりしていました。私は木々にも生命が宿っており、私の
練習を喜んでいるように感じました。遊歩道に沿って葉の繁っているところに場所を変
えて、またお念仏を称えました。『ナマンダーブ、ナマンダーブ。』弥陀の名号をリスや小
鳥や昆虫や木々の生命にも聞かせたことで、私はうっとりとなりました。そして十方世
界の諸仏如来と一体になった自分を感じました。経典ではその諸仏如来が一切衆
生を救わんとして、いたるところでお念仏を称揚(ほめたたえる)されているのです。 (
極重ノ悪人ハタダ仏ヲ称スべシ。ワレモマタカノ摂取ノ中二アレドモ、煩悩眼ヲサエテ
見タテマツラズト雖モ、大悲倦キコトナクシテ、常二ワレヲ照ラシタモウトイエリ。) この
一連は私をめあてに作られたとしか思えませんでした。というのも私自身どこから見て
も誇りうる何ものもなくて、煩悩におおわれ、怒りっぽく、享楽を好み、愚かで傲慢であ
ることを認めずにはいられぬからです。にもかかわらず私を包み込む大慈悲がありまし
た。私は念仏を申そうと申すまいと摂取のうちにあり、もう捨てられることはないのであ
ります。」(「十字架から芬陀利華(念仏の行者)へ」ジャン・エラクル)
つかったようなドグマを妄信することは要求されません。
信心とは、むしろお念仏の生活からごく自然に結果する、一種の存在のあり方です。
浄土真宗ではドラマチックな知識よりも、称名念仏のほうが強調されます。
このような側面からわが師ピーパーは私に毎日お勤めするようにと『正信偈』をくれまし
た。(中略)時間を見つけては、わたしは公園へ出かけていってそこで人群れから離れ
植え込みでガードされたところで、『正信偈』を読み、お念仏を称えたのでした。
『ナマンダーブ、ナマンダーブ、ナマンダーブ‥』この一種の朗吟に身と心を任せていると
大きな心の平安に体内が満たされ、私をあらゆる方向から包み込む自然との深い
調和を感じることができました。我を忘れて練習に没頭して、私は小鳥達が少しずつ
私のまわりに集まって来て、とうとう私の足元で輪をつくってじっと動かないで私に注目
しているのもわからないのでした。また時には私が腰かけているベンチの上にリスが乗っ
て来て、私の肩で跳びはねたりしていました。私は木々にも生命が宿っており、私の
練習を喜んでいるように感じました。遊歩道に沿って葉の繁っているところに場所を変
えて、またお念仏を称えました。『ナマンダーブ、ナマンダーブ。』弥陀の名号をリスや小
鳥や昆虫や木々の生命にも聞かせたことで、私はうっとりとなりました。そして十方世
界の諸仏如来と一体になった自分を感じました。経典ではその諸仏如来が一切衆
生を救わんとして、いたるところでお念仏を称揚(ほめたたえる)されているのです。 (
極重ノ悪人ハタダ仏ヲ称スべシ。ワレモマタカノ摂取ノ中二アレドモ、煩悩眼ヲサエテ
見タテマツラズト雖モ、大悲倦キコトナクシテ、常二ワレヲ照ラシタモウトイエリ。) この
一連は私をめあてに作られたとしか思えませんでした。というのも私自身どこから見て
も誇りうる何ものもなくて、煩悩におおわれ、怒りっぽく、享楽を好み、愚かで傲慢であ
ることを認めずにはいられぬからです。にもかかわらず私を包み込む大慈悲がありまし
た。私は念仏を申そうと申すまいと摂取のうちにあり、もう捨てられることはないのであ
ります。」(「十字架から芬陀利華(念仏の行者)へ」ジャン・エラクル)
信心とは、秋の月が泥水にその澄める影を宿すように、如来の真実信がこの凡愚の心に来たり徹り映えてくださることです。