聞思(もんし)の部屋

浄土教の祖師方親鸞聖人多くの先生からお育ていただいた尊いお言葉から私の味わいなどを中心に書き残していきたいと思います。

修正「摂取不捨」摂め取って捨てない

2018-08-05 17:33:57 | 日々の味わい
親鸞聖人のお書きなされた『浄土和讃』の 「弥陀経」意(こころ)には、『阿弥陀経』の意(こころ)を 五首のうたによって あらわされています。
 
その 第一首目の御歌には、

 十方(じっぽう)微塵(みじん)世界の
 
 念仏の衆生をみそなわし

 摂取してすてざれば
 
 阿弥陀と名づけたてまつる

これは、『阿弥陀経』の中で、お釈迦様が 舎利弗に対して、

 舎利弗(しゃりほつ)、なんぢが意(こころ)においていかん、かの仏をなんのゆえぞ 阿弥陀と号する。 舎利弗、かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障碍(しょうげ)するところなし。このゆえに阿弥陀とす。

と 語られた意(こころ)を 仰ったのだと思います。

 お釈迦様は 舎衛国の祇樹給孤独園(ぎじゅきっこどくおん)において、誰に問われることなく 阿弥陀仏とその国土及びその国土に至る道について 語られはじめた。それが 言葉となって 残されているのが『阿弥陀経』と言われます。

 その中において、お釈迦さまは、智慧第一ともいわれたお弟子の舎利弗に対して、

 「舎利弗よ、かの仏を 何がゆえに 阿弥陀と名づけるのか」

と、問いかけられるが、 舎利弗からの返答はなく、続けて お釈迦さまのお言葉が続く。

 「舎利弗よ、かの仏の光明は無量であって、あらゆる十方の世界をくまなく 照らして それを さまたげるものはないのである。それ故に 阿弥陀と名づけられるのである」と・・。

 その後は、かの国土の荘厳(ありさま)や、かの国土の荘厳は それは 阿弥陀仏の 「願心」によって 荘厳(しょうごん)され 形となって顕れたのであること。その国土に生まれる方法が 「一日~七日の 称名念仏であること」そして、その国土 浄土と阿弥陀仏の御徳は 一人お釈迦様だけではなく、東西南北上下の 六方の 無数の諸仏も みな 同じく 讃えられていて その国土に生まれるようにと 説かれていること。この説法は  疑いの者には極難信の法であること しかし、まさに その浄土へ念仏の衆生が過去 現在 未来において往生しつつあるを 目の当たりにしているから この法を説いていると そのような ことなどを 説かれました。

 その中、お釈迦様は、「阿弥陀仏」と仰る 御仏を どうして 阿弥陀仏と名づけられているのかと問いかけをされて 自ら 答えられて 「それは あらゆる世界の 念仏の衆生を摂取して捨てないという 無量の光明の御仏であるから 阿弥陀と 名づけるのである」と 仰いました。

 そこのところを 親鸞聖人は、『弥陀経の意(こころ)』と仰って、

 十方(じっぽう)微塵(みじん)世界の
 
 念仏の衆生をみそなわし

 摂取してすてざれば
 
 阿弥陀と名づけたてまつる

と、うたにして 私たちに 知らせてくださったのでありました。

 『観無量寿経』の真身観というところにも、次のような言葉があります。

 「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」
(阿弥陀仏の光明は、あまねく十方の世界を照らして、念仏衆生を摂取して捨てたまわず)

と。「阿弥陀仏の光明というのは 念仏の衆生を 摂取して 決して捨てたなわぬ 働きである」と。

 中国 唐の時代の 浄土教の高僧 善導大師は この「摂取不捨」の御解釈について、「親縁」「近縁」「増上縁」の三縁という言葉によって 御解釈されました。

 善導大師の『観経疏』定善義の真身観の中に、「親縁」をご説明されて、

 一には親縁を明かす。衆生、起行して口に常に仏を称すれば、仏すなはちこれを聞きたまう。

 身に常に仏を礼敬すれば、仏すなはちこれを見たまう。

 心に常に仏を念ずれば、仏すなはちこれを知りたまう。

 衆生、仏を憶念すれば、仏もまた衆生を憶念したまう。

 彼此の三業、あい捨離せず(彼此三業不相捨離)。故に親縁と名づくるなり。

と、仰ってくださいました。

 「近縁」「増上縁」というのは、

「近縁」とは、「念仏の衆生と阿弥陀仏とは近い関係にあるということ、つまり行者のいる所にいつも弥陀が一緒にいてくださること」

「増上縁」とは、「衆生のいかなる悪業も往生の障りとはならないこと、つまり、まちがいなく往生すべき身にしていただくこと」

であると。つまり、私からは 阿弥陀さまのそのお姿は見えないけれども、 「称えるその声は 聞いとるぞ、手合わす姿は見ておるぞ、慶ぶ心は知っとるぞ、この阿弥陀だけは お前の功徳となって 力となって 働いておるぞ」と それが阿弥陀様の 摂取不捨の 御解釈だと 教えてくださいました。

 更に、親鸞聖人は、高田の本山 専修寺に残されている 『浄土和讃』の「弥陀経」意(こころ)の 第一首

 十方(じっぽう)微塵(みじん)世界の
 
 念仏の衆生をみそなわし

 摂取してすてざれば
 
 阿弥陀と名づけたてまつる

の 御うたの 「摂取」の横に 左訓といって 本当にありがたい 言葉を 添えてくださっています。

その左訓とは、

 「摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く 捨てぬなり。摂は ものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂は をさめとる。取は迎えとる」

と・・。本当に 行き届いた 尊いお言葉を書いて 残してくださっていました。

 阿弥陀さまの 「摂取不捨」の光明の お働きは 私が こちらから 何かを すれば その者を 摂取して救い取るぞ というものではなくて、〝ものの逃げるを追わえとるぞ〟と、いつも 阿弥陀さまに 背を向けて いくような者を どこまでも 無始以来 久遠劫来 捨てないぞ、離さないぞと、追いかけて つかみ取って 摂取して 浄土へと 迎えとる 御仏であります と。ここのところは、

以前書いたことを訂正しました。以前は、「逃げるものを追いかける」というように書いておりましたが、親鸞聖人は、「逃げるものを追いかける」とは、仰っていませんでした。もし、阿弥陀さまから、逃げている
ということなら、阿弥陀さまと逃げるものは、別々になってしまい、阿弥陀さまの働きの外にいることになってしまいます。そうではありませんでした。「逃げるものを追いかけつかまえる」ではなく、「ものの逃ぐるを追わえとる」でありました。「ものの逃ぐるを」とは、それでも阿弥陀さまの無辺光からは一歩もでることはないということでありましょう。
 私と阿弥陀さまは 私の方から 阿弥陀さまの方へ近づいていく ようにとか、阿弥陀さまの働きの外に逃げているという意味かと 思っていましたら そうではありませんでした。私は たいてい 忘れどおしのことでありますが、この 忘れどおし まさに 背を向けて どこに向かうておるかわからん者であればこそ 追いかけて 捉まえて 摂取して 摂め取って 迎えとるぞと 阿弥陀さまの方から 来てくださっているのでありました。まさに 背を向け 逃げ回っているのは 私のことでありましたが、しかし、この 逃げる私は 決して 離しはせんとの 阿弥陀さまの すでに摂取の光明の内に摂めとられて 逃げても逃げても もう 逃げられん 私でありました。

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