聞思(もんし)の部屋

浄土の祖師や先生から教えていただきお育ていただいた尊いお言葉から、私の味わいなどを中心に書き残していきたいと思います。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

是心是仏 是心作仏

2016-03-08 00:44:03 | 日々の味わい
「是心是仏 是心作仏」 という言葉がありました。親鸞聖人のお書きになった『教行信証』信巻の信心の徳を讃えられるところだったと思います。ここで仰った「この心がこれ仏」とはいかなる意味か。 仏教において とても 大切なところだと思います。

では、親鸞聖人の仰った 浄土真宗でいわれる「この心が仏と作る」とはいかなる意味なのか・・。

よく、仏とは、他に 心外にましますものではない、我の心が仏である。悟れば仏である。極端な言い方には、「釈迦何人ぞ、私が悟れば私が仏なのだ」と・・という考えた方もあります。

 しかし、曇曇大師や善導大師が仰ったのは、そういう聖道の教えとは異なるのだと思います。道綽禅師も 浄土教の立場から述べられていたと思います。

善導大師の仰ったのは、「仏の相好を観察するところに、仏が顕れてくださるのだ」という意味で、本来我が仏であるということではない。

 また、親鸞さんの場合も、「是心が是れ仏」とは、我が本来仏だではなくて、是心とは、「私の心は無明煩悩」なのであるけれど、そこに来てくださった阿弥陀さま 阿弥陀さまからいただいた御信心 それが「是心作仏」なのだと思います。

信心とは、「私が信じたり 信仰する心 というよりも(親鸞さんの言葉には信じるという言い方はありますが) 阿弥陀さまの信心でありその阿弥陀さまの信心が、そのまま 回入してくださり、阿弥陀さまの信心が私の煩悩の中に入ってきてくださったことでありますから、そこに阿弥陀さまのすべての功徳が具わっている。だから、私の心は煩悩ばかりでありが、ここに阿弥陀さま信心がいただかれ、名号の功徳が宿ってくだされたのだから、「是心が是れ仏である」他力の信心とは阿弥陀さま 名号本願力だと思います。

「是の心が作仏す」とは、そのような煩悩の心に阿弥陀さまの心が宿って下さったのだから、すなわち、この宿ってくださった仏心なのであるから、やがて、命終るとき、煩悩の身の終わるとき 仏とならせていただくのである。阿弥陀さまの心が戴かれたところが私に顕れてくださった阿弥陀さまである。
私に戴かれた信心は、名号の信心であり阿弥陀さまの信心なのだと思います。

 私が仏なのではない、煩悩の中に阿弥陀さまが宿ってくださったのであります。
コメント (1)   この記事についてブログを書く
«  | トップ | 法蔵菩薩(一) »

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
またまた・・ (智)
2016-03-08 01:52:06
スマホで見直してみたら、誤字だらけ・・ 寝る前に パッパッパと、読み直すことをしないと、こういうことになる・・本文中に、曇親大師 と書いたのは、正しくは 曇鸞大師でした。鸞という文字は いったん 親鸞さんのお名前を書いて 曇鸞大師と書くつもりでした。阿弥陀さまの、阿と 弥陀の文字も 離れ離れになってました・・

コメントを投稿