
<柏原一里塚付近の松並木を行く>
歩いて巡る中山道六十九宿(第14回);第2日目(2);柏原宿(3)
(五十三次洛遊会)
2012年9月15日(土)~17日(月・敬老の日)
第2日目;2012年9月16日(日) (つづき)
<柏原宿地図>
■柏原宿詳細図(再掲)
■柏原宿周辺地図
<引き続き柏原宿を行く>
■伊吹堂
9時14分,市場川を渡る.
市場川の直ぐ近く,進行方向左側に,威風堂々の格子戸の2階建家屋がある.伊吹堂である.
資料5では,「1661年(寛文元)、往時には約400軒の宿が集った中山道柏原宿に店を構えた伊吹もぐさの元祖。現在の建物も、歌川広重の『木曽街道六十九次』で描かれた当時の面影を残している。おすすめは、台紙付き間接灸の広重180個入り2100円。筋向かいには柏原宿歴史館(料金:300円、時間:9~17時、休み:月曜、祝日の翌日、電話: 0749-57-8020 )がある。」と紹介されている.
資料1(p.165)によれば,店内には広重が描いたと言われる大きな福助の人形が飾られているようである.また,伊吹堂の艾(もぐさ)は「亀屋左京の切艾」として江戸でも有名だったという.
私達は,福助などには全く興味を示さず,そのまま通過する.予め関連資料を全員に配布した私は若干欲求不満である・・・が,団体行動では,仕方がないなと諦める.
<伊吹堂野店舗は威風堂々>
■造り酒屋山根庄大郎
9時16分,伊吹堂の直ぐ隣にある造り酒屋泰助分家山根庄大郎の店舗を見物する.ここも立派な格子戸の建物である.
残念ながら,この造り酒屋の由来などは手許の資料では良く分からない.
<造り酒屋山根庄大郎の家屋>
■旧柏原村役場跡
9時16分,造り酒屋の直ぐ近くにある旧柏原村役場跡を通過する.柏原村の由来などは残念ながら調べていない.
<旧柏原村役場跡>
■西の蔵跡・柏原銀行跡
9時20分,西の蔵跡を通過する.
前回の記事で記載したように,柏原宿には東西2箇所に蔵が設置されていた.
西の蔵跡の直ぐ近くに柏原銀行跡がある.ここにも案内板が立っているだけで,当時の面影はない.
この案内板の記事によると,1901年(明治34年),艾屋山根為蔵家が,同業者,旅籠屋,呉服屋など家筋5軒に働きかけて,自宅別棟に柏原銀行を設立した.柏原銀行の支店出張所は米原,醒ヶ井,近江長岡,野一色,今須にあった.その後,米原と野一色は閉鎖されたが,1943年(昭和18年),滋賀銀行と合併した.
<西の蔵跡>
■やくし道道標
9時21分,やくし道道標に到着する.
傍らに立っている案内板の説明によると,最澄創建と伝えらえる明星山星輪寺泉明院への道しるべである.泉明院の本尊は薬師仏.柏原宿の東に位置している長福寺の本尊も薬師仏.そこで,泉明院の薬師仏のことを西薬師と呼び,参道を「西やくし道」と呼んでいた.
西薬師は眼病に霊験があると伝えられ,太平洋戦争前までは,門前村であった明星村は賑わっていたようである.今は往時の面影はない.
案内板の記事によると,この道標は1717年(享保2年)に作られたもの.正面に寛文,横2面に平仮名,変体仮名で刻字されている.
<やくし道道標>
■郷宿跡
9時22分,御宿跡に到着する.立派な門と瓦屋根付きの黒塀が巡らされている屋敷が建っている.
門の脇に立っている案内板によると,ここは柏原宿に1軒だけ残る貴重な建物だという.郷宿とは脇本陣と旅籠屋の中間に位置していて,武士や庄屋が出張するときに利用した宿泊所のことだという.
<郷宿跡>
■丸山橋を渡る
9時21分,丸山橋を渡る.
子野橋を渡ると柏原宿とも,そろそろお別れである.
<丸山橋を渡る>
■柏原一里塚跡
9時25分,柏葉一里塚跡に到着する.江戸日本橋から115里,京三条大橋まで後11里である.
ここには復元塚が作られている.塚の案内板によると,柏原一里塚は西見付近くの道路両側にそれぞれ北塚と南塚があった(どちらも現存していない).
北塚は愛宕神社参道の石段東側に,南塚は街道より少し奥まったところにあったらしい.両方の塚の上には榎木が2本植えられていたという.
<柏原一里塚案内杭>
<復元された柏原一里塚>
■東山道と九里半街道
9時29分,東山道と九里半街道の案内板の前に到着する.
銅山道は,ここ北畠具行参道入口で分岐して谷筋を北へ向かう.そして,JR野瀬(山)踏切で再び中山道に合流する.
一方,中山道の関ヶ原宿と番場宿との間のことを九里半街道と呼んでいたようである.
木曽川,長良川,揖斐川の水運荷物は,牧田川養老3湊に陸揚げされ,関ヶ原宿から中山道に入り番場宿から米原湊まで陸送された.この牧田から米原湊までの行程が九里半あった.この積み荷の多さから,この間に関ヶ原,今須,柏原,醒ヶ井,番場の5宿が設けられ,問屋場も多かったという.
<東山道と九里半街道>
■残念無念!・・・北畠具行卿墓を見逃す
この東山道入口から少し入ったところに北畠具行の墓があるようである.この墓を参拝してもそれほど時間が掛かるわけでもないので,私だけでなく後ろに居たAさんも,「是非,参拝したいなと思う.そこで先頭を行くグループに,
「一寸待ってくれ・・」
と声を掛けるが,後ろを全く見ない先頭には声が届かない.
「離れても良いよ・・・2人で見に行こう・・・」
ということにして,2人で枝道に入る.100メートルほど先に進んだが,それらしい場所が見当たらない.慌てる.
仕方がないので,今来た道を引き返す,入口近くの畑で仕事をしている老婆に,北畠具行の墓の在処を伺うと,今戻った道を200メートルほど入ったところにあるという.手許の地図で確かめても,もうちょっと先へ行けば良かったと後悔する.そこには大層立派な宝篋印塔の墓があるという.和達達だけが,これ以上遅延することも出来ない.残念ながらを諦めるしかない.大急ぎで先頭を追いかける.
私が拘るのは,北畠具行が後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕計画の中心人物の一人だったからである.だから,是非,墓所を参拝したかった.実に残念!
ちなみに,資料6には北畠具行について,以下のような説明が掲載されている.
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北畠 具行(きたばたけ ともゆき、正応3年(1290年) 正慶元年/元弘2年6月19日(1332年7月12日)は、鎌倉時代末期の公家。北畠師行の子で、村上源氏北畠家の庶流にあたる。北畠家初代の北畠雅家の孫にあたり、北畠宗家4代目の北畠親房は具行の従兄弟達(従兄弟の子供)にあたる。親房とともに後醍醐天皇に仕えて、従二位権中納言に昇進する。和歌にも優れており、「君の恩寵も深かりき」と評される程の側近となった。また、親房が世良親王急死の責任を取って出家すると、宗家は幼少顕家が継いだために、具行はその後見人となった。
1331年、後醍醐天皇が倒幕計画を立てると、具行も主要メンバーの一人となる。このときの計画は失敗したため、具行も鎌倉幕府軍に捕えられた(元弘の変)。翌1332年、京極高氏(佐々木道誉)によって鎌倉に護送される途中、幕府の命により近江国柏原(現在の滋賀県米原市市)で斬られた。
「ばさら」と呼ばれた高氏は、公家である具行のことも忌み嫌っていたが、死に臨んでの具行の態度には高氏も感服し、柏原宿(清滝寺)に一ヶ月ほど留め、幕府に対して助命を嘆願したが叶わず、その別れを惜しんだと伝わる。前の晩に二人はしばし談笑し、翌日具行は剃髪(出家)後に処刑されたが、処刑前に高氏に対し、丁重な扱いに感謝の意を述べたと伝わる。
「増鏡」によれば、辞世の歌は「消えかかる露の命の果ては見つさてもあづまの末ぞゆかしき」
墓所として、米原市柏原に貞和三年(1347年)建立の方業咽頭が残り、「北畠具行墓」の名称で国の史跡に指定されている。
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こんな大切な史跡を見ないで,“何が中山道だ”と,数ヶ月過ぎた今でもよっと情けない.でも,仕方ないな.団体行動だから・・・・・
<北畠具行の墓案内板;ここから200メートル先にある>
■掃除丁場と並び松
9時38分,「掃除丁場と並び松」の案内板に到着する.辺りは鬱蒼とした松林(だったかな?)である.
案内板の記事によると,掃除丁場とは街道掃除の持場,受持区域のこと.貴人の通行に備えて,街道の路面整備,道路敷のの除草と松並木の枯木,倒木の除去や補植をすること.柏原宿では江戸後期に21ヶ村が夫役として従事していた.
丁場の小さいところは,伊吹上平寺村で15メートル,大きい所では,柏原宿を除き加田村(長浜にある村)の488メートルであった.
江戸時代の柏原宿では,松並木のことを「並び末」と呼んでいた.
また,東西両隣に位置している長久寺村,梓河内村との境界までの街道松の本数は,明治5年調査から逆算して約450本植えられていたという.
<掃除丁場と並び松>
■奥手川を渡る
9時40分,奥手川を渡る.手持ちの地図で現在の位置を確かめる.沿道には鄙びた集落が続く.
<奥手川を渡る>
■白山神社
奥手川を渡って直ぐ右側に白山神社の立派な鳥居がある.鳥居から参道を覗くと,どうやら長い登り階段があるようだ.本殿まではかなり遠そうである.
手許の資料では,白山神社の由来は良く分からない.
<白山神社>
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;http://travel.biglobe.ne.jp/tguide/spot/s11397.html
資料6;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E5%85%B7%E8%A1%8C
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/84489204c9295bc0a1bf069fbe9c8108
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/8363a98a3fa2dbab0eef5df87642882b
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