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中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第14回);第2日目(1);柏原宿(2)

2012年10月05日 05時36分04秒 | 中山道六十九宿

                            <柏原駅から歩き出す>

 歩いて巡る中山道六十九宿(第14回);第2日目(1);柏原宿(2)
           (五十三次洛遊会)

    2012年9月15日(土)~17日(月・敬老の日)

第2日目;2012年9月16日(日) 

<第2日目の行程>(再掲)



<柏原宿>(再掲)



<JR柏原駅へ>

■私の朝食
 第2日目の朝,何時ものように4時頃目が覚める.手許にパソコンもないので,漫然とテレビを見ながら時間を潰す.今日はこのホテルに連泊なので,2日目の今日使う予定のない着替えや資料などはスタッフバッグに突っ込んだまま部屋に置いておくことにする.
 6時半から朝食である.未だ少し時間が早いかなと思ったが,6時20分に食堂がある1階ロビーへ向かう.ロビーにはもう大半の仲間が集まっている.
 朝食はバイキング形式である.戦中戦後のひもじい生活を原体験に持つ私は,バイキングとなると,ついついいろいろと食べたくなる.困ったものである.そんな自覚があるから意識して,取り分けるネーベンに気を遣う.そして,まあとにかく写真のようなメニューで落ち着く.さて,このメニューで,一体,何カロリーあるのだろうか.
 私達は早めに食堂に入ったので,そう混雑も感じないまま食事ができたが,少し遅く来られた方が,優に10メートルを超えるほどの長い行列を作っている.何かイベントがあるのだろうか,若い生徒さんが多いようだ.

<私の朝食>

■タクシーに分乗してホテルを出発
 7時59分,ホテル前に集合.3台のタクシーに分乗して,JR彦根駅まで移動する.

<ホテルルートイン彦根玄関前に集合する同行者>

■彦根駅に到着
 8時丁度に彦根駅に到着する.
 昨日,タクシーに分乗した場所とは反対側の広場に到着する.こちら側の方が,ホテルルートイン彦根には近かった.

<JR彦根駅>

■東海道本線で柏原へ
 彦根8時21分発米原行電車に乗車する.米原で乗り換えて,9時01分,柏原駅に到着する.
 彦根から米原まではJR西日本.電車の本数も多いが,米原から名古屋方面はJR東海,電車の本数は日中30分に1本程度.電車の雰囲気も何となく違う.

<前原駅の時刻表>


<JR柏原駅に到着>

<再び柏原宿を歩く>

■柏原駅前の散策ガイド
 駅前に「柏原散策ガイド」という案内板が立っている.案内板の図は,北が下になっているので,北が上になる地図を見慣れている私には少々見にくい.


■駅前から歩き出す
 9時06分に,柏原駅前から歩き始める.駅前通をほんの少し南へ進んで,中山道と交差する.ここで右に曲がって,中山道に入り,昨日の続きを歩き始める.
 中山道を歩き始めて2分ほどで,立派な格子戸の家の前を通過する.「助三郎」という屋号の家のようである.


■問屋場跡
 9時09分,問屋場跡に到着する.
 軒先の案内板の記事によると,柏原宿には江戸時代後期に6軒の問屋があったようである.宿場の東西にそれぞれ3軒づつ分かれ,「自宅で10日交替(私には意味が良く分からない?)」で勤めていたという.「中山道の人足・役馬は,50人50疋が義務づけられ,下役に張付・馬借・人足指が居た.村年寄役が問屋役を補佐した.人足・馬を出し,問屋業務を助けた助郷村は,当初近隣16ヶ村.彦根藩村々の離脱から,51ヶ村かつ遠方が多くなり,宿場・助郷村とも苦しんだ」と往時のことを説明している.

<問屋場跡>

■東の荷蔵跡
 問屋場跡の直ぐ隣が,東の荷蔵跡である.
 説明板には.「運送荷物の両隣宿への継立(駅伝運送)が,当日中に出来ない場合,荷物を蔵に保管した.この蔵は東蔵と呼ばれ,藩年貢米集荷の郷蔵でもあった.荷蔵は宿西部にもあった.」と書いてある.

<東の荷蔵跡>

■柏原脇本陣跡
 9時11分,柏原本陣跡に到着する.夏草の中に「柏原宿脇本陣跡」の説明眼が立っているだけで,往時を偲ばせるものは何もない.
 脇本陣跡の説明は,この写真で十分読めるので,ここでは省略する.

<柏原脇本陣跡>

■旅籠屋跡
 脇本陣跡の直ぐ近くに旅籠屋跡がある.大きな2階屋の軒下に「旅籠屋跡」の案内板が立っている.
 案内板には「天保14年,柏原宿では東部のここ市場町・東隣り宿村町と西部の御茶屋御殿辺りとに22軒の旅籠屋(宿屋)が集まっていた.同じ年の宿内職業記録には,
  もぐさ屋   9軒
     (屋号の頭は,どこもみな亀屋)
  造り酒屋   3   請負酒屋   10
  炭売茶屋  12   豆腐屋      9
   (煮売屋)     他商人     28
  大工     10   鍛冶屋      1
  諸職人    13   医師       1
とある.」と書かれている.

<旅籠屋跡>

■柏原宿案内板
 旅籠屋跡の直ぐ先に立派な屋根付きの柏原宿案内板が立てられている.
 上段には柏原宿の詳しい説明があり,下段には柏原宿の復元図が掲示されている.
 あるいは私が見落としているかもしれないが,これほど丁寧な説明文や案内板が整備されているところは,これまでのところ,柏原宿以外に無かったような気がする.

<柏原宿案内板>          
             拡大


■柏原宿案内板の記事
 この案内板の記事は少々長いが,参考のために以下に転記しておこう.
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ここ柏原宿は,お江戸日本橋より中山道六十九宿(草津で東海道と合流)の内,六十一番目になり,約百十二里(一里は約3.9キロメートル),京までは約二十一里のところにある.
 江戸示談は,随分栄えたもので,宿場としての業務も,かなり苦労が多かった様である.
 幕末広重画く柏原宿の看板は,何と言っても「伊吹もぐさ」の老舗伊吹堂で,現在の建物そのままである.当時「伊吹もぐさ」を商う店は十指に余り,中山道有数の宿場名物となっていた.現在は一軒だけとなっている.
 柏原宿は,規模が大きく,六十九宿中宿高で四番目,宿場の長さ十三丁(一四二〇メートル)は十番目,戸数人口もこの辺りでは東の加納(岐阜市),西の高宮(彦根市)に次ぐ宿場である.
 しかも旅籠屋(旅人たちの宿場)は,隣宿との距離が近かったにもかかわらず二十二軒もあった.
 現在,一軒も残っていないのは残念である.
 本陣,脇本陣は,それそれ一軒,問屋(人馬,荷物の継ぎ立て一切を行う)は,当宿には六軒(開宿当時は二十軒を数え,幕末になると,普通各宿多くて三軒までなのに,関ヶ原から番場までの五宿は,それぞれ六,七軒であった),その問屋を補佐する年寄り(村役人)は八軒あり,造り酒屋も一時は四軒もある盛況であった.
 この宿は,古くより東町・市場町・今川町(箕浦と言ったこともある)及び西町の四町からなり,宿場機能の中枢は,市場町でした.一つの宿場に四社も氏神があるのはそのためである.
 柏原の総社は,野瀬の神明神社である.
 又お寺の多いことでも有名で,ひと頃は三十ヶ寺を越え,現在も十五寺と三堂がある.
 中世京極道誉の随臣,箕浦氏が四百年柏原を守った館跡(柏原箕浦城趾),近世徳川家光により創建された柏原御茶席御殿跡(地名として残る)等がある.
 宿場から外れるが,織田信長が宿泊した成菩提院は,天台談林三箇随一と言われた名刹で,盛時は,六十坊を数えたという.国指定重要文化財等豊富である.
 また,宿場の東約十三丁の地に江濃国境があり,有名な寝物語の里(長久寺)がある.
 このような柏原宿であるが,しだいに昔の面影が消え,今にも忘れ去られようとしている.
 せめてもの思いに,下図の様な復元図(山東町史付図)を掲げた.
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 私はこの文章を読んで感動した.

■柏原宿本陣,南部家「風雅の道」
 直ぐ隣に「柏原宿本陣,南部家「風雅の道」」と題した案内板が,格子戸の立派な家の軒下に立っている.
 案内板には,南部家の20世および25世が詠んだ歌が紹介されている.


■立派な酒屋
 9時12分,立派な構えの家を通過する.2階の格子戸に「(読めない)酒店」と書いた看板が取り付けられている.
 1階には自動販売機が並んでいる.自動販売機は,立派な建物には不似合いだが,これもご時世だから仕方がない・・・と,言いながら,ここの自動販売機で,清涼飲料水を購入する.

<威風堂々の酒屋>

■柏原宿本陣跡
 直ぐ隣に「柏原宿本陣跡」と題した案内板が取り付けられている家がある.その案内板の脇に「皇女和宮宿泊柏原本陣跡地」と刻字した石柱が立っている.
 この案内板の説明によると,「柏原宿は江戸時代を通じ南部家が本陣役を務めている.間口はこの家の両隣を合わせた広さで,屋敷は五百二十六坪,建坪は百三十八坪であった.皇女和宮宿泊の時,新築されたと云われる.明治になり,柏原小学校前身の開文学校はここに創設された.その後建物は明治中期に岐阜県垂井の南宮神社司宅へ移築された」という.

<本陣跡>


<皇女和宮宿泊の石碑>

■高札場跡
 9時14分,高札場跡を通過する.
 立派な石灯籠のあるお宅の庭先に高札場跡の説明板が立っている.この説明文によると,高札場は,道沿いに長さ4.86メートル,高さ0.91メートルの石垣を築き,その上に高さ3.33メートルの高札掛けの建物があったという.

<高札場跡>

■市場橋
 9時14分,市場川に架かる市場橋を渡る.

<市場橋を渡る>

                                    (つづく)
[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;「岐阜県十七宿散策ガイド」日本歴史街道美濃中山道連合・岐阜県

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/10fdaad415456ee3e18a3d660b2c456c
「中山道六十九宿」の次回の記事

http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/cb0ef93c8ab532e87dfd17b6693eb9c5

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