しおりには杉野記念館の建築年は1938年(昭和13年)と
書いてあり、そこで頭をよぎった言葉は「ギリギリセーフ!」
昭和13年7月18日に合資会社文化工業社が東京市に提出した
歎願書(今の表記なら嘆願書)が残っている。
港湾部庁舎放熱器及汽罐設置工事(芝区海岸通三丁目)で
契約日は昭和13年6月8日。ちなみに文化工業社は

品川区大崎本町二丁目にあった。広告は昭和5年当時の
もので、品川区は昭和7年に誕生する。
歎願書には「放熱器は7月1日より現下非常時局の為、製作禁止品目に
指定せられ候為、現品入手不可能と相成候。其後日本放熱器工業組合に
於て7月1日以前に製作せられたる放熱器を以て既往註文数に応じ、
各工事業者に配分するの余儀なきに至り・・・」とあり、公共工事と
いえども放熱器の入手は困難だったようである。
もしかしたら一般住宅だった品川区の杉野記念館は、建築中に既に
放熱器が手に入りにくくなっていたのかもしれない。入手できた
放熱器の数と種類を見て、窓の下に置くことを断念したのではないか。
そう考えれば建築に精通していた設計者が、あの謎な配置にしたのも
妙にうなずける。
キャビネット一体型の引き出しが問題なく開閉できたと書いたが、
杉野記念館が竣工した昭和13年以降、順次資材統制が始まる。
石炭も例外ではなく、引き出しがスムーズに開閉できたのは
大工の技術もあるが、ラジエーター暖房を使用できた期間が
短かったから、という可能性も否めない。
見学時にいただいたのはしおりの他に「杉野記念館のステンドグラス」の
説明書。解説に「昭和13年は、日中戦争が始まった翌年で、ステンド
グラスの製作に必要な鉛やガラスなどの物資が不足してきていました。
明治以降日本で造られてきたステンドグラスの製作も戦前のものと
しては終末期だったのです」
放熱器も仲間に入れて~
書いてあり、そこで頭をよぎった言葉は「ギリギリセーフ!」
昭和13年7月18日に合資会社文化工業社が東京市に提出した
歎願書(今の表記なら嘆願書)が残っている。
港湾部庁舎放熱器及汽罐設置工事(芝区海岸通三丁目)で
契約日は昭和13年6月8日。ちなみに文化工業社は

品川区大崎本町二丁目にあった。広告は昭和5年当時の
もので、品川区は昭和7年に誕生する。
歎願書には「放熱器は7月1日より現下非常時局の為、製作禁止品目に
指定せられ候為、現品入手不可能と相成候。其後日本放熱器工業組合に
於て7月1日以前に製作せられたる放熱器を以て既往註文数に応じ、
各工事業者に配分するの余儀なきに至り・・・」とあり、公共工事と
いえども放熱器の入手は困難だったようである。
もしかしたら一般住宅だった品川区の杉野記念館は、建築中に既に
放熱器が手に入りにくくなっていたのかもしれない。入手できた
放熱器の数と種類を見て、窓の下に置くことを断念したのではないか。
そう考えれば建築に精通していた設計者が、あの謎な配置にしたのも
妙にうなずける。
キャビネット一体型の引き出しが問題なく開閉できたと書いたが、
杉野記念館が竣工した昭和13年以降、順次資材統制が始まる。
石炭も例外ではなく、引き出しがスムーズに開閉できたのは
大工の技術もあるが、ラジエーター暖房を使用できた期間が
短かったから、という可能性も否めない。
見学時にいただいたのはしおりの他に「杉野記念館のステンドグラス」の
説明書。解説に「昭和13年は、日中戦争が始まった翌年で、ステンド
グラスの製作に必要な鉛やガラスなどの物資が不足してきていました。
明治以降日本で造られてきたステンドグラスの製作も戦前のものと
しては終末期だったのです」
放熱器も仲間に入れて~