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イタンデイコウ!

ひっそりたたずむ、設備たち

それは地名か、姓なのか?

2015年05月06日 | 電話
これは長野県諏訪市にある片倉館の会議棟にあった電話



片倉館ホームページの 見学のご案内 にも、その姿が出ている。
このメーカーは諏訪工業株式会社。諏訪市からとった名前だろうと
地元メーカーと思われるとしたが、地元じゃないかもな資料が見つかった。
雑誌「OHM」7巻1号では紙上電気博覧会の特集が組まれ、その中に
諏訪工業株式会社 出品 S.P.卓上電話機として甲乙が掲載されている。
甲の電話機がこれ。




甲は「実用的のものにして外箱を皮張りとなし」、乙は「座敷用のものにして
木材に美術的塗料を施したるものなり」とあり、片倉館の電話は甲タイプである。
S.P.が何を指すのか不明だが、SUWA PHONE?




大正5年7月に発行されたOHMに掲載された銘板はよく見ると右書きなので、
片倉館の電話はこれ以降に製造されたものではないかと思われる。
諏訪工業は東京市京橋区銀座4丁目に東京本局があり、その他に大阪本局、
台湾支局、横浜販売部があった。諏訪が名字なのか、出身地なのか謎である。

早く逝くとは 2

2015年04月07日 | 電話
「早く逝くとは」 で沖電気が銘板にあらかじめ「大正」の文字を刻印していたが、
刻印をしていたのは沖電気だけではなかった。

事前予約で見学した諏訪の片倉館会議棟には、おそらく地元メーカーと思われる
諏訪工業株式会社の電話機があった。


   

沖電気と違い、大正が刻印ではなく年のほうに刻印するようになっている。
そう、諏訪工業も大正が終わるとはまったく思っていなかったのである。
この電話の製造年は「大正15年8月」。まさか4か月後に天皇が崩御するとは
予想外だった、と語る電話機である。

早く逝くとは

2015年03月09日 | 電話
「ジブリの立体建造物展」でにぎわう江戸東京たてもの園に行ってきた。
が、人混みが苦手なので、ジブリはスルー。
たてもの園は何度か訪ねているが、行くたびに発見があっておもしろい。

大正14年に竣工した田園調布の家(大川邸)の女中室には電話がある。


   

あごの部分に銘板があり、沖電気製とわかる。



この銘板には製造年月部分にあらかじめ「大正」と刻印されているが
明治は45年続いたので、まさか翌年に大正天皇が崩御するとは
思ってもいなかっただろう。
眺めながら、ちょっとしんみりするなり。

銘板は語る

2013年02月27日 | 電話
以前より見学したいと思っていた滋賀県庁に、ようやく行ってきた。

受付でその旨を伝えると「ご自由にご見学ください」とのことなので
館内をブラブラする。2階の廊下には赤じゅうたんが敷いてあり


さすが県議会議員の控室がある階だなと苦笑する。
で、壁に目をやるとこんなものが貼りついていた。

 
扉のツマミ部には「電話」と書いてある。さらに近づくと

「弱電用端子盤」と書かれた沖電気株式会社の銘板が。
製作は昭和14年2月と刻印されている。受付でもらった県庁の
パンフレットによると、県庁の竣工は昭和14年。この端子盤は
当時からのものであろう。電気関係の盤などは改修が入っても
銘板を取り替えるようなことはしないので、竣工年を探るのに
いい材料になる。沖電気は東京の会社だが、大阪〔社名〕東京と
大阪が先にくるのは、滋賀は大阪に近いという配慮なのか?

昔は誇り、今は迷惑

2012年01月26日 | 電話
電話規則では「加入電話の設置場所には建築物入口の見易き
個所に電話番号標札を掲示するものとす」とある。この標札は
「局より取付くるものにして」とあるが、大きさや字体を守れば
オリジナルな標札をつけることができた。

茂木佐邸の入口には標札があるのかな?探してみよう!




 ・・・・ おっと、玄関が4つという思わぬ事態に。

標札はなかったが、昔は電話がある証として誇らしかった標札。
電話番号がまるわかりだから、今なら迷惑物だな。

雨の日、雪の日、夜中の日

2012年01月25日 | 電話
単独・共同線・連接の種類があった加入電話だが
茂木佐邸が竣工した大正13年に「連接」いわゆる
親子電話が使われていたのは意外だった。
母屋と離れといったような別棟の建物の連絡手段は
人が出向くしかないので、かなり便利だったと思う。

最初の電話規則は明治39年に制定されたが、この時
から既に加入電話は単独・共同線・連接の3種類と
なっており、連接が特別なものではなかったことが
伺われる。



「転換器」 沖電気商品目録 昭和3年

大正14年に発行された「電話加入権の知識」によれば
連接加入の利点は
・単独加入より開通が早い
・加入申込登記料が単独・共同線より安い
・開通料が不要
・一般電話使用料金が単独に比べて安い
・本加入との通話には交換手を媒介しないで、直ちに
 通話ができる(つまり内線電話)

欠点として
・本加入が通話中の時は、他と通話できぬこと
 (あくまでも回線は1本ですから)
・連接加入者の通話上の秘密が本加入者に漏れる
 おそれがある(通話に参加できないだけで、音声は
 聞こえているということか?)
・電話機を制限距離以外に移転できない
・加入権の消滅する事由が容易で比較的多いこと

「秘話機能」がないのはかなりな欠点だが、雨の日や
夜中に「来客あり」といった単純な用件を知らせるだけに
出向かねばならぬことを考えると、やっぱり便利だった
と思う。


参考文献  電話加入権の知識  時田至著 大正14年


直径220m以内を探せ

2012年01月24日 | 電話
連接であったと思われる茂木佐邸の電話であるが、
子機にあたる電話機はどこに設置されたのか?

「電話室」の明示はないが、玄関脇の白矢印が電話室。
親機はここにあったと思われる。電鈴は上台所の白矢印部。


  

電話規則で連接加入電話機(子機)は本加入電話機(親機)の
設置場所より直径220m以内、と決められている。
上台所に電鈴が設備されているので、子機はその音が
聞こえる範囲にあるはずだ。現在の市民つどいの間
(事務室兼資料室)には、以前「帳場」や食堂があった。
帳場に電話は必要かも。平面図では帳場付近に空白の
スペースがあり、もしやここに ・・・ と思わせる。
ただ親機とそう離れていない、というのが気になるが
さてさて、子機はどこにあったのか?

一方、親機に近い場所に置く転換器は、電話室内に
設置されていたと思われる。
送話器の高さから、電話機の位置は推測できる。
その付近には電話機の幅より狭いネジ穴の跡らしき
ものが残っており、そこが転換器の位置ではなかったかと。

もう一台あった、はず

2012年01月23日 | 電話
茂木佐邸に残る角型の鐘の電鈴であるが、
「特殊の音を発するものにして」とは、丸い電鈴とは違う音色で
鳴るということのようだ。用途は「連接電話を設置した場合」の
聞き分けとある。
この当時の加入電話は、「単独」「共同線」「連接」の3種類。

単独は局番ひとつに電話機ひとつ。
共同線は局番ひとつに電話機2台。どちらか片方が回線を
使用できる「ペア」仕様。
連接は「単独」の回線に電話機を連接するもので、いわゆる
「親子電話」。共同線と違うのは内線通話ができたことである。

交換局 ◎ ――――――― ◎ 本加入者
                     ・
                     ・
                 ◎ 連接加入者

     
電話機にはもともと電鈴がついているので、別途設置する
電鈴を「増設電鈴」と呼ぶが、この増設電鈴は1加入に
つき1台と決まっている。残された電鈴が角型ひとつという
ことは、茂木佐邸の電話は局番ひとつに電話機2台だったと
思われる。
連接電話の場合、本加入電話機(親機)と連接加入電話機
(子機)に別れるが、この間を取り持つのが「転換器」。
親機と子機の切替スイッチである。この転換器は親機の
そばに置くと決められている。



茨城県つくば市北条の岩崎屋に設置の転換器

このスイッチの切替で親機からの外線通話、子機からの
外線通話、親機と子機の内線通話ができる。この時に鳴る
電鈴の音色で、親機と子機の区別をつけているのである。

もう1台あったと思われる電話機は、いったいどこに?





その条件、クリア!

2012年01月22日 | 電話
茂木佐邸が竣工した大正13年当時の電話法令は、大正8年の
逓信省令第9号「電話規則」。電話を設置する場所はこの中で
決められている。

次のことに留意し、施設者の使用上便利な位置を選ぶこと。
・採光及び照明を適当にして、点検容易なること
・周囲喧噪ならざること
・湿気、粉塵又は有害ガスある場所を避けること
壁掛電話機は「送話口」を床上約1.4mの位置に取り付ける。
壁が電話機の取付に適さないときは規定の寸法の木板を壁面に 
堅固に取り付ける。(共電式・磁石式で寸法が変わる)

「電話室」というものは、なくてもよかったということだ。
電話室で実測すると電話の台まで80cm。送話口の高さは
60の目盛部。電話は意外と高い位置にあったのである。


 

しかし規則では次の場所には電話室を設けることとしている。
・屋外または外気吹通しの屋内
・待合所、市場、廊下、広間等の人の出入り多い場所
・発電所、工場等の喧噪なる場所
・特に通話に秘密を要する場所
・特に粉塵の多い場所
電話室の条件は採光・照明及び通風に注意すること。
内側の大きさは間口・奥行とも75cm以上、高さは2m以上。




実測すると間口79.5cm、奥行90cm、高さは2.31m。
ガラス扉の一部は格子になっているので、通風もOK。
電話室の条件はクリアしている。

最後に、電話機を電話室内に置く時は呼出電鈴の鳴動を
注意せしむべき適当の装置をなすものとするとあり、例として
増設電鈴の設置をあげているが、茂木佐邸に電鈴がある
のはまた別の理由。

呉越同舟、もしくはコラボ

2012年01月12日 | 電話
旧安田楠雄邸の電話機の銘板は、筐体下についている。



銘板には右書きで「大阪 日本電話工業株式會社」とある。



戦前に電気之友社が発行していた「電気年鑑」には、電気電燈は
もちろんのこと電信・電話についても業者データが掲載され、日本
電話工業は昭和8,9年版に掲載されている。電話機を製造できる
メーカーは限られていたので、これが銘板の会社であろう。
その日本電話工業株式会社は、現在のNECインフロンティア株式
会社。昔の「日通工」と書けば、ご存じの方が多いのではないか。


NECインフロンティア株式会社の沿革
大正7年2月8日、大阪市に日本電話工業(株)として創業。
昭和7年 大阪市に日本電話工業(株)を改めて設立。
ネットではさらりと書かれているが、日通工75年史を見るとこの間は
かなり苦労した会社である。

大正7年に本社を大阪市北区堂島浜通の川北電気企業社内に置く。
資本金は100万円。逓信省の通信技術者だった若目田利助
(わかめた りすけ)が社長に就任。
大正10年3月に逓信省の指定工場となるも、11月には川北電気
企業社強電製造部門と合体し、株式会社川北電機製作所と改称。
昭和5年1月に川北電機製作所に奥村電機などを加え、京都電機
株式会社を設立するが、12月には休業。
つまり大正7年2月の創業から日本電話工業の名で活動したのは
わずか3年9ヶ月。

そののち昭和7年11月に日本電話工業株式会社は、資本金10万
円で再び設立された。取締役社長は同じく若目田利助。本社も
大阪市此花区上福島と、大阪の地を離れることはなかった。
しかし昭和12年8月、日本電話工業は株式会社三陽社製作所
(コンデンサ)・株式会社坂本製作所(ラジオ受信機・変圧器)・
日本周波電気時計株式会社と合併し、日本通信工業株式会社
となった。
ここでも日本電話工業の名は、4年9ヶ月で終わったのである。

ダイヤル式電話機が登場した大正15年当時、日本電話工業の
社名は既になかったわけで、この電話機は昭和時代の日本電話
工業製と思われる。約5年と短い活動の中で製作されたこの1台。
奇しくもライバルの沖電気・日本電気と共存しているが、これは
呉越同舟と見るか、時代を超えた3社のコラボレーションと思う
べきか。

旧安田邸に残る電話機は、単にレトロな電話じゃないのである。