みーばぁ整体室より: 体の謎とバトルの日々

みーばぁ整体室の現場では、病気や痛みや体の謎を解きつつ施術が進みます。謎が解けると施術も上手くいく。それが楽しいの。

脳脊髄液減少症 (6) =「同じ空の下」が出版されました

2011-10-27 | 脳脊髄液減少症に想う

脳脊髄液減少症と闘う患者さんが書いた本、

「同じ空の下」が文芸社より出版されました。

轟愛、轟知恵さん母娘が綴った記録です。

~~~関心のある方は、どうぞお買い求め下さい。


K.A.さんは、「同じ空の下」の本に、

一患者さんの手記として、体験談を載せています。          

その原文を、先日のメールでお送りいただきましたので、

掲載させていただきます。(少々長いですが、お読みください)


   

   ~~~~~~~*~~~*~~~~~~~


 

平穏な生活から地獄へ転落・・・

  ~やっと見つけた 一筋の光の中で~   

 

平成17年2月。子供の学校の授業参観での出来事でした。保護者用として準備

されていた丸椅子に座っているところに不意な事故が起きました。

 

生徒が振り回していた縦笛で、左頭部を強打したのです。不意打ちの衝撃は強

く激しく響き、どんどん気が遠くなり、一瞬、気を失いそうになりました。いい

え・・はっきり覚えていませんが、少しの間、気を失っていたのかもしれません。

打撲箇所には激痛が走り、数日の間 痛みも治まらず、その日から横になって

過ごすことが多くなりました。


当時の私は、その出来事が、後に残酷とも言える症状との闘いになろうとは思

ってもいませんでした。が、正にそれが、想像を絶する日々の始まりでした。打

撲箇所の痛みもさることながら、その後、左耳の激痛、左顔面痛、首肩腕痛、背

部痛、頭痛は日に日に強まり、やがて10分も立っていられなくなりました。


必死の思いで病院を転々としました。打撲、三叉神経痛、眼窩骨折、そして精

神的なものという扱いも幾度となく・・、その他にも様々な病名が付き、治療も

続けましたが 根本的治療には繋がらずに、症状は次第に悪化していきました。

当時、2歳と4年生の子供がいた私は、子供の世話どころか家事も一切できな

くなり、床に伏せる生活が続きました。


それから1年半の間は、全身の激痛や苦しみに耐えながら、病名を探し続け、

何とか生きている状態でした。正に、今まで経験したことのない地獄の日々・・・。

表に見えない怪我は 精神的にも非常につらく、数々のドクタ―ハラスメント

や今まで経験したことのない不当な扱いを受け、人権も名誉もない、ただ、地獄

で生きているような 心身共に耐え難い日々を送りました。


私が素直に感じたこと 見たものは、医療の現場において、患者の話を良く聞

く医者が少ないということ。教科書通りの医学、知識ばかりで人を診ない心のな

い医療現場でした。まして、第3者行為と聞くと、「利害関係ですか?」などと

個人的な感情が入るようで、一段と患者の話に耳を傾けてくれない医師が意外に

も多い。という感想でした。

   医師の中での その常識的な考えを変えてもらうのは非常に難しく、「世の中

 の常識の溝にはまってしまった」ことを痛感しました。

そのような不当な扱いを受けることになったのも、(この目に見えない病。今

まで存在すら認められなかった病。)『脳脊髄液減少症』だったからでしょう。

 

症状は、日を増すごとに悪化して行き、

「いつまで生きて行けるのだろう・・・?」

「いつまでこの激痛や苦しみに耐えていられるのだろう・・・?」

毎日毎日、症状とひたすら闘い、やっとの思いで生きていました。出口のない真

っ暗なトンネルの中で、八方塞がりの絶望感に襲われ、胸が張り裂けそうで、身

も心もボロボロに壊れて行きました。

 

平凡な家庭生活は一揆に崩壊し、日が経つに連れ、子供たちの表情もなくなり、

家庭はまっ暗闇に急変し、家族皆を巻き込んだ地獄のような状況の中で、一家心

中さえも考える程でした・・・。

『症状にこれ以上耐えられない・・・。

でも、子供を残して死を選択する訳にはいかない・・・。

子供たちを、これ以上巻き込む訳にはいかない・・・。』


 自分の度量では、抱えきれない痛みや苦しみをかかえ、何とか必死に生きてい

るしかありませんでした。一分一秒の 先の見えない、長く苦しい“戦い“でした。

 

その後、必死な思いで医学書を開いても辿り着く病名もなく、インターネット

で調べても出口の見つからない中、ある日、頭痛の他にも私の症状に当てはまる

病名を見つけました。

『これだ! 私はこの病気だ!』 

 すぐに病院を探し、検査に至りました。その結果、「脊椎レベルでの多発性髄

液漏」、低髄液圧症候群(脳脊髄液減少症)でした。 

 病名が分かった時は、本当に嬉しかった。今まで生きていて良かった。これ

治療をして、この苦しみから解放されるかもしれない・・・。

 ~真っ暗なトンネルから、やっと見つけた一筋の光でした。~

 

現在、熱海の病院でS医師に診ていただいていますが、本当に、患者の話を、

目を見てしっかりと聞いてくださる 素晴らしい先生です。

この先生が、この病気の存在を見つけてくださらなければ、私は、もう、この

世には存在していなかったかもしれません。

患者の苦悩を少しでも和らげようと、身を粉にして日々頑張られておられる

真の医師に巡り合えたこと、それは、私の生きる希望にもつながりました。

 

頭部外傷の不慮の事故から、予想がつかない程に体調が崩れて行き、孤独に陥

り、失うものも数多くありましたが、S先生をはじめ 心ある人々に支えられ

今まで生き抜くことができました。

 

今、私は、前進したり、後退したりしながらも、健康の大切さや平凡であるこ

との喜び、ささいな幸福をも感じられるようになり、今まで見過ごしてきた小さ

なことへも 感謝の気持ちが持てるようになりました。

 

一時期は、我が子にさえ 全く愛情を感じられない程に、身も心も 崩れてし

まった私ですが、

現在は、ようやく子供への愛情も感じられるようになり、残った症状を治療し

ながら、日々、前を向いて 生きています。

   

          ~~~~~~~*~~~*~~~~~~~


手記は以上です。

ここまで読んでいただき、「ありがとうございます」


 



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