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写真で綴る花鳥風月:Kachofugetsu spelled out in photographs

ハスを見て思うこと、思い出と思いと戯言

2021-06-27 | ざれごと

[写真は4枚]

今回はざれごと。

 

 

蓮華(はす)を見ると思い出す。

はるかな宇宙(そら)遠い故郷(くに)

蓮華(てんしょう)の花が咲いている。

夢ごこちでいる此岸のほとり。

輪廻の色に染まり行く。

はるかな故郷(くに)遠い宇宙(そら)

 

 

 

二千年以上の眠りから目覚める蓮華。

その花に輪廻転生を重ねて蓮華に座し単を示す。

古来はキリスト教でも輪廻転生を説いたという。

 

受け手によっては乱暴な物言いだと思うが。

宗教の違いはあれど帰結するところは同じなはず。

歴史と文化の中で形とやり方を違えているだけ。

 

私は神とか魂や来世とか信じるも信じないもなく、分からない。

分かるのは宇宙があって存在しているだけ。

生の延長に死があることが絶対ということ。

 

時間も存在しているか分からない。

ただ生まれて老いて行くこと。

そのことが唯一概念ではなく時間を絶対のものにする。

それもまた直感的なことで、本質とは違うかもしれない。

 

 

思い出

 

私が生まれた村の祖先は複雑。

二ホンとロシアが入り混じっている。

おそらくヘブライの血も交じっている。

盆踊りの歌詞は村人総出でヘブライ語。

他にも混じっているかもしれない。

 

 

祖父から私への教えは浄土真宗とキリスト教。

表向きは浄土真宗。

夏休みはお寺で仏教の作法を教えられ半ば修行。

だったが、ある日の晩に二子相伝でキリスト教を受け継がされた。

 

そんな村のことについて終戦後に話題になったらしい。

地方新聞には踊り念仏と紹介され密教のように扱われたと聞く。

 

 

祖父から聞いた話が確かなら。

村には戦国の時代に逃れてきた浄土真宗の信徒が住み。

血塗られた過去があり。

逃れた地にたどり着いたのは大晦日と正月の境目。

慌てて松の枝を折って厩の前に投げたそう。

 

後の江戸時代にロシアの船が流れ着き。

故郷に帰ることもできず。

キリスト教を唱えることもできず。

思いを隠して帰化せざるをえなかった。

そして現代にいたる。

 

そのため正月の村の風習は変わっている。

 

大晦日にお祭り騒ぎをして豪華な食事を食す。

まるで前夜祭。

門松は用意せず松の枝を玄関前に放り投げるだけ。

正月におせちの風習はない。

雑煮を食べるのみの質素な食事。

ひたすらもち料理を食べ。

七日の日に七草粥を食べるまで普通の食事はしない。

 

 

そんな教えを受け継がされたのは十歳に満たない時。

過疎化が進み村に住むのは祖父祖母世代と孫の世代。

 

今にして思えば、

地方へ出て行った子の世代を飛び越して。

まだ思春期すら迎えない子に教えを託すしかなかったのだろう。

友達だった一つ年下の子と私への相伝。

 

私はまもなく故郷とは違う地へ。

村に残った友達の子は成人する前に病いで他界。

相伝した祖父らも村で天寿をまっとう。

 

残り由を知るのは私のみ。

だが帰省した時にする私の話しを村人信じない。

まぁそれもよし。

仏教の教えとキリストの教えを祭事の時に歌っておきながら。

意味も分からずに唱えていながら。

 

お盆には「私は神をたたえます」とヘブライ語で唄っていながら。

 

私の言うことには異議を唱える。

物事とはそういうものだろう。

 

自然な流れが当たり前であって。

当たり前のことが崩れることを恐れて。

違和感があるものや異端のものを排除する。

村・町・都市・国や地域の大小があっても本質は変わらない。

 

宗教の違いがあっても、

当たり前のことが崩れることを恐れる気持ちは変わらない。

直感的なことが本質とは限らないことも知らずに。

人の本質が帰結するところは同じ。

 

蓮華の花を見るたびに。

その花びらが散るのを見るたびに。

これらが頭を通り過ぎる。

村人に何をしたいとも思わない。

村人に何かを伝えようとも思わない

今さら何を伝えよう。

埋没してゆく歴史の繰り返しの中で人は生きてい行く。

 

 

 

【最後まで戯言にお付き合い頂きありがとうございます】



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