昭和2年生まれの雑記帳

一市井人の見た昭和の記録。今は思いも寄らない奇異な現象などに重点をおきます。
       

<増修版36>忍耐ずくめの2年生

2015-04-23 | 昭和初期

 

 自治と強制 自治を掲げたのは、当時の国内外の2~3の書物の影響があった。自治を掲げたからには教室の清掃のいい加減さには目をつぶった。他のクラスへ行った前年活躍した女子たちが、教室のタワシがけをしたとか、学級新聞を発行したとか、次々に新しい組の情報を報告しに来てくれる。私の組の床は泥だらけ、期待している自治会も開かれそうにない。それでも辛抱した。しかし、男女隣席だけは1年の時と同じく長期間強行した。1人机だから、嫌がって離すのを一々くっつけて回る根比べもやった。授業中の私語を防ぐためである。これは他の有能な先輩教師の学級でもまた間もなく取り入れられたので少しやりやすくなった。翌年の2月下旬まで強行するが、「教室に塵を捨てないこと」を交換条件としてやっと男子のボスたちの要求を入れたのだった。   

  男女不和 昭和22年から男女共学にはなっているが、昭和23年、3年生でも、放課後に教室で1組の男女が距離を空けて話していたのを1度だけ見たことがある程度で、この頃はまだ大っぴらな交際は見られなかった。男女並んで歩く姿などまだまだ後まで見ることはなかったのではなかろうか。2年生位では、表面では反発する方が多かったかも知れない。この学級でも、最初の説教は男子に対して、女子への和を説いている。4月15日のことだ。

  草引熱中 以前に記してしまったが、校庭のほかに運動場ができて、毎年9月早々に草引きをすることになったのはこの年からか。この年は5月にも、翌年テニスコートが2面できる場所の草引きをしている。炎天下、1時間の作業だったか。大へん不思議なことと言えば、彼・彼女らに大いに失礼になるのだが、この時は交代せよとやかましく言ってもバケツを持って逃げて行ってしまう位みな良く働いたと記録している。失礼と言ったのは、その後の男子の教室掃除のいい加減さ、一部の女子の反抗とはそぐわないと感じたからだ。しかし、これらのことは、純な彼・彼女らへの私の対応のまずさによった可能性大か。終了時に各自が抜いた草を運んできて、一定の場所に積み上げるが、男子の量に比べて女子のは極度に少ない。それを言って細かい草を引くのは大へんなんだと反発された。このことは後に自分の家の庭で草引をするようになって実感したことだった。男子には草丈の長い場所を割り当てたが案外抜き安かったのか。微熱を出しながらの監督はつらかった。この頃もずっと微熱は続いていた。5月の祝日-当時は3日の憲法記念日だけ―の前日には、明日床磨きをすると、病欠中の私に電話してくれた女子のグループもあった。10名で実行してくれた。少ないが日記帳で親しく語りかけてくれる子もいた。

 一般家庭に電話のある時代ではない。父の家業上、電話債券を買って、長期間待って、やっと引いた電話である。私はまだ結婚していないから当然、両親と同居していたので電話が使えた。 

  愉快な学級提唱 床がきれいになって1週間後、初の座席変更をした。そして「愉快な学級」を提唱した。自治会で落書板を設けることと、何かの行事を行うことが決められていたが、後の方の内容は今は分からない。誰かの教師の欠勤の時間には自治会をするようにかねがね申し渡しておいたが、スローペースながら、何とか行われるようになり、以前は反抗していたのに花を持って来て飾ってくれる2人の少女も出てきた。日記帳で心情を吐露してくれる生徒が女子に3~4、男子に2名ほど出てきた。2月末まで話が飛ぶのだが、一番手を焼いていた男子2人に「良い意味でのボスになるよう頼む」と言って、翌朝のショートタイムでの作戦―内容不明―を授け、その時は成功した。  

  反抗 女子の1~2のグループにも一時期反抗された。大方の理由は忘れたが、細かいことを言い過ぎるというのが一番だったか。今から思えば本当に父親以上の気持になって1人1人のことを構いすぎてうるさがられたのが一番だったか。男女各一部のグループ同士が親密になりかけたのを阻止しようとしたり、登下校時の歩き方がだらだらしている子たちへの注意が一番反発を食ったか。ソフトクラブ部に何名かが入部しようとしているのを知り止めたことも。ソフトクラブ部の雰囲気に眉をひそめていたからだ。それでも2人には入られたが。スカート丈は膝下何cmとかと決まっていて、それより長くするごく一部の子がいて厳守させようとしたことにも反発があった。叱るよりほめよの語は知っていたが、自分が過去に謹厳実直だったものだからつい目こぼししかねる所があった。包容力も足りなかったのだ。それらの子には1学期末の懇談会で母親にも注意したことがあって、翌日の放課後教室で遅くまで詰問され話し合ったことがあった。最後には、先生には勝てんと白旗を掲げさせたものだった。2学期には大方の女子たちは気持ちよく協力してくれるようになったが、男子数名の反抗は続くのだった。男子の場合はグループとしてではなく個人的にだったのは救いだったが。掃除や日記帳などの提出が悪いと罰掃除を、多い場合は5日連続でさせたりもしたからだろう。組一番体格もよく、成績もよく、福相なのに大勢の教師に反抗していた男子がいた。1年から私の組にいたのだが、この生徒の場合は母親が宿題や日記作成に手を加えていたことが分って注意したこともあるような熱心な家庭だったのに、後に一発殴ったら組み付いてきたこともある。一旦はやんわりと説教して涙ぐませ、暫くは温和しくさせたこともあったのだが、その後、以前記した美術科の古参教師にも撲られている。最初に記した1年の時の名委員長は、2学期には病気が快復して、また委員を務めてくれたが、最後はこの男に骨抜きにされてしまった。体格差が大だった。この男については次稿でまた述べる。

  贔屓(ひいき) 学級経営方針は特に改まって考えることはなく、場当たり的だったかもれない。教室の前壁には、父に模造紙に大きく墨書してもらった「自治」の語を貼ってあった。「ひいきは決してしてはいけない」ということだけは奉職当初からの信念だった。好意を抱く相手にもそれを伝えたことはない。従って、生徒からこのことで文句を言われたことは1度もない。これは寂しいことだ。1歳年上と3歳程年下の同僚に、共に教え子が高校を卒業するのを待って結婚したのがいる。彼等が教室でどう接していたかは知らないが、そんな感情を持つこと自体学級経営に災いすると固く戒めていた。

  強権発動 自治の方針は大方諦めたのだったか、5月末についに“反省期間16日間”を申し渡している。16日というのは掃除当番が2回めぐる期間だ。自治会で決めた落書き板以外への落書き・その小黒板の破損・清掃状態の悪化・整頓不良などに、ついに業を煮やして16日間の謹慎を命じ、破壊者の代表として、一番背の高かった野球部員に1発パンチを食らわしている。非力の自分のパンチをしぶしぶでも受入れてくれていたのは、何よりも時代のせいで、なぐってやってくれという親も時々いた位。魂胆があってしたのではないが、ホームルームでの雑談で、商業学校時代に柔道を習っていて護身術として必殺技を学んだが、これは危険だから教えないと話したこと。動員中に空手の真似をしてコツコツと板を叩いて鍛えた拳骨で机をコツンと叩いて見せ、時には頭上に手首を軽く振ってコツンと見舞ったことも。真似をして机を叩いて大へん痛がった生徒も他の組にはいた。武道がGHQによって禁止されていた時代だから、生徒からは強く見られていたのだろうか。ただし、以前に書いたように、空手を習っている生徒がいようとは露思わなかった。また、少し後の学級で、在学中に若い猛者教師を、夜、近くの公園へ2人で呼び出し、チエーンでしばいた生徒もいた。猛者がどこだったかを怪我していたことは確かにあった。しばいた生徒が卒業3~4年後に家へ友人と娘の誕生祝いに来てくれて聞かされた話だ。その生徒は、私が担任した小柄だが見るからに悪そうな面体で、事実悪(ワル)で通っていた朝鮮籍の生徒だ。私も少し手心を加えて接していた。猛者教師は私より3歳ほど下で体格がよく、日頃から生徒に強圧的で、過去に校庭で2列横隊に並んでいる生徒を危うく全員ぴんたしかけたのを寸前に見つけて止めたことや、私の欠勤者に対する補欠割当方針にくどくたてついたので、かっとなって手にした補欠割当簿で1発顔をはたいた―この時は止めに入ってくれるひとがいたり、ひょっとすると前記のことに恩義を感じていたりしてか、なぐり返されずにすんだ-ことのある人物だ。腕に覚えがあって呼出しに応じたのだろう。前記のワルはしばらくすると、今度は1人で来て借金をせがんだ。結婚祝いはそのための方便として友人も巻き込んだのだったろう。ごく少額を与えた。彼は間もなく、前記の公園のベンチで泥酔していて凍死したとのこと。この手記の学級の少年1人も卒業後数年して失業し、借金に来て少額与えたことはある。2年の時には男子の中では一番よく文句を言った男子だが。2回とも丼は取ってやった。そうしたことは幸いにもこの2回だけだ。勤務校によっては度々起こる問題なのではなかろうか。

  レクリエーション 女子たちとは昼休みなどに時々円陣を組んでバレーボールの打上げ合いをした。昼休みには小会議も多かったので、そう度々ではない。男子とはゴムボールでの野球を2~3度しかしていない。走り回る元気のある日は少なかった。遠足で奈良公園の昼休み、珍しく、私は男子とゴムボールの野球をして、永遠のホームランを打ったことはある。スポーツの苦手な私の特筆事項だ。打ったボールが2塁後方の高く太い松の木の上へ飛び、ついに落ちて来なかったのだ。もう少し後の学年だったが。

  漢字指導継続 1年生の時の漢字指導は続けている。

   補習 5月頃から数学や英語の補習を始めているが、始めの頃は残ったのは、必要のない秀才2~3名だけ。夏休み中漢文の補習をして出席者は20名を超したことを記録しているが、漢文が何を意味するかさっぱり思い出せない。何回も記しているので、漢字との書き間違いではないはずだが。もちろん数学-代数の基礎-もしたが、低学力生に教えることの難しさをこの時に初めて体験した。一時的に理解させても定着させるのが至難の技だ。

   雪解け 校内の学級対抗の野球やソフトボール大会の前には女子にはノックもよくしてやったが、男子の方は彼等任せ、1学期の学級委員長始め野球部員が多かったので出る幕はなかった。昼休みには職員への臨時の連絡会がよくあるので、そう度々ではなかったが。女子の方に話を戻す。その頃もラジオでプロ野球などの中継放送はあったが、私は興味はあるが時間がなくて新聞で結果だけを見ていた。だからか、打順の知識などなく、4番を務めた機敏な少女に教えられた位である。それでも、ライバルの坊ちゃん数学教師の組との試合の前日には、急遽買ってきた野球のルールを読んで、不正な申し出があったりした場合に備えた。事実、彼は前年そんなことをしたのだった。女子は1つの組には勝ったが、数学教師の組には4対2で敗退した。男子は当然優勝したので、宿直の夜、メンバー10名にうどん30杯をおごったと記録している。学校の周りはまだ一面田畑ばかりで、全く遠くからの配達だ。校内食堂ができるのはまだ何年か後だ。最近の同級会で、珍しく出席した1人がうどんが嬉しかったと述懐していた。彼以外の野球部に入っていた面々は皆早世した。9時頃帰らした。学校は町から外れた処にあるので、真っ暗な中を月明かりだけを頼りに帰らすのだが生徒たちは全員が同じ方向へ帰るのだし、今と違って物騒な話など皆無だったから問題なかったと思う。夏休み直前のことである。反抗が全くなくなった訳ではなく、3年生になってからも時々は一部の連中に反抗されたことではあるが随分やり易くなった。殆どの女子も1学期末頃にはいつとなく打ち解けてくれていて、やりやすくなっていた。

  一善提唱 10月の初めだったかに、「一日一善」の語を持ち出し、せめて10月中に1善しようと提唱した。これは効果があった。急激に教室が整頓されたり、掲示物や、1年生の時と同じく入賞の賞状を自作して少々貼ってあったのを貼り直してくれたりするようになった。うどんの効果かも知れない。掃除については男子の日は相変わらず不十分なことが多かったが。 

   採点手伝い よいことではないが、当時、いろいろなテストの採点を大勢に手伝ってもらった。自学級のだけだったかと思うがはっきりしない。書取進級テストは全部任せたか。隠れてするのではなく、全員の前で手伝ってくれる生徒を募った。成績の悪い子は、自分の得点を級友に知られるのだが、不思議なことに誰も文句は言わなかった。職業適性を調べる“クレペリンテスト”というものがある。自分がどこかの相談所で受けて興味を覚えていたので、学級費で購入して実施した。その一部の処理まで任せた。ついでに記すが、次に勤めた学校では、私の提唱で全校生に“クレペリンテスト”を実施することにはなったが、私がマイクを使っての指示で、3千人の生徒がいっせいに行う破目になった。ストップウオッチとにらめっこ、1分毎に30回合図をするのを間違えないように精神集中を切らさないのが大へんだった。この場合の採点は業者委託だった。

 内田Kraepelin検査。性格や職務適性を判断する検査。 ドイツの精神医学者エミール・クレペリン(1856~1926)の研究理論をもとに、心理学者内田勇三郎(明治27(1894)年~昭和41(1966)年)がさらに研究を重ね、作業検査法として確立した。1桁の足し算を一定時間内にどれだけの回数、どれだけの精度で行うことができるかの型で見分ける。(検査用紙ー    https://www.nsgk.co.jp/sv/kensa/kraepelin/ 

用紙に並んでいる1桁の数字を1行目の左端から2個だけ加え、その答えの1の位だけをすぐ下へ書く。順に右へ同じことを繰り返す。1分経ったら2行目の左端からまた同じことを繰り返す。以下同様にして15分行い、休憩を5分間挟んで、後半も15分間繰り返す。各行の計算された最後の数字を前半、後半それぞれ15個ずつ線で結ぶ。これを「作業曲線」と呼び判定はその形で行う。性格の違いによって、そこに描かれる作業曲線にいろいろな特徴が見出されるから、その作業曲線の特徴で性格の特徴を見分ける。作業量の多い少ないや、作業をさせることによって生じる気分の変化、休憩をとることの効果、受検者自身の気持ちの気質特性、情緒の安定性や仕事にかかるときの態度、仕事の乗り、行動ぶりや知能などを判断する。計算間違いは部分的に調べるだけで全体を推測する。私は取っ付きは少しのろいが、終盤に伸びるタイプであった

  明治27(1894)年~昭和41(1966)年。

  ゲームでなごむ 3学期に副委員長に当選した温和しいが極めてまじめで、芯はしっかりし、翌年は学年の女子の中でアチーブメントテスト1番の実力者となる生徒-1学期は余り組になじまず、1年の時の友達と遊んでいた-が、ショートタイムにラジオの人気番組『私は誰でしょう』を取り入れてくれて、皆も喜んで打ち興じた。それ以前から私のリードで、『銭送りゲーム』や『伝言ゲーム』も時々した。前者は横1列に並んだグループが後ろ手で1枚のコインを次々と隣の者へ送って行き、途中で誰かがそれをにぎって、以下は送るふりだけをして最後まで行く。向かい側に並んだ同人数のグループが1人ずつ、握っている人物を当てる遊びだ。早く当てたチームが勝ちである。すぐににぎる子、全くにぎらない子、個性がよく現れる。私は前者だ。後者のゲームは、座席に座ったままでする。先頭の者に短い句を耳打ちし、それを耳を近づける隣の列の子に聞き取られないようにして小声で最後尾まで伝えるのだが、以後の学年でも正確に伝わった例しはない。一番の傑作は「~が~を~した」で、“~”の部分はよく似た3~5音程度の言葉だが、日常語ではなく生徒によっては知らない言葉を混じえておいた。結果は「~を3べん言え」に変わってしまったことだった。 

  学芸会好演 卒業生送別学芸会に女子だけで劇を上演することを3学期の副委員長が提案した。私が買ってきた脚本にはラブシーンがあり、配役された子が嫌がり、彼女らだけで買い直してきた。地元では気に入ったのがなく、阿部野橋まで行って探してくるという熱の入れようだった。彼女らだけで手分けして2日程で脚本のプリントも仕上げた。が、読み合わせになって内容が幼稚ということになり、副委員長の提案で急遽『白鳥の湖』に変えられた。脚本は彼女の頭の中にあったのか。主役は彼女で、その他10人位の配役ももめることなくすんなりと決まった。背景は私が以前から担当していた物理クラブの3年生で工作の実にうまい男子が造ってくれた。照明器具は誰がどこから借りて来たのか忘れたが、本式のものを当日私が操作した。大成功であった。他にも劇を演じた学級はあったので気は引けたが、私のクラスの劇の写真(後日掲載)を学校新聞1面に載せたのだった。ここで時代の傍証を入れる。この夏休みには5球真空管の電気蓄音機を組んで、1時間おきの停電に悩まされたことを先に書いたが、照明係の時にそれを危惧した覚えが全くない。その間に事情は好転していたのであろうか。そうとしか思えない。時、昭和27年3月、終戦後6年半目である。 

  (ウサギ)狩り 学芸会の翌日は兎狩り。この年から始めたようだ。大阪市から南へ2kmほど外れた地-現在羽曳野市―に、昭和23年-私の奉職の年-に戦災孤児収容のため、大阪市立羽曳野学園が設けられ私の学校と姉妹校になった。そこは後には親のない子の学校となった。長谷川学園ともいうようだ。学校の周囲は一面起伏に富んだ松林だった。そこへ生徒たちが分け入って、しばらくすると2~3羽の白兎を捕まえてきて、大きな鍋で煮た兎汁、実は豚汁―これは誰もが気づいていた-を囲んで終り。いささか呆気なかった。その学校の教頭(後、校長)の娘と5年後に結婚することになるとは夢想もしなかった。結婚後に妻から聞いた話では、兎は、飼っていたものを、朝、職員が山へ放して来るのだとか。生徒が、兎は逃げる処か寄ってきたと言っていたことを納得。

  激務始動 後回しにしてしまったが、この年の授業は自学級の国語、2年3学級と3年2学級の理科とで計24時間だった。教材研究が3種類必要なだけでも忙しいのだが、年初からの校務分掌は昨年に引き続いて、時間割編成と毎日の欠勤・有給休暇者の補欠割り当てで忙しかった。庶務係も依然兼務さされていて、備品と電気工事と規定されていた。演劇の背景を描いてくれた3年生2人に手伝ってもらって、学校中の備品や机、椅子を徹底的に台帳と照合した。随分なくなっていた。壊れた机や椅子は校務員室の湯沸しに使われる以外に、その部屋や、宿直室の火鉢でも燃やされ続けたので、両部屋の天井も柱も漆を塗ったように、真っ黒でぴかぴかしていた。話がそれた。備品調査に日曜日を2度つぶした。全く何のねぎらいもなしでだった。後にいきさつを記すが、この年の途中から学校新聞にも関係することとなり、これは、以後も校務とせずクラブ活動と扱われて、教務も付いて回り、第1次8年間の激務が始まった。一方で、たいして校務のない家庭もちの女性や、古参教師も少々いるという不公平人事だった。次に転勤した学校では、マンモス校で職員数が4倍あったせいではあったが、学校新聞だけに2人が携わり、2人にはそれ以外の校務はなかった。この年は自分もよく休み、女生徒達が電話してくれたり、家へ尋ねて来てくれたりもよくあった情けない年でもあった。15日位は休んだのだったろうか。記録は見当たらない。今のように祝日が多くはなかった(『11戦前の祝祭日』参照)し、土曜日も4時間は授業があった。生徒たちは40分以上かけて歩いてきていたようだ。電車を利用すれば10分は短縮できる距離なのだが貧しい家庭が多い彼女たちは電車賃を節約したのだ。ちなみに、当時の電話代は10(~5)円。市内は時間無制限だった。毎回の公立高校入試の合格発表日、一流校の結果を早く知りたくて一番合格しそうな生徒に10円玉を渡して、結果をすぐに電話するように言っておくのだが1度も実行されたことがなかった。言い訳は公衆電話*2は列を作っていたからとのこと。40分ほどかけて歩いて帰ってくるのだった。今思えば良くないことだったが、10円玉を返してもらった記憶がない。

 *封書10円、はがき5円(この年改訂)・電話 11月1日から度数制に変わり1通話5円に・国鉄最低料金10円、 都バス15円(12月)・ビール123円(3月)、127円(12月)・煙草 ピース(10本入)40円(4月)・週刊朝日25円(5月)、30円(7月)・朝日新聞朝刊月決め100円(5月)、130円(9月)、朝夕刊セット280円(11月)

 *2当時の公衆電話は、大通りには今と同じように、ボックス式のがあったが、住宅街では煙草屋の店頭、店番のひとの座っている前の窓ガラスの外に置かれ、形は今の家庭用と殆ど同じで黒色だったが、この2年後の昭和28年から一般電話と区別するために赤色のと取替え始めたとのこと。深夜は屋内にしまわれていたのだろう。

 [追記]もし、その時協力して下さったH君が読んで下さっていたら、何年目かの年賀状にお返事しなかったことをお詫びします。新しい卒業生を出す度に賀状が増えて5百枚超来るようになり、1年おきにお返事させて頂くつもりで、新卒業生を優先させたために、大切な方何名かとの音信がとだえてしまったことです。申し訳ありませんでした。もう1つ、無記名の賀状も時々あります。今春も1枚、10期生の方とは思いますが、今まで頂いていた方の筆跡とは合致しません。お返事の出しようがありません。悪しからず。 Tel/Fax 0743-84-6848 へご連絡下さい。

          [完]平成24年12月記・27年4月修正

 


     昭和36(1961)年の出来事      

01/01 裏日本に豪雪。国鉄ダイヤ大混乱。
02/01 右翼少年が中央公論社・嶋中社長宅を襲い家人2人を殺傷(嶋中事件)。
02/14 俳優・赤木圭一郎、東京の日活撮影所でゴーカートを運転中、鉄扉に激突し重傷(21日死亡)。
02/19 日本医師会・日本歯科医師会、医療費値上げ要求で全国1日一斉休診。25日保健医総辞退を決定(3.3解決)。
03/09 全日赤スト(~5.16)。
03/15 日光東照宮薬師堂焼失。
03/15 有田八郎、三島由紀夫の「宴のあと」を "プライバシー"侵害で告訴(4.
11和解)。
03/28 都清掃局が路上のごみ箱を撤去。家庭のごみを曜日を決めて定期的に回収することを決定する。
04/12 ソ連が打ち上げた人工衛星・ボストーク1号(ガガーリン少佐が搭乗)が地球一周有人飛行に成功。
04/28 沖縄・那覇で祖国復帰県民総決起大会開催。2万人参加。
05/04 樺太犬タロー、南極から4年半ぶり帰国。
06/02 政防法反対で国会周辺3万5千人デモ。
06/21 小児マヒ患者1月以来1千人突破。生ワクチン緊急輸入決定。
06/24 本州・四国に集中豪雨。357人死亡。
08/01 大阪・釜ケ崎のドヤ街で住民2千人暴動。1人死亡。
08/08 仙台高裁、松川事件差し戻し審で全員に無罪判決(21日検察側再上告)。
08/13 東ドイツで、西側への難民流出防止のため、ベルリンの壁を構築。
09/03 『用心棒』(黒澤明監督)の主演・三船敏郎が第22回ベネチア国際映画祭で最優秀男優賞を受賞。
09/16 第2室戸台風、死者202人。
10/15 日紡貝塚女子バレーチーム、欧州遠征より全勝で帰国(東洋の魔女)。
10/25 西日本に豪雨。死者・不明106人。
10/26 全国一斉学力テストを実施(中学2年生、3年生全員を文部省が実施。)
12/07 秋田でニセ千円札発見され、以後も続く(チー37号事件)。
12/12 旧軍人らによる内閣要人暗殺計画発覚、13人逮捕(三無事件)。

●世相 少年少女に睡眠薬遊び流行/ジャズ喫茶・うたごえ喫茶隆盛/モデルガンブーム/アンネナプキン/ポリバケツ/レジャーブーム/シームレスストッキング/プラレールの名称で電動汽車(トミー) 発売

流行歌

[1]
1.上を向いて歩こう(坂本九)
2.東京ドドンパ娘(渡辺マリ)
3.ズビズビズー(森山加代子)
4.北上夜曲(多摩幸子・和田弘とマヒナ・スターズ)
5.子供ぢゃないの(弘田三枝子)
6.雨に咲く花(井上ひろし)
7.硝子のジョニー(アイ・ジョージ)
8.有難や節(守屋浩)
9.王将(村田英雄)
10.カイマナヒラ(エセル中田)
11.惜別の歌(小林旭)
12.無情の夢(佐川ミツオ)
13.南国の夜(大橋節夫)
14.悲しき街角(飯田久彦)
15.九ちゃんのズンタタッタ(坂本九)

[2]
1.銀座の恋の物語(石原裕次郎、牧村旬子)
2.北帰行(小林旭)
3.スーダラ節(植木等)
4.禁じられた恋のボレロ(水原弘)
5.スタコイ東京(菊地正夫)
6.じんじろげ(森山加代子)
7.別れの磯千鳥(井上ひろし)
8.恋しているんだもん(島倉千代子)
9.武田節(三橋美智也)
10.パイナップル・プリンセス(田代みどり)
11.ドント節(クレイジー・キャッツ)
12.日曜はいやよ(西田佐知子)
13.ゴンドラの歌(佐川ミツオ)
14.カレンダーガール(坂本九、ダニー飯田
とパラダイスキング)
15.南海の美少年(橋幸夫)

書籍ベストセラー

英語に強くなる本 岩田一男 光文社
何でも見てやろう 小田実 河出書房新社
まあちゃんこんにちは 山本祐義 文芸春秋新社
記憶術 南博 光文社
砂の器 松本清張 光文社


 

 

 

 

                                             

 

 


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