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高智晟著『神とともに戦う』(14) 我が平民の母 3
中国北西部、黄土高原の厳しい冬は、その年初めての強い北風とともに、規則正しくやって来る。他の家の子たちが家にこもっている頃、我が家の子たちは野山をめぐっては焚き木を拾った。炭を買う金がないからだ。貧しさと厳しい自然、そして母の辛抱強さ、これらが、我が家があの時代を生き延びる基礎を築き上げたのである。1977年の後半、私にとって3年に及ぶある日課が始まった。母は、私を中学に上げる決意をしたのである。
母の棺の前に腰を下ろし、あの3年間の中学時代を振り返ると、私の心は際限なく痛む。母は、辛抱と忍耐そして想像を絶する責任感で、私を支えてくれたからだ。この母のもと、私は3年の中学生活を無事に終えたのだった。
私が通った古城中学は、我が家から5キロほどの小高い山の上にあった。当時私は小さかったから、5キロの道のりに1時間半近くかかった。寮に住むと毎日8分(0.08元)の食費を納めなければならない。だから母は私を励まして通学させた。ここから3年間の、合わせて1万8千キロに及ぶ通学生活の幕が開けた。
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