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「べき」という呪縛

多分10年以上前に読んだ自己啓発本のひとつに書かれていた内容なのですが,けっこう頭に残っている話で,ふと文章にまとめてみようと思った件です。
 
最近でこそ,「いまのところ」というただし書きはつきそうですが,ようやくたどり着いた境地で極端な言い方をすれば「この世は自分のためにある。」という考えを信念化しようというところなので,その呪縛にとらわれることもそうそうないと自分では思っているのですが。
 
で,「どんな呪縛?」「何の話?」ということなのですが,
イライラしたり,不愉快な気分になったり,ときには怒りを感じたり,そんな場面のほとんどの場合が,よく考えてみると相手に問題があるのではなく,その原因は自分の方にあるということです。
たとえば,スーパーのレジで後ろに長い列ができているのに,ゆっくりゆっくりと財布の中から小銭を探しているおばさん。「こんなに後ろが並んでいるんだからさっさとしてくれよ。」とか思っているくせに,自分の中では「こんなに行列ができてみんな待っているのだから,まともな社会人ならば,それに気がついて早く会計をすませるべきだ。」とか「べき」という言葉を使ってイライラする理由が正義感からみたいに自分で理由付けているのです。
車を運転していて隣の車線から急に割り込んでくる車。それが衝突しそうなタイミングなら思わずクラクションのひとつも鳴らすところですが,そこまでの緊急性がなくても,「何なんだあの車は。」といらだち,怒りを感じる。こんなときも,「もっときちんとマナーを守って運転するべきだ。」という正義感からの怒り,と心のなかのどこかで思っているかもしれない。
昔読んだ本ではうろ覚えではありますが,まあその嘘かホントかわからない正義感から来ている怒りだったりするわけですから,背景の事情を知るだけで全く変わってくるという例も出ていました。
ごく簡単にまとめると,電車の中で子供たちがギャアギャア騒いでいるのに注意もせず放置している若いお父さん。
たとえばそれが,病院で長く入院していた奥さんを看取った帰り道だったと知れば,「子供たちに注意すべきだ。」という怒りが同情に変わったりする,というような話でした。
 
この「べき」という言葉の呪縛,知っていれば,というか気がついていれば,
「あれ,なんでこんなことでいらだっているのだろう。」
と変な正義感から離れて冷静になれたりして,結構助かったな,ということをふと思い出したので記事にしてみました。
 
ちなみに今はもっと違う「この世は自分のためにある。」という段階。
だってこの世はすべて素粒子でできていて仮想世界で,それを作っているのはそれを観察している自分だ,という発想に立ってみると,自分以外の他人は全部仮想世界の登場人物。「なんでそれに腹を立てている必要があるのだろう?」と思うようになってきたのでした。

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コメント一覧

koji5678
痛いところをチクリと刺されました・・・
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