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三流講談家→勘違いして思想家気取り 司馬遼太郎8

2005-11-25 14:44:39 | 子ども向け小説の首魁 司馬遼太郎
 司馬遼太郎のどこが好きなの?
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1044197706/

703 :吾輩は名無しである :05/02/19 17:17:30
いま飛ぶが如く6巻読んでるけどこの行き当たりばったり感が
たまらん!西郷をフォローしきれんくなって構成が
ぐちゃぐちゃになってまさにカオス!これって文学じゃないのん?


704 :めつを :05/02/22 22:54:26
確かに、単なる物知りという指摘は凄い。それに酔ってるのもわかる。
しかし、文学はそんなモンじゃない。福田より漱石に軍配を上げたい。

706 :めつを :05/02/23 22:17:19
いや、完全に酔ってる。こいつのはなしで、印象に残るのは
産経新聞の新入社員に山崎の合戦を話した時の話だ「天王山」を
知ったかぶりで「語ったらしいが」、これを聞いた時思ったのは
しったかぶりというか、ものしりの悲哀を感じたね。「福田みどり」
聞いてるか?旦那はそれほど偉くない!!ほんと、単なる物知り!!

713 :吾輩は名無しである :05/03/02 20:07:25
司馬遼太郎は人間社会を支配者の眼で見ていると、たれかが云っていた。
たしかに教科書に載っているような人間や出来事を描いたものが多い。
名も無き底辺の庶民や武士を描く藤沢周平の対極にあるといっても
いいかもしれない。その辺が管理職や経営者に読まれる所以なのだろう。

718 :いつを :05/03/07 00:07:28
691>>
この指摘は合ってると思う。付け加えるとNHK大河ドラマに
取り上げられた司馬作品はどれも視聴率は低い。


719 :えーい、しずまれ :05/03/20 01:06:59
つまり、歴史の本資料を読みまくって、歴史を再構築して
話を作っているだけで、感動がないんだな!遠藤の「沈黙」なんかいいね。
司馬の本に比べると。

733 :吾輩は名無しである :2005/04/08(金) 20:26:48
小説に限らず、歴史叙述そのものが気に入らない(英雄史観が嫌いだとか、民衆史観
の方がよいとかいう意味ではない)。
たとえば、戦いの記述を例に挙げれば、極限の状況で決断した指揮官を、結果がわかっている人間が、
馬鹿にしたり、死の恐怖に苦しめられた兵隊を、安全な状況に入る者が馬鹿にするからだ。
司馬の小説を読んで面白いと思いながら馬鹿にされている気持ちがすると思っていたら
上のような理由だというのに気づいた。

734 :吾輩は名無しである :2005/04/08(金) 21:04:53
日本人を特別視しすぎ、深いところで選民思想がある。

736 :吾輩は名無しである :2005/04/09(土) 00:07:24
まあ、司馬の小説は所詮歴史講談か漫談の類。
幕末・明治維新から日露戦争あたりを描いた司馬の諸作品について、立川談志は「伊藤痴遊全集の受け売り」
と喝破している。
そんなことも知らぬ浅学な連中が「司馬史観」「国民文学」ともてはやすのは笑止の極み。
森?外、長谷川伸、吉村昭のような域には到底達していない、と言うか、比較するのも愚かしい。

738 :吾輩は名無しである :2005/04/09(土) 00:18:34
>>736
司馬遼太郎の小説についてあれこれ言う資格は自分にはないが、
 歴史家との対談などを読んだ限りでは、この人はちょっと信用
 できないという印象をもった。半世紀前のインテリが、欧米を
 ざっと見てきただけで一知半解の知ったかぶりを述べて大衆を
 惑わしてきたような感じがこの人にはある。

744 :この紋所 :2005/04/12(火) 23:25:38
ふーん!!「伊藤痴遊」の真似してるってわけか!!
有り得ることだ!一般に思想の無い人は他人の意見
を受け売りして知ったかぶりで語るもんだ。司馬
もその類だな!!要は自分がどう生きるかだ!
司馬は大屋壮一(字が間違っているかもしんない
「一億タレント」とかと言ったやつだ)の息子が親
父を称して「お前は単なるテレビタレントだ!!」と
諭したのと同じだな!!物知りの悲哀だな!!
どうしてそこに人間性が産まれないんだ!!
司馬に文化勲章をやったのは誤りだ!!

748 :吾輩は名無しである :2005/05/22(日) 22:17:31
 確かに歴史学者に言わせればディテールに誤りがある場合もあるだろうが、
歴史を俯瞰的に見るという意味では司馬氏の作品は読む価値があると思う。

752 :吾輩は名無しである :2005/05/23(月) 21:50:47
一応歴史学かじった人間から見ると・・・・

史料は基にしている。これは確実!
しかしなんか、なんつーか、
好き放題解釈してるなあ・・・とこんな感じ。
まああれも『歴史』だ。

誰でも脳内に妄想の歴史くらい作ったことあるだろ?
司馬遼太郎はそれを世間に広げることにより
大金を得ることを思いついた頭のいい人。

754 :吾輩は名無しである :2005/05/23(月) 22:28:59
>>753
ああ・・・というか、歴史学って死んだ学問だからね。
それは史学科にいた私が保証しましょう。

だから司馬遼太郎も『歴史』だと認めてるだろ。
何が死んでるかというと、求めているものが不可能なのが明白だから。
だから歴史家が司馬に怒るのは
恐らく間違っているからではなく
『妥当ではない』から。意味わかります?
わからないならまた書きます。

757 :吾輩は名無しである :2005/05/23(月) 23:30:56
司馬さんがとんでもと言われるのは
その歴史観の根拠や判断基準、手法を全く見せず
結果だけ発表しているからですね。

彼は「小説だから発表する必要は無い」と。
それは正しい。
ただ、その歴史は妥当か?と問われると
なんと言っていいのか・・・って感じ。

歴史なんだけど、妥当な歴史じゃないって感じで
人に強要するものではない。
個人で楽しむ分には、かなり面白いとは思う。

764 :吾輩は名無しである :2005/05/24(火) 21:11:21
>759-760の続きでもない続きを書こう。
ゲシタルト学派だったかな、心理学には暗いので何が何学派か分からないが、
「全体は部分の総和より大きい」という。
要するに、観覧車が輪のように見える現象を、そう言っている。
本当はただ円軌道上に等感覚に、ゴンドラという「点」を打っているのにすぎないのだが。
人間の感覚とは不思議なもんで、情報の欠けた部分を無意識に補おうとする。
それも、最も完全な形を想像する。
観覧車をみて、金平糖のような図形を思い浮かべる人はまずいない。

ここで歴史学である。
史料というのは、要するにゴンドラである。
史料の数々が個々に点として存在しているにすぎない。
歴史学者はより多くの「点」(=ゴンドラ)を発見し、得られた曲線を積分する。
いや積分まで行くのは屈指の歴史家だけで、たいていは曲線を仮説として導出するに止まる。
それが専門家としての良心でもある。
片や司馬、これは作家であるから、手持ちの史料からどんどん積分し、
実に綺麗な(分かりやすい)図形を作ってしまう。
できた図形が、「正確に具現化することは不可能だが、必ず存在するはずの歴史の真実」(>159参照)
と似ていようがいまいが、それは本来別個の問題な訳だ。
小説として読むに耐えればそれでよろしい。

今回はチト複雑になってしまったが、
文学板の住人の読解力なら読み解いてくれるものと信じる。

776 :吾輩は名無しである :2005/05/27(金) 18:55:08
司馬遼のは歴史に方向性を与えた「作品」だし
サラリーマンへの人生訓とか。
歴史家と司馬遼を比較することは司馬遷と孫子比べるようなもん