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海外での思い出 佐藤仁平

伊藤忠での海外駐在時代、退職後の海外旅行中に体験したことを中心に、ハプニングやエピソードを交えて紹介します。

半世紀前の記憶が甦るハートフォードへの旅

2011-01-08 11:28:09 | 日記

ボストン郊外に滞在していた時、調べ物をするためコネチカット州の州都ハートフォード行きを計画した。ハートフォードはニューヨークとボストンのほぼ中間にある地方都市だ。1960年代のニューヨーク駐在中、ボストンには車で何回も行ったことがあるが、何時も林立する高層ビル群を横目で見ながら通り過ぎた。ハートフォードは保険業の中心地で仕事上は関係なかったので、ここに泊ったことはないと思っていた。

アメリカでは何処へ行くにも車が一番便利だが、車を運転しない場合はバスが良い。ハートフォードには汽車でも行けるが、時間が掛るし割高だ。ボストンから長距離バスが発着するバスターミナルはサウスステーションと同じ所にあり、ハートフォード行きもここから出ている。2時間強掛かったが、途中渋滞もなく予定通り着いた。

荷物があるので、数日前に予約しておいたホテルに直行すると、チェックインの時刻には少し早かったが、部屋が空いていたので直ぐに案内された。カーテンを開けると、目の前に州議事堂の堂々たる建物が目に入った。その瞬間、この景色は昔見たことがあると思った。暫く眺めていると、半世紀近く前の記憶が徐々に甦ってきた。窓から見える州議事堂に記憶があるとすれば、ハートフォードに泊っていたことになる。

  
州議事堂 左はホテルの窓から見たもの(いずれの写真もクリックすると拡大されます)

ニューヨークに赴任して間もない頃のこと、ハートフォードの北約30キロの所にあるスプリングフィールドという町に、よくアルミ製品の引き合いをくれる客がいた。ところが、何度乙波しても値段が合わず一度も契約出来なかった。そこで、本気で日本品を買う気があるかを確認するため、社長に会いたいと申し入れたところ、ゴルフをやりながら話をしようということになり、ニューヨークから車にバッグを積んで出かけた。3時間程運転して昼過ぎに着くと、早速社長のプライベートコースでゴルフをやった。プレイした後はクラブで夕食も御馳走になった。話が弾んで少し遅くなったので、泊って行けと言われたが、明日朝約束があると言って社長と別れたことまでは覚えている。しかし、その後どうしたのかは全く記憶にない。

ところが、今回ホテルの窓から緑の丘に建つ州議事堂の姿を見たことで、昔同じ景色を見た記憶が甦った。この景色は、あの時客先からの帰途、急きょハートフォードで高速を降りて一泊し、翌朝カーテンを開けて見たものに違いない。どのホテルかは全く覚えていないが、記憶に残っている州議事堂と今見ている姿が似ているので、もしかすると同じホテルだったかも知れない。泊っていたことが分かると、ハートフォードに急に親しみが湧いてきた。

翌日、ホテルを出てニューヨークに帰ったはずだが、その後のことは何も覚えてない。もしサイトシーイングをしていれば、行った場所ぐらいは記憶しているはずだ。もっとも、ニューヨークに駐在していた7年余りの間、出張した市や町は数えきれないが、仕事の後での観光は殆どやったことがない。それだけ仕事人間だったのかもしれない。今回ハートフォードを訪ねるに際しガイドブックを見たが、州議事堂以外は何も知らなかった。今は仕事を離れて自由な時間を持ち、昔の記憶を辿りながら好きなところを見て回るのが無上の楽しみとなっている。

ハートフォードに来た目的は、「アンクル・トムの小屋」を書いたストウ夫人が晩年を過ごした家と展示品を見ることだった。その日はこれだけで終わり、夕食はダウンタウンの中心部にあるトランブルキッチンに行った。ガイドブックに人気店として紹介されている通り、平日なのに中は結構混んでいた。地ビールを飲みながらメニューを見たが、これはと思ったものがないので、本日おすすめの魚料理をとったらこれが非常に旨かった。白のハウスワインも料理に合って、アメリカの食事も案外捨てたものではないと思いながらホテルに帰った。

翌朝目を覚ますと直ぐに外の景色を眺めたが、州議事堂を見た記憶は益々はっきりと甦った。昼過ぎにバスが出るまで時間があるので、先ず昨日見たストウハウスの直ぐ前にあるマーク・トウェインの家を訪ねた。家を見学するにはガイドツアーに参加する必要があるが、朝早かったのでツアー客は一人だけだった。マーク・トウェインはこの家に1874年から91年まで住んだが、この時期に代表作である「トム・ソーヤーの冒険」や「ハックルベリ・フィンの冒険」を出版し、名声も経済的にも絶頂期にあった。そのせいか、家は大きく内部の柱や壁には至る所に彫刻が施されており、かなり金をかけていたことが窺える。所で、マーク・トウェインは死後100年間は出版しないことを条件に書いた本が、2010年11月に出たらしい。どんな内容なのか早く読んでみたい。

   

今まで知らなかったが、ハートフォードには「Wadsworth Atheneum Museum of Art」
という有名なミュージアムがある。18世紀以降のアメリカ絵画が中心だが、ヨーロッパの作品も、19世紀後半のモネ、ルノアール、ゴッホ、ゴーギャンをはじめ、20世紀のダリ、ピカソ、ミロなど多数揃っている。3階に独立戦争の名場面を画いた大きな絵が並んでいるので、作者をみるとコネチカット州生まれのアメリカ人John Trumbull(1756-1843)だった。昨晩夕食をとったトランブルキッチンの名前は、この画家の名をとったものに違いない

  

アメリカでテレビを見ていると、保険会社大手トラベラーズのシンボルマークである、赤い大きな傘が人を乗せて空を飛ぶコマーシヤルが出てくる。ミュージアムの隣にあるトラベラーズ本社玄関前の広場には、テレビに出る赤い傘があった。今回のハートフォード行きは、完全に忘れていた記憶が甦るなど、まるで赤い傘に乗って空から舞い降りたようなメルヘンチックな旅だった。


ポーツマスの鐘

2010-12-04 23:20:42 | 日記
9月5日午後3時47分過ぎ、教会の鐘の音がポーツマスの街中に鳴り響いた。1905年の夏、日露両国の代表団はセオドア・ルーズベルト大統領の斡旋により、ポーツマス海軍工廠第86号ビルで、約1カ月に亘り交渉が続けられていた。一時は決裂寸前までいったが、日本側の譲歩により合意に達し、この日平和条約が調印された。交渉が行われていた間、多くのポーツマス市民が様々な社交行事を催して両政府代表団を励ましてきたが、調印されると決まった日には、今か今かと吉報を待っていた。教会の鐘はそんな市民たちにいち早く無事調印されたことを知らせる合図だった。


(左)海軍工廠第86号ビル (右)平和条約調印の銘

この時以来、平和条約が調印された日時に合わせて鐘を鳴らす行事は、ポーツマスのボランティアグループにより毎年行なわれてきたが、2010年8月17日、ニューハンプシャー州知事はこの日を永久に「ポーツマス平和条約の日」とする条例に署名し、州全体で祝う公式行事となった。

日露戦争のハイライトの一つはポーツマス平和条約の締結だ。「坂の上の雲」を書いた司馬遼太郎は、後にポーツマスを初めて訪れ小村寿太郎の足跡を辿っているが、その時の様子が「アメリカ素描」に出ている。読んでいるうちに、「小村がその長くもない五十六年の生涯で、もっとも可烈な日々を送ったポーツマス」に自分も行ってみたくなった。

夏休みをメイン州のリゾート地で数日過ごすことになったので、途中ポーツマスに一泊することにした。どうせ泊まるなら、日露双方の代表団が滞在したと言われるウエントワース・バイ・ザ・シーにしようと思ったが、あいにく一杯で予約出来なかった。このホテルは1874年に建てられたリゾートホテルで、ポーツマス市の中心部から10キロ程離れた所にあるニューキャッスル島にあり、本土とは橋でつながっている。その後何回か増改築が行なわれ、写真で見ると1905年には現在のホテルとほぼ同じ外観を呈していた。1982年に閉鎖に追い込まれ一時は解体の危機に瀕したが、関係者から保存運動が起こり、結局1997年マリオット系のホテルとして全面的に改装され、現在も高級リゾートホテルとして営業している。


現在のものと当時の写真

ポーツマスに早めに着いたので、ストロベリーバンク博物館を見学し、ライブラリー・レストランで昼食をとってから隣にあるジョン・ポール・ジョーンズ・ハウス/ポーツマス歴史協会に行った。そこには、2005年に行われたポーツマス条約締結100周年記念特別展「平和への誓い」がそのまま展示されていた。


大統領の写真

2階にある展示室に向かって階段を上ると、正面にルーズベルト大統領の大きな写真が飾ってあった。講和条約締結に大統領の果たした役割は大きかった。会議の期間中、大統領は一度もポーツマスを訪れることはなかったが、リース国務次官を常時地元に滞在させ、会議の模様を逐一連絡させていた。大統領は新渡戸稲造著「武士道」の愛読者で、当初から日本に好意を持ち、会議が成功するように何かと日本側にアドバイスを行なっていた。交渉が暗礁に乗り上げると、秘密ルートでロシア皇帝の意向を打診して日本側に伝え、最後まで交渉が妥結するよう努力した。ルーズベルト大統領は後に会議の成功によってノーベル平和賞を受賞した。


(左)椅子  (右)会談の様子を画いた絵

展示室に入ると、先ず目についたのが講和条約締結時に小村寿太郎が座った椅子だった。この椅子に座ってロシア側との交渉に臨んだ小村は、身長わずか143センチ弱しかなかったが、日本国の命運を一身に背負って、巨漢ウィッテと堂々と渡り合った。小村は条約が調印された日の夕方、早々と汽車でポーツマスを離れ、ボストンで母校ハーバード大学を訪ねた後ニューヨークに向かった。ニューヨークでは、風邪による高熱に苦しみながら、車でオイスター湾の別荘にルーズベルト大統領を訪ね、講和成立への努力に対し厚く謝意を述べた。病気のため予定より遅れ、10月2日バンクーバーからアメリカの汽船で帰国の途についたが、彼を待っていたものは講和条約の条件に不満をつのらせた民衆の暴動騒ぎだった。


展示場

大きな展示室の壁には、日露戦争と講和会議についての全貌が分かるような説明文が地図入りで貼り付けられていたが、興味を引いたのは、部屋を出たところで壁に映されていた白黒の無声映画だった。10分足らずの短いフイルムだったが、日本の使節団がフェリーで海軍工廠のある島に着いた時の様子やポーツマス市内を行進する歓迎パレードが映されていた。沿道の両側は多くの人で満ち溢れ、ポーツマス市民の熱狂的な歓迎振りが見て取れた。

メインからの帰途再度ポーツマスに寄り、ウェントワースホテルを訪ねた。ルーズベルト大統領が講和会議の開催場所をポーツマス海軍工廠に決めた時、このホテルは直ちに両国代表団全員の無償宿泊を申し出た。小村代表が泊った部屋は、ホテルが一時閉鎖されるまではそのまま残っていたらしいが、いまは無い。地階には「Treaty Room」があり、当時両代表団が非公式会談を行ったテーブルが置かれ、壁には会談の写真などが飾られていた。ホテルでは結婚式があったらしく、ロビーは多くの人で混雑していたので、裏側のテラスでお茶を飲んだ。テラスからは小村寿太郎も見たであろう素晴らしい景色が見渡せた。

一時期、アメリカは好戦的なイメージを持たれたことがあったが、一世紀以上経ってもポーツマス平和条約調印の日に、教会の鐘の音を聞きながら世界の平和を祈る市民が居ることを忘れてはならないと思った。

メイン州味巡り 2010年11月

2010-11-05 20:48:18 | 日記
1.ポートランドのロブスター
もう40年以上も前のことだが、ニューヨークに駐在していた時、夏休みに家内とニューイングランドをドライブ旅行したことがあった。ボストンを見て回った後、海岸線を北上してメイン州に入り暫くドライブしていると、テント張りのロブスターを食べさせる店があった。目の前でボイルしたのを新聞紙に包んで出されたロブスターの旨かったことは未だに忘れられない思い出となっている。

ボストン郊外に滞在中、今年の夏休みにはメインに行こうということになり、メインのロブスターを再度味わうチャンスが訪れた。昔食べた所がメイン州のどの辺りだったか全く記憶にないが、ポートランドに旨い店があると聞いたので行ってみた。ポートランドはメイン州最大の都市で、ポートランド美術館やヘンリー・ロングフェローが子供時代を過ごした家、アメリカ最古の灯台等見るべきものが多い。ダウンタウンの海岸に面した所にオールドポートと呼ばれるレンガ造りの建物が再建された一角があり、石畳みの道を歩いて行くとワーフ沿いにその店はあった。

写真はクリックすると拡大します

ロブスターの値段はマーケットプライスで毎日変わる。重さによって値段は異なるが、1.25ポンドのものを注文した。ビニールの前掛けをして専用のペンチで殻を割って身を取りだすと昔の味が蘇ってきた。ボストン近辺のレストランで何度か食べたことがあるが、メインのロブスターにはかなわない。ビールを飲みながらフライドポテトと一緒に本場の味を心行くまで楽しんだ。

2.サモセットの朝食
メイン州のリゾート地と言えばバーハーバーが有名だが、ボストンから一気に行くとなるとかなり遠い。もう少し近いところを探していたら、ロックポートにサモセットというリゾートホテルがあることが分かり、今年の夏休みはここに決めた。このホテルは海に面したゴルフ場に囲まれて眺めが素晴らしく良い。



このゴルフ場はゴルフダイジェスト誌によると、ニューイングランド有数のリゾートゴルフ場で、アメリカ全土で最も美しいゴルフ場の7番目にランクされている。ゴルフは日本では止めていたが、久しぶりに廻ってみた。18ホールの半分は海に面し、日本なら川奈といったところか。ホテルの近くをプレーしていた時、部屋のベランダから家族が手を振っているのが見えた。

このホテルで気に入ったのは朝食だ。海の見えるダイニングルームでテーブルに案内されると、先ずジュースとコーヒー(または紅茶)をサーブしてくれる。あとはバイキングだが、新鮮なフルーツの種類が多い。中でもメイン特産の粒の大きいブルーベリーが旨かった。次に気に入ったのがオムレツだ。シェフが作ってくれるが、中に入れる材料は自分で好きなものを好きなだけボールにとって渡す。マッシュルームを一杯入れて作ってもらったオムレツは絶品だった。パリパリに焼いたベーコンやソーセージも味が良かった。

3.バースのシニアーメニュー
サモセットからの帰りは快晴に恵まれ、左右に見える入り江は日を浴びて輝いていた。昼時になったので、どこかで食事をしようと地図を見ると、近くにバースという町があったので寄ることにした。町の中心部に駐車して少し歩くとケネベック・タバーンというレストランを見つけたので迷わず入った。天気が良かったので入り江に面した外の席に案内して貰った。



海からの風が心地よく、先ず地ビールでのどを潤しながらメニューを見ていると、シニアーメニューがあった。キッズメニューは何処にでもあるが、シニアーメニューは初めてだった。辺りを見回すと年配の夫婦が結構入っていた。どこが違うかというと、塩分を少なくし健康に良い油を使っているとのことだった。海に近いせいか注文したハドックのソテーは新鮮で旨かった。

バースは古い歴史がある町だ。この地を初めて訪れたヨーロッパ人は、カナダのニューファンドランド島を発見したフランス人のSamuel de Champlain で1605年のことだった。2年後イギリス人120名が植民地をつくる目的でやってきたが、厳しい冬の気象と原住民との不和などにより、翌年自分たちで建造した30トンの帆船で全員イギリスに帰国した。ジェームズタウンより先に植民したのに長続きしなかったので、アメリカ最古の植民地とはならなかった。しかし、バースは「アメリカ造船所発祥の地」としてその名を留めることになり、2008年には400年祭を祝った。1762年には、漁業と通商が盛んになって移民が増え、バースに初めて商業用の造船所ができた。その場所はこのレストランの駐車場辺りにあったそうだ。

風光明媚で空気がきれいな上に魚が旨いとなれば、住む人も長生き出来るに違いない。バースでシニアーメニューが流行るのも納得できた。

アメリカのATMは要注意 2010年10月

2010-10-06 12:21:41 | 日記
日本の銀行では今やATMが普及し、時にはお金の出し入れや振込に行列ができる程だ。年金暮らしになってからは、年金が入る度にATMで引き出している。引き出したお札はいちいち数えたことはないし、これまで間違いがあったことは一度もない。

  

数年前からアメリカに長期滞在する機会が多くなったので、多額のT/Cや現金を持って行く代わりに、日本でドル預金口座を作り現地でドルを引き出す方法はないものか調べてみた。幸いに、アメリカのある大手銀行がこの目的にぴったりのサービスがあることが分かり、早速この銀行に口座を作り円高の時にドルを買って入れておいた。この銀行は全米に支店がありATMでいつでも引き出せるのでとても便利だった。ところが、今回の旅行で信じられないことが起こった。何時ものようにカードで現金を引き出したら、なんと金額が不足していたのだ。勿論その場で数えた訳ではなかったが、帰ってから念のため数えてみると、下ろしたはずの金額が足りないことが分かった。そんな馬鹿なことがあるのかと中身をよく調べてみると、50ドル札の代わりに5ドル札が入っていたことが分かった。直ちに銀行に引き返して、カストマーサービスの女性にATMから出てきたお札を全部広げて見せ、事情を説明した。

その女性は、この支店ができて2年になるがこんなことは一度もなかったと言って、支店長に相談するため店の奥に引っ込んだ。しばらくすると戻ってきて、ATMに入っている現金を全部抜きだして調査し、夕方までにその結果と銀行としての対応を電話するから家で待っているように指示された。

落ち着かない気分で待っているとやがて女性から電話があり、「ATMに残っていた現金に間違いはなかった。貴方の口座は日本で開設されたものだから、こちらの支店としてはどうしようもない。口座を開いた日本の支店と交渉してくれ。」という冷たい返事だった。これに対し、日本の支店と交渉するにしても、実際に間違いが起こったのはこの支店のATMなのだから、そちらから事の次第を伝えてくれと言うと、この支店では国際電話は禁止されているとそっけない。あまりの腹立たしさに、この事実を何らかの方法で公表すると脅かし、明日支店長に会いたいと申し入れた。金額は45ドルと大金ではないが、責任逃れのように受け取れる銀行の対応が面白くなかった。

翌日銀行に行くと、支店長は外出中とかで会えなかったが、昨日の脅しが少しは効いたのか、本店のリーガル・デパートメント経由で日本と連絡をとってくれた。電話を受けた日本支店のサービス調査部の担当者に彼女から事の経緯を説明させた上で電話を代わると、本件は日本側で責任をもって対応しますと言ってくれたので、その結果を待つことにした。翌日の夜日本から電話があり、迷惑を掛けたことを丁重に詫びた上で、45ドルは口座に振り込み手配したとのことで一件落着した。

短期の旅行では時間的にとてもこのような交渉はできないと思うが、長期滞在で時間はたっぷりあったので思わぬ体験をした。その後現地に住んでいる人にいろいろと話を聞いてみると、アメリカの銀行ではこのようなミスは時々起るらしく、その銀行で口座を開いておればすぐに差額をクレジットしてくれるそうだ。思うに、アメリカの紙幣は皆大きさが同じである上に、お客へのサービスのため金額の違う紙幣を混ぜて出てくる仕組みになっているのが、ミスが起こる原因の一つではないだろうか。滅多に起こることではないと思うが、アメリカではATMでお金を下ろしたら念のため数えてみることをお勧めしたい。


サンフランシスコのオペラハウス

2010-08-01 16:43:17 | 日記
サンフランシスコへ行く機会があったら是非訪ねてみたい所があった。それはオペラハウスだ。と言ってもオペラを観るためではない。オペラハウスがどんな所か自分の眼で見たいと思ったきっかけは、白洲次郎のNHKテレビドラマだった。その中で、戦後日本が独立国として再出発することになった講和条約が調印された場所がオペラハウスで、特にそこでの吉田茂首席全権が行った演説にまつわるエピソードが強く印象に残ったからだった。

講和会議がどうしてオペラハウスで行われたのかは、アメリカ側で決めたことなのではっきりしたことは不明だが、白洲次郎は「プリンシプルのない日本」の中で次のように書いている。「場所がオペラハウスだったことはよかった。なにしろ大変な人数だから、整理をよほど上手にやらなければ混雑する。・・・・・・われわれはちょうど芝居の入場券のようなものを貰って入場したわけだ。整理方法などを随分考えた末に、議場をオペラハウスにきめたことだと思う。」

昨年、夏の2カ月をボストン郊外で過ごすため7月中旬日本を立った。途中、休養と時差解消目的でサンフランシスコに2泊することにしたので、ようやくそのチャンスが訪れた。ユニオンスクエアに近いホテルにチェックインし、受付で貰った市内地図で調べてみると、幸いにもオペラハウスは余り遠くない所にあった。


(写真は市庁舎ビル)

ホテルの近くを通るMuni Metroに乗ってシビックセンター駅で降り、少し歩いてゆくと目の前に市庁舎の堂々たる建物が現れた。市庁舎を右に眺めながら更に進むと目当てのオペラハウスがあった。オペラシーズンは7月の初めに終わったばかりで、辺りはひっそりとしていた。中に入ってみるとチケット売り場は開いていたが、側に置いてあるのは来季の公演スケジュールだけだった。受付で、昔このオペラハウスで開かれた講和会議に関する資料はないか尋ねたところ、ここにはないが隣のベテランズ・ビルディングにあるかも知れないと教えてくれた。早速行ってみると、オペラハウスとほぼ同形の外観をした建物があり、受付で調べて貰ったが講和会議に関するものはなかった。しかし、この建物の中にあるハーブストセアターの舞台で、1945年6月26日国連憲章が採択されたことがロビーに飾ってあった写真とその説明文で分かったのは思わぬ収穫だった。

   
(写真はオペラハウス)

市庁舎と道路を挟んで西側に並ぶオペラハウスとベテランズ・ビルディングの3つの建物は設計者が同じで、サンフランシスコ大地震後の都市再生プロジェクトとして計画された。このうちオペラハウスは自分が生まれた年と同じ1932年に竣工した。このオペラハウスで1951年9月4日から8日にかけて、世界の52カ国の代表が参加して歴史的な講和会議が開かれた。日本からは当時の吉田首相を首席全権委員とし、池田蔵相や一万田日銀総裁などの全権委員5名の他20数名が参加したが、この中に白洲次郎も首席全権顧問として加わっていた。

講和条約調印に先立って行なわれた吉田首席全権の受託演説は、当初外務省のスタッフが事前にGHQと打ち合わせて作成した英文の原稿を読み上げる予定だった。所が、吉田から原稿に目を通すように依頼された白洲は、原稿を一読するや書き直しを命じ、更に反対するスタッフを押し切って日本語で演説することに決めたと言われる。急きょチャイナタウンで調達した和紙に毛筆で書かれた原稿は長さ30メートル、巻くと直径10センチにもなった。吉田首席全権は演壇に立ってこの巻紙原稿を20分掛けて読み上げたが、その演説は同時通訳され日本にもラジオ中継されたそうだ。

このエピソードについて、白洲自身は前述の本の中で「総理はなぜ日本語で演説したかという理由については、こまかいことは知らないが、英語でやるか、日本語でやるかを、前からはっきりきめていたわけではない。・・・・・」と書いているが、こんな大事なことが直前まで決まっていないとは先ず考えられない。もし白洲がいなかったら間違いなく外務省官僚が用意した英語の原稿になった筈だ。

翌日9月8日の調印式には、最後に吉田首席以下6名の全権委員が登壇したが、吉田首席は渡されたペンを使わず自分のペンを出してサインした。この光景を座席から見ていた白洲の目には涙があふれていたという。演壇の後ろに掲げられた参加国の国旗の中に、その日初めて日の丸の旗が加えられていた。その場にいた日本人は皆感激の涙を流したに違いない。このようにして敗戦国日本は独立国家としての第一歩をこのオペラハウスから踏み出した。

オペラハウスの中に入れないので、建物の周りを歩いてみた。正面から見ると分からなかったが、意外に奥行きがあり、3千席以上もあるホールの大きさが想像できた。ここでの講和条約締結という歴史的な大舞台でも、「風の男」白洲次郎の存在が如何に大きなものであったかを思いながらオペラハウスを後にした。

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