ボストン郊外に滞在していた時、調べ物をするためコネチカット州の州都ハートフォード行きを計画した。ハートフォードはニューヨークとボストンのほぼ中間にある地方都市だ。1960年代のニューヨーク駐在中、ボストンには車で何回も行ったことがあるが、何時も林立する高層ビル群を横目で見ながら通り過ぎた。ハートフォードは保険業の中心地で仕事上は関係なかったので、ここに泊ったことはないと思っていた。
アメリカでは何処へ行くにも車が一番便利だが、車を運転しない場合はバスが良い。ハートフォードには汽車でも行けるが、時間が掛るし割高だ。ボストンから長距離バスが発着するバスターミナルはサウスステーションと同じ所にあり、ハートフォード行きもここから出ている。2時間強掛かったが、途中渋滞もなく予定通り着いた。
荷物があるので、数日前に予約しておいたホテルに直行すると、チェックインの時刻には少し早かったが、部屋が空いていたので直ぐに案内された。カーテンを開けると、目の前に州議事堂の堂々たる建物が目に入った。その瞬間、この景色は昔見たことがあると思った。暫く眺めていると、半世紀近く前の記憶が徐々に甦ってきた。窓から見える州議事堂に記憶があるとすれば、ハートフォードに泊っていたことになる。
州議事堂 左はホテルの窓から見たもの(いずれの写真もクリックすると拡大されます)
ニューヨークに赴任して間もない頃のこと、ハートフォードの北約30キロの所にあるスプリングフィールドという町に、よくアルミ製品の引き合いをくれる客がいた。ところが、何度乙波しても値段が合わず一度も契約出来なかった。そこで、本気で日本品を買う気があるかを確認するため、社長に会いたいと申し入れたところ、ゴルフをやりながら話をしようということになり、ニューヨークから車にバッグを積んで出かけた。3時間程運転して昼過ぎに着くと、早速社長のプライベートコースでゴルフをやった。プレイした後はクラブで夕食も御馳走になった。話が弾んで少し遅くなったので、泊って行けと言われたが、明日朝約束があると言って社長と別れたことまでは覚えている。しかし、その後どうしたのかは全く記憶にない。
ところが、今回ホテルの窓から緑の丘に建つ州議事堂の姿を見たことで、昔同じ景色を見た記憶が甦った。この景色は、あの時客先からの帰途、急きょハートフォードで高速を降りて一泊し、翌朝カーテンを開けて見たものに違いない。どのホテルかは全く覚えていないが、記憶に残っている州議事堂と今見ている姿が似ているので、もしかすると同じホテルだったかも知れない。泊っていたことが分かると、ハートフォードに急に親しみが湧いてきた。
翌日、ホテルを出てニューヨークに帰ったはずだが、その後のことは何も覚えてない。もしサイトシーイングをしていれば、行った場所ぐらいは記憶しているはずだ。もっとも、ニューヨークに駐在していた7年余りの間、出張した市や町は数えきれないが、仕事の後での観光は殆どやったことがない。それだけ仕事人間だったのかもしれない。今回ハートフォードを訪ねるに際しガイドブックを見たが、州議事堂以外は何も知らなかった。今は仕事を離れて自由な時間を持ち、昔の記憶を辿りながら好きなところを見て回るのが無上の楽しみとなっている。
ハートフォードに来た目的は、「アンクル・トムの小屋」を書いたストウ夫人が晩年を過ごした家と展示品を見ることだった。その日はこれだけで終わり、夕食はダウンタウンの中心部にあるトランブルキッチンに行った。ガイドブックに人気店として紹介されている通り、平日なのに中は結構混んでいた。地ビールを飲みながらメニューを見たが、これはと思ったものがないので、本日おすすめの魚料理をとったらこれが非常に旨かった。白のハウスワインも料理に合って、アメリカの食事も案外捨てたものではないと思いながらホテルに帰った。
翌朝目を覚ますと直ぐに外の景色を眺めたが、州議事堂を見た記憶は益々はっきりと甦った。昼過ぎにバスが出るまで時間があるので、先ず昨日見たストウハウスの直ぐ前にあるマーク・トウェインの家を訪ねた。家を見学するにはガイドツアーに参加する必要があるが、朝早かったのでツアー客は一人だけだった。マーク・トウェインはこの家に1874年から91年まで住んだが、この時期に代表作である「トム・ソーヤーの冒険」や「ハックルベリ・フィンの冒険」を出版し、名声も経済的にも絶頂期にあった。そのせいか、家は大きく内部の柱や壁には至る所に彫刻が施されており、かなり金をかけていたことが窺える。所で、マーク・トウェインは死後100年間は出版しないことを条件に書いた本が、2010年11月に出たらしい。どんな内容なのか早く読んでみたい。
今まで知らなかったが、ハートフォードには「Wadsworth Atheneum Museum of Art」
という有名なミュージアムがある。18世紀以降のアメリカ絵画が中心だが、ヨーロッパの作品も、19世紀後半のモネ、ルノアール、ゴッホ、ゴーギャンをはじめ、20世紀のダリ、ピカソ、ミロなど多数揃っている。3階に独立戦争の名場面を画いた大きな絵が並んでいるので、作者をみるとコネチカット州生まれのアメリカ人John Trumbull(1756-1843)だった。昨晩夕食をとったトランブルキッチンの名前は、この画家の名をとったものに違いない
アメリカでテレビを見ていると、保険会社大手トラベラーズのシンボルマークである、赤い大きな傘が人を乗せて空を飛ぶコマーシヤルが出てくる。ミュージアムの隣にあるトラベラーズ本社玄関前の広場には、テレビに出る赤い傘があった。今回のハートフォード行きは、完全に忘れていた記憶が甦るなど、まるで赤い傘に乗って空から舞い降りたようなメルヘンチックな旅だった。