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海外での思い出 佐藤仁平

伊藤忠での海外駐在時代、退職後の海外旅行中に体験したことを中心に、ハプニングやエピソードを交えて紹介します。

大リーグ野球観戦記

2011-08-01 21:45:34 | 日記
アメリカの大リーグ野球はオールスターゲームも終わり、7月24日現在各チーム共に約100試合を消化し、残り60試合余りを残すのみとなった。アメリカンリーグの東地区ではボストン・レッドソックスが、先発投手の松坂を腕の手術で欠いたにも拘らず、快進撃を続けて首位を走っている。一方、イチローのいるシアトル・マリナーズは、西地区で一時首位を狙えるところまで行ったのに、その後連敗が続き最下位に転落している。こんな両チームがフェンウェイーパークで7月22日から3連戦があったので、レッドソックス2連勝の後の最終日、デーゲームを見に行った。球場は何時ものように満員だった。(写真は拡大して見えます。画面にカーソルを当ててください)
  

  

数年前から夏の2ヶ月ほどをボストン郊外で過ごすようになって以来、すっかりレッドソックスフアンになってしまった。今年も7月上旬からこちらに来ているが、毎日テレビでレッドソックスの試合を楽しんでいる。当地にはナインテイーナイン(99)というファミレスがあるが、レッドソックスが勝った次の日は子供の食事代がフリーになるサービスがあるので時々孫を連れて行く。開幕6連敗のスタートだったので、一時はどうなるかと心配していたが、一ヶ月が過ぎた頃から徐々に勝ち星を重ね、7月24日現在ではヤンキースに3ゲームの差をつけて首位をキープしている。こんな絶好調のチームをフェンウェイーパークで応援したかった。マリナーズのイチローは、10年連続でオールスターに出場し、10年連続で200本超安打を記録してきたが、今年はオールスターに選ばれず、200本安打達成にも黄色信号が点っている。これまでイチローの試合はテレビ以外では見たことがなかったので、この機会にイチローのプレイを目の前でじかに見たかった。

フェンウェイーパークは全米で最も小さい球場なので外野席でも試合の様子はよく分かるが、今回はイチローの打撃をできるだけ近くで見るため一塁側の内野席を取った。恒例のナショナルアンサムの歌が終わると、イチローが打席に入って試合開始となったが、観客の反応は殆どなかった。相手がマリナーズでは、ほぼ100%レッドソックスのファンで埋め尽くされたフェンウェイーパークで応援の歓声を聞くことは期待できない。しかし、相手チームの強打者にはブーイングで迎えるのが普通なのに、そのブーイングもなかった。もし、イチローがオールスターに出場し打率も3割台であれば、おそらく激しいブーイングが起こったのではなかったかと思うと、少しさびしかった。

レッドソックスのピッチャーはナックルボールのウィークフィールドだったが、最初の打席はピッチャーゴロに倒れた。そのあとマリナーズは立ち上がりに不安のあったウィークフィールドを攻めて一回表に2点を先取したので、イチローの影は薄かった。第二打席は内野のファールフライに倒れたが、さすがに第三打席はライト前にヒットを放った。しかし、盗塁を仕掛けて1,2塁間に挟まれてアウトになったときは、イチローの元気のなさを感じた。第四打席はこの日2本目のヒットを打ち、ようやく面目を保ったが、まだ2割6分台の打率ではこの先余程頑張らないと200本安打達成は厳しいと思った。

10年連続のオールスター出場と200本超安打の実績は、大リーグの球史に残る大記録だが、記録は永久に続けられるものではない。過去の如何なる名プレイヤーでも必ず記録は途切れ静かに引退していった。万年青年のようなイチローも今年はその仲間入りをするのだろうか。そんな不安が頭をよぎったが、これから通常の好調さを取り戻せば数字的には達成可能なので、最後まで諦めずに頑張って欲しいと願った。

一回の裏にはレッドソックスがマリナーズのルーキー投手ピネダを打って5点を取ると、ウィークフィールドは落ち着きを取り戻した。6回表の最終打者を三振にとり通算2000個の奪三振を記録すると、観客からスタンデングオベーションを受けた。6回の裏にはレッドソックスが更に集中攻撃を浴びせて5点を追加し、試合はほぼ決まった。そのせいもあって、ウィークフィールドは7回にも続投したが、さすがに疲れが出たのかナックルの切れがなくなりノーアウト満塁からホーランを打たれて4点を失った。ここでフランコーナ監督がピッチャーの交代を告げると、観客は総立ちで42才のベテラン投手に惜しみない拍手を送った。リリーフ投手のアセベスは1点を取られたが3回を無難に押さえ切り、12対8でレッドソックスが逃げ切った。これでレッドソックスはマリナーズに3連勝し、一方のマリナーズは15連敗となった。

フェンウェイーパークに限らず、アメリカの球場では日本のような騒々しい応援団がいないので、野球をゆっくりと観戦できる。調子のいいバッターが打席に入ると大きな声援が飛び、ヒットを打てば大きな歓声が沸き、点が入れば皆立ち上がって拍手をする。これがこちらの応援の仕方だが、試合の終盤に入ってレッドソックスの攻撃中、何処からともなくウェーブが起こった。1-2回で済むのかと思ったら、5-6回も続いたのはいただけなかった。ウェーブは打者の集中心を妨げ、かえってマイナス効果になる。案の定、強打者のオルテーズは三振に倒れてしまった。

前日までヒートが北東部にもやってきて、日中は35度を越す暑さが続いていたが、この日は比較的涼しくなり野球観戦には絶好の日和だった。その上、強いレッドソックスの試合を目の当たりにすることができ、大いに満足した。このままの勢いを続け地区優勝を目指して欲しい。一方、イチローについては一抹の不安を感じたが、今後の活躍を期待しながらフェンウェイーパークを後にした。

佐藤仁平 スコットランドの苦い思い出

2011-07-01 17:05:34 | 日記
年に一度の欣交会などで佐藤道生さんにお会いすると、必ず出る二人だけの話題がある。それは30年近くも前のロンドン駐在時代に、東京から来られた当時の米倉社長と進展実業の水木会長が、スコットランドでゴルフをされた際にお供した時のことだ。今でこそ懐かしい思い出となったが、その時はサラリーマンにとっては致命傷になりかねない事態が起こったので、とても平静な気持ではいられなかった。

お二人が来られた時、佐藤道生さんはロンドン支店長で私は代行を勤めていた。週末にゴルフのメッカであるスコットランドでゴルフをしたいという話になったので、早速プランを練った。米倉さんが未だ部長位の頃だったと記憶するが、船会社の招待ゴルフコンペに出て同じ組でプレーした際、当時未だゴルフを始めて間もなかった私は、こんなお上手な方が居られるのかと驚いたことがあった。ロンドンに来られた頃、ゴルフの腕前は社の内外に知れ渡っていた。水木さんは一時非鉄の本部長をされておられたとき、公私にわたりご指導いただいた方だ。ロンドンに赴任する前、一度ホームコースの相模原でプレーさせていただいたことがあったが、豪快なスウィングが印象的だった。昔からゴルフがお好きで、毎週末はご自分で車を運転され相模原でゴルフをやっているとのことだった。こんなゴルフ通のお二人なので、何とか思い出に残る場所でゴルフを満喫して頂きたいと知恵をしぼった。
St.Andrews Old Course

スコットランドでプレーするなら、なんと言ってもセント・アンドリュースのオールドコースは外せない。度々全英オープンの舞台となっているイギリスを代表するリンクスで、ゴルファーなら一度はチャレンジしたいところだ。ただ、このコースはパブリックコースで誰でもプレーできるが、当時は8時から午後4時までのスタートは早くから抽選で決まっており急な予約は出来ないのが難点だった。予約なしでプレーするには、早朝と午後4時以降のスタートに並ぶしかない。スコットランドの夏は夜9時近くまで明るいので、4時にスタートしても十分ワンラウンド廻れることは分かっていた。

Gleneagles Hotel

もう一箇所はセント・アンドリュースから余り遠くない、ゴルフ・リゾートとして有名なグレンイーグルを思い出した。昔ニューヨークに駐在していた時、ゴルフの中継がなくなると、「Shell’s Wonderful World of Golf」というビデオ番組を観ていたが、この舞台となっていたのがスコットランドのグレンイーグルだった。ゴルフ客用の立派なホテルがあり、コースも上級者用からジュニアー用まで5つ位ある。将来リタイヤーしてイギリスに行く機会があったら、ホテルに泊まってゴルフをしてみたいと思っていたところだった。

この2箇所でプレーすることにし、土曜日の午前中にロンドンを発ってエディンバラに飛び、車でグレンイーグルに行ってホテルにチェックインし、ワンラウンド廻る。ホテルに一泊して、翌朝はホテルでゆっくり過ごし、早めの昼食をとってから車でセント・アンドリュースに移動して4時スタートに並ぶ。夜あまり遅く無い便でロンドンに帰るので、廻れるところまで廻るというスケジュールを立てた。これで了解が得られたので、フライトのブッキングとグレンイーグルのホテルを予約した。

予定通りグレンイーグルホテルに着いたが、ここで思わぬ事件が起きた。チェックインの時刻は過ぎていたのに、部屋が未だ用意出来てないというのだ。欧米のホテルでは時々ある事だが、一番起きて欲しくないときに起きてしまった。日本から大事なお客様をお連れしているので、何とかならないかと詰め寄ったが、暫くロビーでお待ち下さいの一点張りだ。お二人は口にこそ出さなかったが、明らかにご不満の様子で、対応のまずさに呆れているようだった。冷や汗をかきながらお詫びしたが、前日から部屋を取っておけばよかったと悔やんでも後の祭りだった。何とか1部屋だけ確保できたので、取りあえず全員の荷物を運び込み、着替えをしてゴルフ場に出た。ゴルフを始めるとお二人の機嫌は直ったようだったが、とてもゴルフやっている気がしなかった。

ワンラウンドを廻ってから夫々の部屋に移り、シャワーを浴びて4人で遅い夕食をとった。注文を取ってくれた肌が透き通るような若いスコットランド女性のサービスが良く、意外に美味しかった魚料理とワインのお陰で、食事中にチェックインの不手際が話題に上ることは無かった。

翌日の朝はゆっくり起き、ブランチをとってからセント・アンドリュースに向かった。少し早めに着いて4時スタートに並んだが、生憎キャデーは1人しか確保できなかった。このコースにはプルカートは置いてないので、キャデーはツーバッグでお客様について貰い、支店長と私はセルフで廻ることにした。日曜日とあってプレーする人が多く、ホール毎に待たされてなかなか進まなかった。インの途中位までは行けると予想していたが、予定の時刻が迫ったのでハーフで上がることにした。ところが、このコースは9番ホールが一番遠い所にある。バッグを担いでクラブハウスに急いだが、プレー中はさほど感じなかったバッグがすごく重かった。名門コースでのプレーは残念ながら9ホールで終わったが、果たしてお二人に満足して頂けたかどうかは確かめようもなかった。

ロンドンに戻って夕食会に出た時、何を言われても謝るしかないと覚悟を決めていたが、社長から直接お咎めはなかったような気がする。しかし、水木さんから「もっと自分に投資しなければ駄目だ」とのお言葉をいただいたことははっきり記憶に残っている。その時は、この言葉の意味が良く理解できなかったが、これはもっと経験を積み、自分を磨いて成長せよとの暖かいアドバイスであることが後になって分かった。この時の心配事はどうやら杞憂に終わったが、今でも水木さんの一言は忘れられない。

ハワイ旅行

2011-05-02 21:23:02 | 日記

アメリカでもニューイングランド地方の冬は寒さが厳しい。今年は例年より雪が多く気温も低いそうだ。この地方に住む人々にとって、冬に休暇を取って暖かいところに行くことは無上の楽しみで、サラリーマンはこのため普段から貯金をしているという。ボストン郊外に住む息子家族も例外ではなく、毎年冬には一週間ほど休みを取りフロリダやバーミューダなどへ行っていたが、今年はハワイに決めたので来ないかと言ってきた。久し振りに9歳になった孫娘に会えるし、寒い冬から逃げ出すのも悪くないと思い、2月下旬家族で成田を発った。

ハワイには20年ほど前、伊藤忠を離れて海外不動産の仕事をしていた時何度か行った事があるが、休暇で訪れるのは初めてだ。ビジネス旅行はいつものことながら、仕事のことで頭が一杯で、リゾート地を楽しむ余裕は無かったが、今回は心置きなくエンジョイできた。この時期のハワイは、冬の日本から来ると別世界で、気温は日中27度位まで上がるが、海からの風が半袖のスポーツシャツに着替えた体に心地良かった。

ハワイと言えば、昭和一けた生まれはどうしてもパールハーバーを思い出してしまう。太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃から今年で丁度70周年になる。伊藤忠の社員として初めてアメリカを訪れた時、なぜこんな大きな豊かな国と戦争をしたのだろう、と不思議に思ったものだった。アメリカは未だ金融危機の影響から抜け出せないでいるが、ここハワイのワイキキビーチは、戦争の記憶もないような不況知らずの観光客で賑わっていた。

    

今回はワイキキビーチのホテルに滞在したが、チェックインして先ず驚いたことは日本人観光客の多さだった。最初は泊ったホテルが日本人に人気があるところだったので、そのせいかとも思ったが、翌日街に出てみるとショッピング・センターやDFSギャラリアは日本人で一杯だった。ブランド店の店員さんの話では、昨今ハワイを訪れる日本人観光客は一日平均5,000人程度で、これでもバブルの時よりは少ないといいながらも嬉しそうだった。日本食や中華料理のレストランも日本人ばかりで、予約なしだと30分から一時間は待たされる。最近の円高が日本人の財布の紐を緩めており、これがハワイの観光産業に少なからず寄与しているに違いないと思った。

三日目に、毎日部屋からも眺められるダイヤモンド・ヘッドへ息子家族と4人で登った。出来れば頂上でご来光が見られるようにと朝暗い内にホテルを出発した。孫娘の手に引かれながら、30分程で無事頂上に着いたが、そこには既にカメラや携帯を持った日本人数百人が日の出を待ち構えていた。7時ちょっと前に東の海から太陽が昇ると、一斉に歓声が湧きおこり、一瞬日本で元旦のご来光を拝んでいるのではないかと錯覚した。しかし、反対側に見渡せるワイキキの美しい眺めはハワイに居ることを実感させてくれた。

    

ハワイ諸島が世界に知られるようになったのは、イギリスの探検家ジェームズ・クックが1778年に発見してからだ。ハワイを初めて統一したのはカメハメハ大王で、1810年に国王となり、1898年にアメリカに併合されるまで王朝が続いた。1820年頃日本近海でマッコウクジラの大群が発見されると、アメリカの捕鯨船はいっせいに太平洋に進出するようになり、日本が鎖国下にあったためハワイが捕鯨船の補給基地になった。全盛を誇ったのは1820年代から60年代までの40年間だった。

あの戦争開始から遡ること丁度100年前の1841年、5人の日本人がアメリカ人に伴われてホノルルに上陸した。5人は鳥島に漂着し餓死寸前のところをアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助された土佐の漁師で、アメリカ人はホイットフィールド船長だった。この中に、後に日本の開国に大きな役割を果たすことになるジョン万次郎がいた。船長は言葉が通じないため、先ず5人を連れて行ったのが、当時建設中のカワイアハオ教会で、そこに住んでいたアメリカ人宣教師のジャッド氏に彼らの生国を確認して貰った。ジャッド氏は過去に日本人漂流者が残していった品物を見せたところ、大きく頷いたので5人を日本人と断定したと言われる。

      

ハワイ最古のこの教会は、ホノルルのダウンタウンにあるイオラニ宮殿の近くに今も残っているので、ワイキキからトロリーに乗って訪ねてみた。6年かけて1842年に完成した建物はサンゴのブロックが使われており、王朝時代は王家の礼拝堂だったそうだ。教会内には王族の肖像画が飾られていた。

1841年12月、ジョン万次郎は仲間と別れ船長の好意でアメリカに渡ったが、これが彼の運命を大きく変えることになった。万次郎はその後何度かハワイを訪れているが、10年後に2人の仲間と共に帰国のため上海行きの商船に乗ったのもこのホノルルだった。無事帰国を果たし故郷に帰って夢にまで見た母と再会したのも束の間、開国に揺れる幕府に取り立てられ江戸に住むようになった。1860年には福沢諭吉らと咸臨丸でサンフランシスコまで行ったが、帰路ハワイに寄港した際、命の恩人ホイットフィールド船長に手紙を書きハワイの知人に託している。このようにジョン万次郎とハワイとの関わりは深いものがあるが、観光案内にはなにも載ってない。

ハワイに来るに当たっては、家族それぞれが目的を持っていた。滞在中、息子は何回か念願のゴルフに出掛け、孫娘は子供用プールで遊びまくり、私はというと一人でトロリーに乗ってホノルルの史跡巡りをした。各自思い思いにハワイを満喫した短いながらも楽しい旅だった。


東日本大災害

2011-04-05 09:17:29 | 日記

3月11日に発生した東日本大災害で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。また、被災された皆様には心よりお見舞い申し上げるとともに、一日も早い復興をお祈り申し上げます。
今月は被災者に配慮して連載は中止させて頂きます。
あの日、私は社友室で仲間と囲碁を打っていました。4階でもあれだけ揺れたのだから、上の方の階で仕事をされていた社員はさぞ肝を冷やしたことだろうと思いました。電車が停まり帰宅できなくなったので社友室に泊めてももらいましたが、乾パンの差し入れや毛布の提供など、防災担当者をはじめ関係者の暖かいご配慮には感謝の気持ちで一杯です。この場を借りて厚くお礼申しあげます。


アンドーヴァーに眠るストウ夫人

2011-03-02 20:20:01 | 日記

19世紀のアメリカを代表する女流作家の一人であるHarriet Beecher Stoweは、2011年に生誕200年を迎える。彼女を一躍有名にした「Uncle Tom’s Cabin」は1852年に出版されたが、一年間で30万部を超える大ベストセラーとなり、1861年の南北戦争勃発の引き金になったと言われている。この本は子供の頃に読んだことがあるが、最近あらためて読んでみて、当時の南部を中心とする奴隷制社会を思うと如何に衝撃的な本だったかが分かった。

コネチカット州の州都ハートフォードに、ストウ夫人が家族とともに1873年から1896年に亡くなるまで住んだ家が修復されて残っており一般に公開されている。シンプルなビクトリア風コテージの中には、当時使っていた家具類と共に彼女が描いた絵が各部屋に飾られおり、晩年の質素な暮らしぶりを偲ぶことができる。

   

マサチューセッツ州のアンドーヴァーに滞在中、何かの本でストウ夫人のお墓がアンドーヴァーのフィリップス・アカデミーの墓地にあることを知った。お墓が、亡くなったハートフォードでなくアンドーヴァーにあるのは何故だろうと好奇心が湧いたので、図書館でストウ夫人のアンドーヴァーとの関わりを調べてみた。

ストウ夫人が「Uncle Tom’s Cabin」を書いたのは、メイン州のブランズウィックに住んで
いたときだが、1853年夫のカルビンがアンドーヴァー神学校に教授として奉職することになり、6人の子供と一緒にアンドーヴァーに移って来たことが分かった。ここでストウ夫人は、カルビンが神学校を退職する1864年までの10年余りの間、生涯で最も充実した生活を送っていた。

1852年の夏、ストウ夫人が学校側と住む家について交渉するため一人でアンドーヴァーを訪れたが、この時の面白いエピソードがある。学校側が用意した家は小さすぎて不満だったストウ夫人はキャンパス内を歩いていると、ふと神学生用の大工工房に使われていた石造りの建物が倉庫になっているのが目に止まった。すっかり気に入って学校側と交渉したが、どうしてもうんと言わないので、受けとったばかりの印税1万ドルの小切手をちらつかせたところ、即座にOKが出たという。

ストウ夫人が「Stone Cabin」の愛称で呼んでいた家で家族と共に暮らした10余年は、彼女の人生で最も輝かしい時期であった。黒人指導者を始め内外の著名人が度々訪れ、彼女も講演活動のためしばしば外へ出た。ヨーロッパには3度旅行し、英国では女王に面会した時、女王は「貴方の本を読んで涙を流した」と言ったといわれている。又、南北戦争中の1862年、ワシントンのホワイトハウスでリンカーン大統領に会った時、大統領は「小さな貴方が大きな戦争を引き起こした本を書いたのですね」と言ったと伝えられている。

ストウ夫人とその家族が住んだ時期は、アンドーヴァーの歴史上最も楽しい時代だったと郷土史家は言っている。彼女は町で最も話題に上った人物で、郵便物はアンドーヴァー住民の中で一番多く、郵便局は専用の配達人を雇ったほどだった。彼女は家の飾り付けや庭をデザインする能力に優れ、彼女が作った園芸植物は、毎年開かれる農業品評会では常に入賞していた。

ストウ夫人は神学校内の生活が余りにもスパルタ的で性に合わなかった。このような堅苦しい雰囲気の中で子供たちを育てたくないと思った夫人は、家の中で心のこもった社交活動を行なった。「Stone Cabin」の窓は毎晩遅くまでガスライトが灯り、いつも音楽会、寸劇、ゲーム遊びやお茶会などが行なわれていた。ある夜、双子の姉妹のために学校の同級生を招いたパーティーは、深夜まで盛り上がり、翌日神学校の神父からきつく咎められたことがあったという。

この間、家族にとっては楽しいことばかりではなかった。1857年、ダートマス大学の学生だった長男のヘンリーが川で溺死し、フィリップス・アカデミーの墓地に埋葬された。1864年、ストウ家族はカルビンが健康を害して神学校の教授を辞任したため、夫人の生まれ故郷に近いハートフォードに移住した。夫のカルビンもストウ夫人も亡くなると、ハートフォードではなく子供が眠っている場所に埋葬された。ハートフォードのストウ・センターを訪ねたとき、ストウ夫人のお墓が何故アンドーヴァーにあるのか尋ねたところ、子供のお墓があるからとの答えだだったが、それだけではないような気がした。

    

ある日の午後、フィリッピス・アカデミーを訪ね、ストウ夫人が人生を謳歌していた時代に思いを馳せながら広々としたキャンパスを散歩した。お気に入りだった「Stone Cabin」は元の位置から50メートルほど西へ移されているが、昔のままの美しい姿で残っており、現在は学生寮として使われている。一方、元の場所にはアンドーヴァー・インが建っており、宿泊施設と町でも人気のレストランがある。その前を少し行くと木立に囲まれた墓地があり、古色蒼然とした灰色の石碑が並んでいる中に、茶色の艶のある石でできた一際目立つ記念碑が建っていた。その礎石には下記のような銘が刻まれていた。

          TRIBUTE OF LOVING REMEMBERANCE
                         ERECTED BY HER CHILDREN
                     1811 HARRIET BEECHER STOWE 1896

これは筆者の勝手な想像だが、ストウ夫人は晩年一緒に住んでいた双子の娘と、時々は楽しかったアンドーヴァー時代のことを話し合っていたかもしれない。その折ストウ夫人は、自分の将来について何らかの「想い」を漏らしていたかもしれない。お墓がアンドーヴァーにあるのは、単に長男のお墓の側と言うだけでなく、アンドーヴァーでの懐かしい思い出を子供たちと共有していたためではないだろうかと思った。