goo blog サービス終了のお知らせ 

海外での思い出 佐藤仁平

伊藤忠での海外駐在時代、退職後の海外旅行中に体験したことを中心に、ハプニングやエピソードを交えて紹介します。

私のゴルフ物語

2012-06-02 12:11:56 | 日記

昨年、これまで大事に取って置いたゴルフカップを、ほんの2,3個を残して思い切って処分した。社友会から傘寿のお祝いを頂いた時、いよいよ身辺整理をしなければと思い、最初に手をつけたのが屋根裏の物置を占領していた20個余りのカップだった。ニューヨーク駐在から帰国する時10個ほどのカップを近所の子供たちにあげてきたが、その後国内勤務中に取ったものとロンドンから持ち帰ったカップがもう何年も埃をかぶって眠っていた。ゴルフコンペに参加しなくなって久しいが、この機会にゴルフ人生を振り返ってみたい。

         

正直なところ、自分がゴルフを上手いと思ったことはない。どんなに練習してもドライバーの飛距離が伸びなかった。これをアプローチとパットで補い何とかスコアを作ったが、オフィシャルハンデは最盛期でもシングルに届かなかった。それでも、これだけカップが取れたのは、練習と実力に見合ったコース攻略法を考えてプレーしたからだと思う。

ゴルフとの出会いは早かった。大学に入って東京で下宿生活を始めて間もなく、受験勉強の疲れがでたのか胸一面にヘルペスができた。医者に通って治りかけてきたある日のこと、医者からゴルフのような軽い運動が良いと勧められた。すねかじりの学生の分際で、ゴルフなど出来るわけがないと聞き流したが、その言葉が何時までも心の片隅に残っていた。

伊藤忠に入社して三鷹寮に入ると、休日には多摩川の打ちっぱなし練習場に行く人がいたので、ドライバー一本持って付いて行った。当時東京支社の屋上にゴルフの練習場があり、仕事が早く終わった時は屋上に上がってボールを打った。入社3年目でニューカレドニアのヌメア駐在を命じられた時、現地にゴルフ場がないことは分かっていたが、赴任途中の香港でゴルフセットを買って持って行った。空港で出迎えてくれた人に、ここではゴルフは出来ないと笑われたが、ヌメア北側の海岸が干潮になると数百メートルの砂浜が現れるので、時々ショートアイアンの練習をした。

帰国して間もなく大阪転勤になったが、取引先にゴルフが盛んなところがあって、時々社内コンペに誘われた。コンペに参加するからには恥を掻きたくなかったので、週末には淀川の河川敷練習場に通った。その後東京に戻ったが、当時義父がゴルフをやっており時々誘ってくれたお陰で、漸くコースに出てプレーする機会が増えた。仕事の関係で業界や船会社のコンペにも参加するようになったが、当時はなかなか100を切れなかった。ゴルフを本格的にやり出したのは、ニューヨークに駐在してからだった。

ニューヨークの冬は気温が低く雪も多いので、約半年はプレーができない。そのため、冬は開いている練習場に通い、シーズンになると週末は少々雨が降っても熱心にゴルフをやった。家内が空港に着いた時、最初に渡したのは週末ゴルフのスケジュールだった。初めて90を切ったのは、日本人がよくプレーするコマック・ヒルズだった。アウトが40だったので80台は楽勝と思っていたところ、インで49をたたきかろうじて89となったことは今でもはっきり覚えている。当時のニューヨーク店には大西、網野という二人の名プレーヤーが駐在されており、お二人の指導を受けることができたのは幸いだった。ニューヨークには7年余り駐在したが、その間日本クラブで優勝したのをはじめ、社内大会、非鉄業界、日鉱会などでそれぞれ複数回カップを手にした。

1970年に帰国して5年余りは非鉄原料の仕事に携わったが、ニューヨークでの実績が自信になったのかゴルフは好調だった。取引先が主催するコンペには出来るだけ参加し、少なくとも一度は優勝した。住鉱のヌメア会は年に2回コンペがあったが、2連勝を飾って本カップを貰ったことがあった。大阪に1年間勤務したときも、社内大会や取引先のコンペでカップを取った。

1981年から約4年間ロンドンに駐在したが、この時期がゴルフ人生のピークだった。日本人会が主催した当時の科学技術庁長官、岩動道行杯の取り切り戦で、各界の代表者を抑えてカップを手にした時の感激は今でも忘れられない。アウトはパープレーの36、インは40でグロス76、キャロウェーによるハンデが5と決まって、ネットはワンアンダーの71だった。76は生涯のベストスグロスだった。この時のカップだけは今も記念に残してある。もう一つ忘れられないのは、所属していたクラブで抽選により選ばれたパートナーと組んで争う「カルカッタ・カップ」戦で優勝したことだ。イギリスではこの方式が盛んで、大抵のプライベートクラブで年に1回行なわれるメーンイベントだ。競技は土日の2日間にわたり36ホールをプレーし、2人のネットスコアの合計で決まる。この時は調子が良く、2日とも80ちょっとで廻ったと記憶するが、ハンデとパートナーにも助けられて優勝することが出来た。カップは出なかったが、賞品としてカラーテレビやパターなどを貰った他に、優勝チームを予想する賭けにも当たって予想外の配当金を受け取った。

ロンドンから帰国して間もなく伊藤忠を退社し、第二の職場で定年まで勤めたが、未だ還暦前だったのにゴルフは下り坂に入った。持病の腰痛が段々ひどくなってきたので、コースに出る機会も少なくなった。1993年ジャカルタで働いていた時、伊藤忠OBとして参加した伊藤忠ジャカルタ店の社内大会で優勝したことがあるが、これがゴルフ人生最後の栄冠となった。この時のカップも今はもうない。

ゴルフとの関わりを振り返ってみると、伊藤忠に入社して暫く経った頃、社会に出た以上は何か一つでも他人に負けないものを身につけねばと考えたことがあった。ゴルフはそんな思いで始めた訳ではなかったが、いつの間にかその面白さにはまり熱中するようになった。少しずつ上達するにつれて、学生時代に受けた医者のアドバイスを思い出し、ゴルフは自分に一番合ったスポーツではないかと確信するようになった。ゴルフをやって良かったことは、第一に健康管理ができたことだ。ゴルフがあるときは飲み過ぎないように努めベストな体調で臨めるようにした。第二に、特に海外では練習すればするほど結果がついてくる喜びと達成感を味わうことができた。そんなゴフルが出来なくなったのは寂しい限りだが、この年まで元気で過ごせたのはゴルフのお陰ではないかと思う。

年はとっても歩ける間はゴルフが出来る。愛用したクラブは未だアメリカに置いてあるので、現地に行く機会があれば健康維持のためにスコアを気にしない気儘なゴルフを楽しみたいと思っている。


高齢者の海外旅行は車椅子で

2012-05-01 22:33:59 | 日記
これまで街中で車椅子に乗っている人をたびたび見掛けてきたが、まさか自分たちが利用するとは思いもしなかった。数年前、海外旅行中に家内が足を怪我して歩行困難になり、帰りのフライトは車椅子を頼まざるを得なくなった。利用する航空会社に連絡してみると、いとも簡単に了解が取れ、必要とする人は誰でも無料で利用できることが分かった。それ以来、海外旅行には車椅子が欠かせなくなった。

ここで注意しておきたいのは、日本の航空会社は先ず問題ないが、アメリカの国内線の場合は必ずしも安心できないことだ。ロサンゼルス空港でボストン行きの国内線に乗る時思わぬことが起こった。チェックインを済ませ、車椅子を予約していることを確認して指定の場所で待っていたが、車椅子がなかなか来ない。30分程してやっと一台が来て、先に待っていた人を乗せて行ったが、次が来ない。こんな状態では出発に間に合わなくなる恐れが出てきたので、係の人に尋ねると、急ぐなら2階の通関所を出たところに車が待っているはずだからそちらに行けと言われた。

エレベーターで2階に上がり、列に並んで何とか通関を済ませて通路に出たら、6人乗りのゴルフカートのような車が待機していた。車に乗ると、運転手はこの車はターミナルが工事中のため途中までしか行けないと言う。案の定途中で降ろされたが、ゲートまでまだかなりの距離がありそうなので、様子を見に行ったら、旨い具合に空の車椅子が帰ってくるのに出会った。向こうで老婦人が待っているから乗せてやって欲しいと頼んだ。車椅子が来た時、家内はまるで天使が迎いに来たように嬉しかったと後になって言っていた。

しかし、こんなことは例外だったのかも知れない。この時を除いては、アメリカの国内線でも車椅子は直ぐに来てくれていたので、足腰の弱った高齢者が海外旅行をする場合は車椅子の利用をお勧めしたい。どんな効用があるか紹介しよう。

第一に、通関検査で優先権があることだ。アメリカでは9.11以来通関検査が厳しくなり、海外から到着した時や、搭乗の際の手荷物検査と身体検査には時間が掛かり、いつも乗客が長蛇の列を作る。車椅子の人は同伴者と共に別の入り口から入り、優先的に列の先頭に並ぶことが出来る。これは通関のお役人も認めるルールだから、並んでいる人は誰も文句を言わない。足が弱っている老人には非常に助かる。

第二は、搭乗の優先権だ。大抵の場合、車椅子の人は同伴者と共にファーストクラスより先に搭乗できる。車椅子は機内に入る一歩手前まで行って降りるが、誰もいない機内を悠々と座席まで行けるのはありがたい。JAL やANAなら乗務員が手荷物まで持ってくれる。

第三は、車椅子の係員は通常チェックインした荷物をカルーセルから降ろすのを手伝ってくれる。荷物が重いと動くカルーセルから荷物を取りだすのは、力のない老人には一苦労だ。それを同伴者の荷物まで降ろしてくれてカートに積んで貰えるのだから、こんな嬉しいことはない。そんな時はチップを多めに渡すことにしている。

そのほかに係員によって異なるが、話好きの人に当たるといろいろな情報が聞ける。ハワイに行った時のことだが、搭乗するまでの間、最近の日本人観光客の状況を詳しく話してくれた。

車椅子には腰が痛い時一度だけ利用したことがあったが、実際に乗ってみてこんなに楽なものはないと実感した。いつも手荷物には本などを詰め込むので重くなるが、膝に置けるので手が痛くならないで済む。年をとっても、この手を使って海外旅行を楽しみたいと思っている。

ケープアンが生んだ海洋画家

2012-04-01 16:16:28 | 日記
マサチューセッツ州にはケープコッドの他にもう一つのケープ(岬)がある。それは地図で見ると直ぐに分かるが、ボストンの北西約30マイルの所にあるケープアンだ。ケープアンに興味をもったのは、ある日の夕食時に出た食べ物の話題がきっかけだった。誰かが今年もメインでロブスターを食べたいと言いだすと、ケープアンのグロスターにも旨い所があるらしいとの話になり、メインに行くよりも大分近いので、今度はグロスターで試してみようと言うことになった。

日本語のガイドブックには載っていないのでネットで調べてみると、ケープアン地方は歴史的にも興味深い所であることが分かった。最大の都市であるグロスターは18世紀初頭、アメリカで初めてスクーナー帆船が造られてから一大漁港になったところだ。隣のロックポートは花崗岩の宝庫で、19世紀末から20世紀の初めにかけて建築用石材として世界中に輸出されていた。またエッセクスは19世紀半ばまでスクーナーの造船所が15もあって、グロスターの漁業を支えていた。グロスターにはケープアン・ミュージアムがり、19世紀のアメリカを代表する風景画家ヘンリー・レインの絵が所蔵、展示されていることも分かった。グロスターとロックポートにはボストンからコミューターレイルの便もあるが、車で行くことになったので、この機会にミュージアムも訊ねようと決めた。



一時間程でグロスターに着くと、調べておいたレストランは直ぐに見つかった。人気があるらしく団体客で混雑していたが、程なくテーブルに案内されメインで食べたのと同じボイルしたのを注文した。メインの時のような感激はなかったが、新鮮で美味しかった。食後、みんなは土産物を買ったりお茶を飲んだりするというので、歩いて5分程のケープアン・ミュージアムを訪れた。



学芸員が案内してくれるツアーがあったので申し込んだら、参加者は自分一人だけだった。始めに装飾用の美術工芸品の部屋をざっと見た後、ヘンリー・レインの常設展示室に入った。これが当ミュージアムの目玉で、部屋には3-40点の絵が展示されており、グロスター港や海岸に舟のある風景を描いたものが多かった。1850年代から1870年代にかけて、この地方で後にルミニズムと呼ばれるスタイルの風景画家が現れたが、ヘンリー・レインはその代表的な画家だったという。ルミニズムは光の効果を重視して空の景色を大きく描くところに特色がある。同じ時期にフランスで起こった印象派の影響は受けていなとのことだった。



1713年グロスターでスクーナー帆船が造られると、この町は大きく変わった。これまで漁業は海岸の近くでしか行われなかったが、スクーナーは遠洋航海が可能なため、カナダのノバスコシアからナンタケット島にかけての大西洋有数の漁場にアクセスできるようになり、漁業は飛躍的に発展した。それに伴い、グロスターは一大漁港になり、港は忙しく出入りするスクーナーで賑わうようになった。

この様な環境の中で、ヘンリー・レインは1804年12月19日に生まれた。父は港の近くに製帆所を持ち、スクーナー用の帆作りや修理に従事していた。ヘンリーは若し何事もなければ、将来は父と同じ製帆員になるか、船乗り稼業に就くことになっていたかも知れない。しかし一歳半の時、庭で誤って毒性の雑草を食べたのがもとで小児麻痺に罹り、彼の運命は大きく変わった。生まれつき絵の才能はあったが、他の子供たちと一緒に遊び回ることが出来なかったので、一人で絵を描いていたという。しかし、誰も教える人は居なかったので、もっぱら本を見ながら自己流の描き方だった。

1832年28歳のとき、絵の本格的な修行をするため、ボストンにあるリトグラフの店で働くことになった。ここで彼はリトグラファーとしての仕事をする傍ら、盛んに海洋風景の油絵を描いた。偶々イギリスの有名な海洋画家も働いていたので大いに刺激を受け、彼の絵画技術は徐々に洗練され完成していった。彼の名前は1840年のボストン年鑑に海洋画家として載るようになった。この頃から彼の絵はニューヨークやボストンの画商に注目され熱烈な後援者が現れ始めた。ボストンで一流の画家として名声を博したヘンリー・レインは、度々グロスターに一時帰省して絵を描いた。1848年にボストンを引き揚げて故郷に戻り、翌年には港が見渡せる場所に家を建て、1865年に亡くなるまで住んでいた。その家は今も残っている。

一生涯松葉杖を離せなかったヘンリー・レインは、晩年は不自由な身ながら最上階にあるアトリエに上がり、しばしば夕暮れ時の港を描いていたという。その時の絵を見たかどうか、今となっては記憶にないが、画家の生い立ちから亡くなるまでの歩みを知った今、もう一度ミュージアムを訪ね、描かれた年をチェックしながらじっくりと鑑賞したいと思っている。

アンドーバー・カントリークラブの周りを散歩する

2012-03-01 00:00:55 | 日記
毎年夏に滞在しているアンドーバーの家ではビーグル犬を飼っている。その犬を連れてアンドーバー・カントリークラブというゴルフ場の近くを度々散歩した。



アンドーバーには、1920年代に世界最大の繊維メーカー、アメリカン・ウールン会社の本社があった。町の所々に当時の工場だったと思われる4,5階建ての煉瓦作りの大きな建物が残っている。従業員は最盛期に今のアンドーバーの人口に匹敵する3万人以上も居たと言われるから大きな会社だったに違いない。この会社のウイリアム・ウッド社長が1925年に、お客様を接待する目的で18ホールのゴルフ場を備えたアンドーバー・カントリークラブを創設した。ゴルフコースの設計は、当時ゴルフ場設計の第一人者だったドナルド・ロスに依頼した。ドナルド・ロスはスコットランド生まれだが、アメリカの国籍を取得し、1948年に75才で亡くなるまで、ペブルビーチやパインハーストなどの有名なコースを初め400ものコースを手掛けている。



このゴルフ場には、コースの中をアンドーバー・カントリークラブ・レインと呼ばれる道路が横切っており、その道路の両側に大きな住宅が建っている。誰もが通れる公道で、歩道はあるし通過する車も殆どないので、犬を散歩させるには絶好の道だ。この通りにはゴルフボールが道路の上を超えてゆく場所がある。日本なら安全のためにネットを張るところだろうが、この通りにはなにもない。恐らく車も通行人も少ないので、プレーヤーは誰も居ないことを確認してからプレーすることになっているのだろう。コースの西側の道路からこのレインに入ると、ゴルファーの懐かしい名前に出会う。先ず目に付いたのが、Bobby Jones Driveだ。ドライブといってもレインから北に伸びる100メートルほどの道路だが、両側に住宅が並んでいる。



ボビー・ジョーンズは1902年ジョージア州アトランタ生まれのアマチュアーゴルファーで、ゴルフの神様と呼ばれる存在だ。彼は1930年の同一暦年にグランドスラムを達成した。当時のグランドスラムは今と違って、アメリカのUSオープンとUSアマチュアー及び全英オープンと英アマチュアーの4大タイトルを指していた。彼はアマチュアーでありながら、プロがしのぎを削るUSオープンと全英オープンにも優勝した訳で、これは前人未踏の偉業だった。因みに、USオープンには1923年、1926年、1929年と1930年の4回、全英オープンには1926年、1927年と1930年の3回、USアマチュアーには1924年、1925年、1927年、1928年と1930年の5回、そして英アマチュアーには1930年に優勝した。グランドスラムを達成した1930年、若干29才の若さで一旦ゴルフをリタイヤーし、Augusta National Golf Clubの設計に協力し、マスターズ・トーナメント の創立に関わった。1934年にゴルフに復帰し、マスターズのエキシビシヨンに出ている。この伝説的ゴルファーは1971年69才で亡くなった。



次に目に入ったのが、Trevino Circleだ。サークルというのは、道の行き止まりの所がサークル状になっているという意味だ。リー・トレビーノは、私がニューヨークに駐在していた1967年にPGAツアーに参加し、当時の第一人者であったジャック・ニクラスと数々の名勝負をやっていたので今もよく覚えている。1939年テキサス州ダラスで生まれたリー・トレビーノはメキシコ系の血を引いているので「陽気なメキシカン」の愛称で親しまれ、ツアー2年目の1968年には早くもUSオープンに優勝している。この時はジャック・ニクラスを破っての勝利だった。生涯のPGA優勝回数は29回で、うち6回がメジャーだったが、そのうち4回はジャック・ニクラスが2位だった。ニクラスにとっては正に天敵のような存在だった。リー・トレビーノの全盛期は1970年代の初めで、1971年と1972年の2年間で10勝を挙げている。日本でも時々プレーしていたが、1981年にはカシオ・ワールド・オープンで優勝しているので、日本人にもファンが多いのではないだろうか。



更に進むと右側にレジェンドという住宅地への入り口があり、そこに入る道路がCrenshaw LNと名付けられていた。ベン・クレンショウは1952年テキサス州のオースチンに生まれ、アマチュアー時代にテキサス大在学中の3年連続NCAAチャンピオンを始め12勝している。1973年にプロに転向してPGAツアーに参加したが、その年に優勝している。これはPGAツアー史上2人目の快挙だった。メジャーへの挑戦は5回2位に甘んじていたが、1984年にマスターズに勝った。1980年代半ばから甲状腺の病気に苦しんだが、1995年に2度目のマスターズを制し、観客に感動を与えた。ベン・クレンショウはパットの名手として知られ、1995年のマスターズでは他のプレーヤーが早いグリーンに悩まされてスコアーを崩すなか4日間スリーパットは一度もなかった。しかし、プレーオフには弱く、1979年のPGAで敗れたのを初め、8戦全敗の記録が残っている。1999年にはライダーカップのキャップテンを務め、最終日に4点差を逆転してアメリカチームを勝利に導いた手腕は高く評価された。プロとしてのこれまで勝ち星はPGAツアーの19勝を含め30勝を挙げている。

こんな偉大なゴルファー達の、昔テレビで観た感動的な場面を思い出しながら散歩を続けると、間もなくクラブハウスに着く。駐車場を横切って坂道を上るとゴルフ場の北側にある住宅地に入り、そこを抜けると家はすぐ近くだ。約一時間の散歩を終わって家に帰ると、犬に水とドッグフッドをやり、直ぐにシャワーを浴びてビールを飲むのが無上の楽しみだった。

ブレトンウッズ会議の舞台となったリゾートホテル

2012-02-05 17:33:33 | 日記
お恥ずかしい話だが、商社マンとして10年近くもアメリカで仕事をしてきたのに、ブレトンウッズ協定がニューハンプシャー州のブレトンウッズという小さな町で締結されたことは最近まで知らなかった。ブレトンウッズ体制という言葉がテレビや新聞に度々出るようになった5,6年前、何かの本でこの重要な会議がブレトンウッズにあるマウント・ワシントン・ホテルで開かれたことを初めて知った。その後、1905年にポーツマスで結ばれた日露平和条約について調べていたら、当初このホテルも講和会議の会場候補に挙がっていた。結局は、安全確保に難があるとの理由で選ばれなかったが、100年以上続いている古いホテルであることも分かった。



ブレトンウッズ協定についてあらためてお浚いしていると、二つの発見があった。一つは、その成立までの経緯だ。日本の真珠湾攻撃から一週間後の1941年12月14日、当時のモーゲンソー財務長官は早くも戦後の国際通貨体制の計画立案に着手した。日本全体が真珠湾の戦果で大喜びをしていた時、アメリカは早くも戦争終了後のことを考えていたのだ。そして、戦争がまだ終わっていない1944年7月、連合国44カ国がブレトンウッズに集まり、戦後の通貨制度を取り決めると同時に戦争で疲弊した世界経済復興のために世界銀行とIMFを創設した。この頃になると、日本の敗色は濃厚になっていたが、我々が知らない間にこんなことまで決められていた。

二つ目は、イギリスでもドイツと戦争中の1941年夏から、経済学者のケインズが戦後の新しい通貨制度を模索していたことだ。会議でケインズは「バンコール」と呼ばれる国際通貨の創設を提案したが、圧倒的な経済力をもつアメリカに押し切られ採用されなかった。ケインズがその当時、ドルを基軸通貨とすることの危うさを何処まで予測していたのかは分からないが、今の状況を見ると先見の明があったと思わざるを得ない。大学でケインズ経済学を勉強したつもりだったが、こんなエピソードがあるとは知らなかった。

そこまで分かってくると、ブレトンウッズには是非行ってみたいと思うようになった。昨年(2011年)の夏、向こうでゴルフをやろうと息子を説得して、家族全員でこのホテルに泊まることにした。ボストンから車でI-93を北へ向かうと間もなくニューハンプシャー州に入るが、2時間程走ると州随一の景勝地ホワイトマウンテン・ナショナルフォレストに着く。高速を降りて3号線を東へ20キロ程行くとブレトンウッズという小さな町があり、間もなく緑の山を背景に赤い屋根の白い大きな建物が現れた。これが、ブレトンウッズ協定の舞台となったマウント・ワシントン・ホテルだった。


(ステックニー夫妻の肖像画)

このホテルの創立者は地元出身のジョセフ・ステックニーで、彼はニューヨークで石炭と鉄道事業に投資して巨万の富を築き、ホテルの建設にはお金を惜しまなかったといわれる。最新のデザインと最先端の建築技法を取り入れ、構造材には当時まだ珍しかった鉄骨を使用した。ホテルの建設にはイタリアから250名の職人を招き、1900年に着工し2年後に竣工した。



当時最も贅沢なこのホテルには、ボストン、ニューヨークやフィラデルフィアのお金持ちが続々とやってきたが、ブレトンウッズにあった3つの駅には、一日に50本もの列車が到着したこともあった。多くの有名人が泊まっているが、その中にはトーマス・エジソン、ベーブ・ルースや3人の大統領の名前もあった。

ブレトンウッズが世界的に有名になったのは、このホテルで国際通貨会議が開かれたからだ。会議は7月1日から3週間続いたが、付近の宿泊施設からもベッドが持ち込まれ、ホテルには定員をはるかに超える約1,000人が泊まったといわれている。ホテルの一階には会議が行われた部屋があり、現在は結婚式の宴会やコンベンシヨンなどに使われている。また主要国により協定書が調印されたゴールドルームも当時そのままの姿で保存されている。部屋にはケインズの写真も飾ってあった。



ホテルの周りには、1895年にオープンした9ホールのコースとドナルド・ロスが設計した18ホールのゴルフ場がある。後者は1915年に完成したが、ゴルフ・ウィーク誌によりニューハンプシャー州のベストコースに選ばれている。ホテルに着いた日の夕方、息子は一人で9ホールのコースを廻ったが、翌日は約束通り二人でホテルの外観を眺めながら18ホールのコースを楽しんだ。確認できなかったが、ロッカールームにはベーブ・ルースのロッカーが今も残されているとのことだった。



帰る日の午前中、ホテルの歴史を紹介してくれるツアーに参加した。30人ほど集まってスタートしたが、ゴールドルームに入った時は4,5人しか残っていなかった。最後まで残った人たちは、ブレトンウッズ会議にかなり興味をもっているらしく、ガイドに色々質問していた。ブレトンウッズ体制の根幹であった金本位制と固定相場制は1970年代の初めに崩壊している。当時創設されたIMFは批判を浴びながらもアジア通貨危機を救い、今度は欧州債務危機に大きな役割を果たそうとしているが、このままドル安が続けばその機能が発揮できない怖れもある。

ホテルの所有者は創業者が亡くなってから度々代わったが、1999年からは冬季にも営業できるようになった。2009年の秋からはオムニグループに加入し、現在は世界中の観光客で年中賑わっている。紅葉シーズンの景色は素晴らしいと言われているので、もし機会があれば次回は秋に行ってみたいと思っているが、その頃、基軸通貨としてのドルとIMFはどうなっているのだろうか!