昨年、これまで大事に取って置いたゴルフカップを、ほんの2,3個を残して思い切って処分した。社友会から傘寿のお祝いを頂いた時、いよいよ身辺整理をしなければと思い、最初に手をつけたのが屋根裏の物置を占領していた20個余りのカップだった。ニューヨーク駐在から帰国する時10個ほどのカップを近所の子供たちにあげてきたが、その後国内勤務中に取ったものとロンドンから持ち帰ったカップがもう何年も埃をかぶって眠っていた。ゴルフコンペに参加しなくなって久しいが、この機会にゴルフ人生を振り返ってみたい。
正直なところ、自分がゴルフを上手いと思ったことはない。どんなに練習してもドライバーの飛距離が伸びなかった。これをアプローチとパットで補い何とかスコアを作ったが、オフィシャルハンデは最盛期でもシングルに届かなかった。それでも、これだけカップが取れたのは、練習と実力に見合ったコース攻略法を考えてプレーしたからだと思う。
ゴルフとの出会いは早かった。大学に入って東京で下宿生活を始めて間もなく、受験勉強の疲れがでたのか胸一面にヘルペスができた。医者に通って治りかけてきたある日のこと、医者からゴルフのような軽い運動が良いと勧められた。すねかじりの学生の分際で、ゴルフなど出来るわけがないと聞き流したが、その言葉が何時までも心の片隅に残っていた。
伊藤忠に入社して三鷹寮に入ると、休日には多摩川の打ちっぱなし練習場に行く人がいたので、ドライバー一本持って付いて行った。当時東京支社の屋上にゴルフの練習場があり、仕事が早く終わった時は屋上に上がってボールを打った。入社3年目でニューカレドニアのヌメア駐在を命じられた時、現地にゴルフ場がないことは分かっていたが、赴任途中の香港でゴルフセットを買って持って行った。空港で出迎えてくれた人に、ここではゴルフは出来ないと笑われたが、ヌメア北側の海岸が干潮になると数百メートルの砂浜が現れるので、時々ショートアイアンの練習をした。
帰国して間もなく大阪転勤になったが、取引先にゴルフが盛んなところがあって、時々社内コンペに誘われた。コンペに参加するからには恥を掻きたくなかったので、週末には淀川の河川敷練習場に通った。その後東京に戻ったが、当時義父がゴルフをやっており時々誘ってくれたお陰で、漸くコースに出てプレーする機会が増えた。仕事の関係で業界や船会社のコンペにも参加するようになったが、当時はなかなか100を切れなかった。ゴルフを本格的にやり出したのは、ニューヨークに駐在してからだった。
ニューヨークの冬は気温が低く雪も多いので、約半年はプレーができない。そのため、冬は開いている練習場に通い、シーズンになると週末は少々雨が降っても熱心にゴルフをやった。家内が空港に着いた時、最初に渡したのは週末ゴルフのスケジュールだった。初めて90を切ったのは、日本人がよくプレーするコマック・ヒルズだった。アウトが40だったので80台は楽勝と思っていたところ、インで49をたたきかろうじて89となったことは今でもはっきり覚えている。当時のニューヨーク店には大西、網野という二人の名プレーヤーが駐在されており、お二人の指導を受けることができたのは幸いだった。ニューヨークには7年余り駐在したが、その間日本クラブで優勝したのをはじめ、社内大会、非鉄業界、日鉱会などでそれぞれ複数回カップを手にした。
1970年に帰国して5年余りは非鉄原料の仕事に携わったが、ニューヨークでの実績が自信になったのかゴルフは好調だった。取引先が主催するコンペには出来るだけ参加し、少なくとも一度は優勝した。住鉱のヌメア会は年に2回コンペがあったが、2連勝を飾って本カップを貰ったことがあった。大阪に1年間勤務したときも、社内大会や取引先のコンペでカップを取った。
1981年から約4年間ロンドンに駐在したが、この時期がゴルフ人生のピークだった。日本人会が主催した当時の科学技術庁長官、岩動道行杯の取り切り戦で、各界の代表者を抑えてカップを手にした時の感激は今でも忘れられない。アウトはパープレーの36、インは40でグロス76、キャロウェーによるハンデが5と決まって、ネットはワンアンダーの71だった。76は生涯のベストスグロスだった。この時のカップだけは今も記念に残してある。もう一つ忘れられないのは、所属していたクラブで抽選により選ばれたパートナーと組んで争う「カルカッタ・カップ」戦で優勝したことだ。イギリスではこの方式が盛んで、大抵のプライベートクラブで年に1回行なわれるメーンイベントだ。競技は土日の2日間にわたり36ホールをプレーし、2人のネットスコアの合計で決まる。この時は調子が良く、2日とも80ちょっとで廻ったと記憶するが、ハンデとパートナーにも助けられて優勝することが出来た。カップは出なかったが、賞品としてカラーテレビやパターなどを貰った他に、優勝チームを予想する賭けにも当たって予想外の配当金を受け取った。
ロンドンから帰国して間もなく伊藤忠を退社し、第二の職場で定年まで勤めたが、未だ還暦前だったのにゴルフは下り坂に入った。持病の腰痛が段々ひどくなってきたので、コースに出る機会も少なくなった。1993年ジャカルタで働いていた時、伊藤忠OBとして参加した伊藤忠ジャカルタ店の社内大会で優勝したことがあるが、これがゴルフ人生最後の栄冠となった。この時のカップも今はもうない。
ゴルフとの関わりを振り返ってみると、伊藤忠に入社して暫く経った頃、社会に出た以上は何か一つでも他人に負けないものを身につけねばと考えたことがあった。ゴルフはそんな思いで始めた訳ではなかったが、いつの間にかその面白さにはまり熱中するようになった。少しずつ上達するにつれて、学生時代に受けた医者のアドバイスを思い出し、ゴルフは自分に一番合ったスポーツではないかと確信するようになった。ゴルフをやって良かったことは、第一に健康管理ができたことだ。ゴルフがあるときは飲み過ぎないように努めベストな体調で臨めるようにした。第二に、特に海外では練習すればするほど結果がついてくる喜びと達成感を味わうことができた。そんなゴフルが出来なくなったのは寂しい限りだが、この年まで元気で過ごせたのはゴルフのお陰ではないかと思う。
年はとっても歩ける間はゴルフが出来る。愛用したクラブは未だアメリカに置いてあるので、現地に行く機会があれば健康維持のためにスコアを気にしない気儘なゴルフを楽しみたいと思っている。