ボストンの西方にレキシントンという人口3万人程の小さな町がある。独立戦争発端の地として有名なところだ。現在は緑に囲まれた閑静な住宅地で、ボストンにも比較的近く、教育水準も高いので、日本人駐在員には居住地として人気の場所だ。公共交通機関でのアクセスは多少不便だが、車ならボストンの中心部まで1時間と掛からない。昨年(2010年)の夏、土曜日の午前中は孫がメッドフォードの日本語学校に通っているので、朝一緒に出かけ授業が終わるまでの時間を利用してレキシントンに出かけた。
高速を降りて暫く走るとレキシントンの町に入ったが、どこか他の町と違うことに気がついた。それは店に看板が一切出てないことだ。アメリカでは何処の町でもファミレスやハンバーグ屋の大きな看板が目につくが、ここでは何処にも見当たらない。それではファミレスがないかと言えばよく見ると店はある。ただ遠くから分からないだけだ。日中なので気がつかなかったが、ネオンサインも条例で禁止されているという。静かに暮らしたいと思う住人の心に配慮した数少ない町だ。
レキシントン観光案内所の近くに駐車すると、そこがミニットマン国立歴史公園の中心だった。観光案内所に入ると、レキシントンの戦いの模型が展示されていた。ミニットマンとは民間人の兵士のことで、普段は農業などに従事しているが、いざという時には数分間で銃を手に集まり軍隊を組織したのでこう呼ばれたらしい。1775年4月19日の早朝、僅か77名のミニットマン兵士が700名のイギリス軍隊を迎え撃った。

ここに至るまでの経過を辿ってみよう。7年間に及ぶ仏・インデアン戦争で多額の債務を抱えたイギリス政府は、財政難解消のため植民地に対し1760年代から課税を強化し始めた。このため植民者の間に徐々に不満が広がり、ボストンでは抗議行動、ボイコット、破壊行為などが起こった。紅茶に対する課税に怒った植民者は1773年12月、ボストン港に停泊中のイギリス船から茶箱を海に投棄した。これが「ボストン茶会事件」と呼ばれるものだ。この事件を受けてイギリス議会は混乱を鎮めるため、ボストン港を閉鎖し、数千名の軍隊を植民地に派遣した。イギリス軍との衝突は避けられない状況になったので、植民者は軍隊を組織し、コンコードに武器・弾薬を貯蔵した。この情報を入手したイギリス軍は、これを破壊すると同時にレキシントンに滞在していた反乱の首謀者と目されたサム・アダムスとジョン・ハンコックを逮捕すべく、4月18日夜ボストンコモンに集結した。
この動きをオールドノース教会の塔の上に灯されたランタンで知ったポール・リビアは、二人のリーダーとミニットマンにいち早く知らせるべく、レキシントンに向けて深夜馬を走らせた。これが有名な「真夜中の疾駆」(Paul Revere’s Ride)だ。アメリカの国民的詩人であるヘンリー・ロングフェローの詩に謳われており、アメリカの小学生が最初に習う歴史物語だ。植民地軍の本部があったのは戦場となったバトルグリーンの近くにあるバックマンタバーンと呼ばれる居酒屋で、77名のミニットマンが集まり、4月19日の夜明け前バトルグリーンに出てイギリス軍を待ち受けた。
写真 バトルグリーン
写真 居酒屋バックマンタバーン

写真 ガイドに話を聞く
バトルグリーンの入り口に当時のミニットマンの服装をした若い男性のガイドがいたので、当時の模様を話してもらった。午前5時、パーカー隊長が率いるミニットマンたちは約10倍の数のイギリス軍を目撃した。劣勢を悟った隊長が撤退を命じたときは、ミニットマンたちは既にイギリス軍に向かって行った後だった。よく訓練されたミニットマンたちは善戦し、最終的には死者8名、負傷者10名に留まった。負傷者は直ちにバックマンタバーンに運ばれ手当てを受けたといわれる。バトルグリーンの角には銃を手にした農民兵士ミニットマンの像が立っていた。また像と道路を挟んで反対側にはレボリューショナリー・モニュメントがあり、ここに犠牲となったミニットマンが眠っているといわれる。

ミニットマンの像(左) レボリューシヨナリー・モニュメント(右)
レキシントンの戦いで再編成を余儀なくされたイギリス軍は、このあと約100名がコンコードに進軍したが、ここでもミニットマンの勇敢な抵抗に遭った。オールド・ノース・ブリッジの戦いで多くの死傷者を出し、コンコードではさしたる戦果を挙げることなく、一日でボストンへ退却することになった。かくしてレキシントン・コンコードの戦いは植民地軍の勝利に終わった。その後バンカーヒルの戦いを経て、イギリス軍は翌年ボストンから撤退したが、レキシントンはアメリカ独立戦争で最初に銃撃戦が行なわれた場所として歴史に深く刻まれることになった。
高速を降りて暫く走るとレキシントンの町に入ったが、どこか他の町と違うことに気がついた。それは店に看板が一切出てないことだ。アメリカでは何処の町でもファミレスやハンバーグ屋の大きな看板が目につくが、ここでは何処にも見当たらない。それではファミレスがないかと言えばよく見ると店はある。ただ遠くから分からないだけだ。日中なので気がつかなかったが、ネオンサインも条例で禁止されているという。静かに暮らしたいと思う住人の心に配慮した数少ない町だ。
レキシントン観光案内所の近くに駐車すると、そこがミニットマン国立歴史公園の中心だった。観光案内所に入ると、レキシントンの戦いの模型が展示されていた。ミニットマンとは民間人の兵士のことで、普段は農業などに従事しているが、いざという時には数分間で銃を手に集まり軍隊を組織したのでこう呼ばれたらしい。1775年4月19日の早朝、僅か77名のミニットマン兵士が700名のイギリス軍隊を迎え撃った。

ここに至るまでの経過を辿ってみよう。7年間に及ぶ仏・インデアン戦争で多額の債務を抱えたイギリス政府は、財政難解消のため植民地に対し1760年代から課税を強化し始めた。このため植民者の間に徐々に不満が広がり、ボストンでは抗議行動、ボイコット、破壊行為などが起こった。紅茶に対する課税に怒った植民者は1773年12月、ボストン港に停泊中のイギリス船から茶箱を海に投棄した。これが「ボストン茶会事件」と呼ばれるものだ。この事件を受けてイギリス議会は混乱を鎮めるため、ボストン港を閉鎖し、数千名の軍隊を植民地に派遣した。イギリス軍との衝突は避けられない状況になったので、植民者は軍隊を組織し、コンコードに武器・弾薬を貯蔵した。この情報を入手したイギリス軍は、これを破壊すると同時にレキシントンに滞在していた反乱の首謀者と目されたサム・アダムスとジョン・ハンコックを逮捕すべく、4月18日夜ボストンコモンに集結した。
この動きをオールドノース教会の塔の上に灯されたランタンで知ったポール・リビアは、二人のリーダーとミニットマンにいち早く知らせるべく、レキシントンに向けて深夜馬を走らせた。これが有名な「真夜中の疾駆」(Paul Revere’s Ride)だ。アメリカの国民的詩人であるヘンリー・ロングフェローの詩に謳われており、アメリカの小学生が最初に習う歴史物語だ。植民地軍の本部があったのは戦場となったバトルグリーンの近くにあるバックマンタバーンと呼ばれる居酒屋で、77名のミニットマンが集まり、4月19日の夜明け前バトルグリーンに出てイギリス軍を待ち受けた。


写真 バトルグリーン


写真 居酒屋バックマンタバーン

写真 ガイドに話を聞く
バトルグリーンの入り口に当時のミニットマンの服装をした若い男性のガイドがいたので、当時の模様を話してもらった。午前5時、パーカー隊長が率いるミニットマンたちは約10倍の数のイギリス軍を目撃した。劣勢を悟った隊長が撤退を命じたときは、ミニットマンたちは既にイギリス軍に向かって行った後だった。よく訓練されたミニットマンたちは善戦し、最終的には死者8名、負傷者10名に留まった。負傷者は直ちにバックマンタバーンに運ばれ手当てを受けたといわれる。バトルグリーンの角には銃を手にした農民兵士ミニットマンの像が立っていた。また像と道路を挟んで反対側にはレボリューショナリー・モニュメントがあり、ここに犠牲となったミニットマンが眠っているといわれる。


ミニットマンの像(左) レボリューシヨナリー・モニュメント(右)
レキシントンの戦いで再編成を余儀なくされたイギリス軍は、このあと約100名がコンコードに進軍したが、ここでもミニットマンの勇敢な抵抗に遭った。オールド・ノース・ブリッジの戦いで多くの死傷者を出し、コンコードではさしたる戦果を挙げることなく、一日でボストンへ退却することになった。かくしてレキシントン・コンコードの戦いは植民地軍の勝利に終わった。その後バンカーヒルの戦いを経て、イギリス軍は翌年ボストンから撤退したが、レキシントンはアメリカ独立戦争で最初に銃撃戦が行なわれた場所として歴史に深く刻まれることになった。