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海外での思い出 佐藤仁平

伊藤忠での海外駐在時代、退職後の海外旅行中に体験したことを中心に、ハプニングやエピソードを交えて紹介します。

2010年07月 佐藤仁平 アメリカの医療現場を体験

2010-07-07 20:51:22 | 日記
アメリカの医療水準は世界でもトップクラスにあることは間違いないが、国民全体の福祉に係る医療保険制度は、先進国の中で一番後れていると言われる。オバマ大統領は医療制度改革を内政の最重要課題に掲げてきたが、1年余りの議論を経てこの度やっと実現することになった。歴代の大統領がなしえなかった国民皆保険をほぼ実現した功績は大きいが、わずか7票差の多数決だった。

医療保険改革について演説するオバマ大統領

オバマ大統領が目指した医療制度改革は、我々日本人からみると至極もっともな政策のようにみえるが、現在の制度に満足している人も多数居るのがアメリカ社会の複雑なところだ。特に共和党の支持者に多いので、党派間の対立を激化させることになった。共和党は改革案が将来増税につながると主張し、政府の関与は最小限に留めるべきだとして反対していた。

これまで、アメリカの医療保険制度は日本のように国民皆保険ではなく、公的保険は高齢者向けのメディケアと低所得者向けのメディケイドがあるだけで、大半は民間保険に頼ってきた。アメリカでは医療過誤訴訟を避けるため過剰医療になる傾向があり、国民一人当たりの医療費はOECD加盟国では最高で、日本の2.7倍(2005年)といわれている。それに伴い、保険料も高額になりがちで、無保険者は4,600万人もいて社会問題化していた。

今回の医療保険改革は、民間保険会社に既往症などを理由に保険加入を拒むことを禁止したり、低所得者などの医療保険購入を補助したりすることにより、保険加入率は現在の83%から94%まで引き上げることが可能とされている。一方で、個人に医療保険加入を義務付け、特定の理由が無いのに保険に加入しない人には罰金が科せられることになった。

昨年の夏、ボストン郊外に滞在していた時、家内が階段を踏み外して怪我をするというアクシデントがあり、期せずしてアメリカの医療現場を体験することになった。海外旅行保険に入っていたが、アメリカ国内では無保険者扱いで、医療費の全額を一旦は払う必要があり、無保険者が医者を受診した場合どんな負担になるかを経験することが出来た。

足首を固定するブーツ           暫くは車椅子で移動した
家内は足首と腰に激しい痛みを感じて暫く動けなかったので、救急車を呼んで近くの病院に運ばれた。日本では無料の筈だが、$707請求された。その日は日曜日で、病院には内科の当直医しか居なかったが、レントゲンで見たところ足首の骨が一部折れていた。腰の方は単なる打撲で骨には異常が無かった。病院からの請求は$635で、他にレントゲン代として$68を請求された。当直医より出来るだけ早く整形外科の専門医を受診するようアドバイスがあり、近くの専門医に滞在中3回通った医療費は合計$540だった。専門医からリハビリするよう勧められ、リハビリ専門の医院に帰国まで4回通ったが、初回は$105で他は1回あたり$95だった。その他、足首を固定するブーツ代や鎮痛剤など全部で約$3,000掛かった。ちょっとした怪我で、もし保険に入っていなければ、これだけの費用が掛かるのは大変な負担だと思った。

整形外科医院がある建物 医院の入り口にあるドクターのリスト

しかし、医療サービスの面では日本よりかなり進んでいることは認めざるを得ない。アンビュランスで運ばれた病院には専門医は居なかったが、数時間後に退院する時は、レントゲン画像による怪我の状況や退院後の注意事項など2ページもの診断書を渡された。後で専門医に見せたところ、極めて的確な診断であったという。次にリハビリだが、日本では通常整形外科に併設されており、症状にもよるが診察後1回10分程度のマッサージなどで済ますのが一般的だ。ところが、ここではリハビリは整形外科と別に独立しており、初回は約1時間掛けて触診による症状の確認、マッサージのプラン、歩き方、家での処置や運動、寝る時の対応など詳細に渡って説明してくれた。2回目以降も30-40分掛けて入念なマッサージと回復の具合などの説明があり、日本との違いを痛感した。仮に保険に加入して1割負担だとすると1回あたり約800円になるが、果たして日本でこれだけのサービスが受けられるかどうか疑問だ。

以上のように、アメリカの医療費は無保険者にとってはかなり負担が重く、少々の病気では医者にも掛かれないのが実情だが、一方で医療サービスの面では日本より優れている所もあることを体験した。今回の事故による医療費は海外旅行保険に入っていたお陰で、帰国後全額保険で求償できたが、アメリカの無保険者が同じような怪我をした場合のことを思うと、これまでの医療保険制度がアメリカ国民の福祉面で如何に後れていたかを実感させられた。2010年3月23日、オバマ大統領が署名して医療保険改革法案が成立したが、これにより一人でも多くのアメリカ国民が医療保険に加入し、安心して医療を受けられようになることを切に望みたい。

私の囲碁ライフと千里会

2010-06-04 16:06:45 | 日記
振り返ってみると、私が囲碁の魅力に取りつかれたのは大阪の千里寮にいた時だった。1979年10月大阪転勤になり千里寮に入ったが、この寮では囲碁が盛んだった。会社から帰って夕食を済ませると、必ず囲碁を楽しんでいる人たちがいた。後に東京で生まれた千里会はこの時期に寮にいた仲間が集まってやっている碁会だ。

この時まで囲碁を始める機会は何度かあった。生まれて初めて囲碁の存在を知ったのは大学に入った時で、下宿した家の主人が日曜日になると隣人と何やら楽しそうに石を打ち合っていた。この時教えを乞うていれば今頃は高段者になっていたかも知れないが、当時その気は起こらなかった。その後変わった下宿で大学の友人に手ほどきを受け、入門書と折りたたみ式碁盤を買って石を並べ始めたが、間もなく就職活動で忙しくなり止めてしまった。伊藤忠に入社して最初の10数年は全く囲碁に接する機会がなかったが、ニューヨーク駐在から帰国して東京に勤務しているとき、時々地下の和室で打って貰ったことがあった。しかし、仕事が忙しい時代だったのでなかなか囲碁に集中できなかった。

そんな状態で千里寮に入ったが、夕食後は何もすることはないし、もともと興味はあったので皆がやっているのを眺めるようになった。見ているとレベルが高く、とても仲間に入れそうもないと思っていたが、手の空いた人に星目でやろうと誘われ初めて対局してみた。結果は手も足も出ない有様で、その後は何度やっても同じだった。そのうち、幸いにも同じぐらいの初心者が現れ互い戦でやってみたら、周りの応援団にも助けられて最後まで打つことが出来た。勝ったり負けたりだったが、勝った時のうれしさは格別で、もっと強くなりたいと思うようになり、暇なときは定石の本を読んだりプロの棋譜を並べてみるようになった。(右写真 筆者)

東京に戻って暫くすると、千里寮にいた仲間が続々と東京に帰任してきた。誰が言い出すともなく、自然に東京でも碁をやろうということになり、1981年5月第一回の碁会が開かれた。この時は6人が参加し、3級で出た私は2勝3敗で先ずまずの成績だった。この会はこの時以来、年に数回行われるようになり、千里会として今日まで続いている。

しかし、その後の10数年は正に「失われた10年」で大きなブランクが出来てしまった。1981年10月ロンドン支店に転勤になった時は碁盤を新しく買い求め、ロンドンで強くなって帰ってこようと勇んで出かけたものだった。しかし、残念ながら周囲に囲碁をやる人がいなかったのと週末はゴルフに熱中したため、囲碁のことは徐々に忘れていった。そんな時、東京から今は故人となられた千里会の辻川さんと神谷さんが遊びに来られ、食事をしながら千里会のその後の状況などをお聞きした。しかし、囲碁に対する興味は既に薄れており、結局ロンドンでは一度も碁盤に向かうことはなかった。帰国後は出向、退職そして再就職と人生の大きな転機を迎えて気苦労が多く、とても囲碁をやる精神的余裕はなかった。

漸く碁盤に向かい出したのは、第二の職場で定年を迎えることに決まった1992年になってからだった。定年後の楽しみとボケ防止には囲碁が最適だと思うようになり、その年の8月久し振りに千里会に顔を出した。この時の成績は最下位で少なからずショックを受け、その悔しさが本腰を入れて囲碁に向かうきっかけになった。

先ず日本囲碁連盟がやっている囲碁講座に入会し、毎週一回指導を受けた。月刊誌の「囲碁研究」を購読し始めたのもこの時期で、更に石倉先生や武宮先生のビデオを買い求め、暇さえあれば見ることにした。千里会は自分の棋力を試すよい機会なので、その後は毎回出るようにしたが、少しずつ効果が現れてきた。1994年に初めて優勝し、1996年3月と9月には準優勝、1999年12月と2000年12月には優勝することが出来た。その後は点数が上がったので、なかなか良い成績を残すことはできなくなったが、現在は高段者には3子で打って頂くことにし(めったに勝たせて貰えないが)、他の有段者には互先でほぼ対等に打てるようになった。ここまで上達できたのは偏に千里会のお陰で、千里寮以来永年に亙って対局頂いた会員の皆様に感謝している。

2004年に幹事を務めさせて頂くことになった時、千里会のために何かご恩返しをしたいと思った。参加者が多い程楽しい会になるので、昔千里寮におられた方で今でも囲碁をやっている人を探し出し、新しく4人の方に会員になって頂いた。次に、元気なうちにより頻繁に会う機会を持とうという趣旨で、これまで年に数回の会を改め、毎月第四金曜日に社友室に集まることを決めた。更に、会員からの要望に応えて第二金曜日も開くことになり、会員以外でも参加自由とした。千里会は形こそ少し変わったが、来年5月で30周年を迎える。千里会の会員だけでなく社友会の囲碁愛好者も囲碁を楽しむ会として何時までも続いて欲しいと願っている。

(社友室での囲碁風景)
 

ボストン紀行(最終回)

2010-04-01 22:54:57 | 日記
12.アンドーヴァーに初めて住んだ日本人

マサチューセッツ州の東北部にあるアンドーヴァー(地図リンク)は、1646年にイギリスからの入植者が先住民から6ポンドとコート一着で買い取った土地の一部が独立してできた町で、360年以上の古い歴史がある。ボストンの北約40kmに位置するこの町は現在人口3万人強で、ボストン市内へは車で約40分、コミューターレイルに乗ればノースステーションまで約50分と便利な場所にある。そのせいか、朝夕はボストンに働きに行く人で道路もコミューターレイルも混雑する。
数年前に子供家族が仕事の関係でこの町に移り住むようになって以来、夏の2カ月程は子供の家で一緒に暮らしてきた。その間、ボストン市内や郊外を気儘に訪ね回り、その旅行記を連載してきたが、これまでアンドーヴァーのことはあまり触れてこなかった。そこで最終回は、アンドーヴァーについて強く印象に残ったことを取り上げたい。

ある日、アンドーヴァーの歴史について知りたいと思い、町の中心部にある図書館に行ってみた。郷土史の本を読んでいると、この町に初めて住んだ日本人として新島襄(1843年―1890年)のことが書いてあった。明治の偉大な教育者の1人で同志社大学の前身である同志社英学校の創立者が、青年時代の一時期をこんなに身近な所で過ごしていたという事実は自分にとって大きな発見で、それ以来暇があれば新島先生の足跡を訪ね歩いた。
安中藩江戸屋敷で藩士の子として生まれた新島襄は21歳の時、国禁を犯してアメリカへの密航を企てた。1864年に箱館(今の函館)から米船ベルリン号で出国し、上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、翌年7月にボストンに着いた。ボストンの実業家でワイルド・ローヴァー号の船主でもあったA.ハーディー夫妻は、新島が英語で書いた「脱国の理由書」を読んで感激し、事実上の養子として世話することに決め、自分が理事をしているフィリップス・アカデミーに入学させた。新島は以後ジョセフ・ハーディー・ニイシマ(Joseph Hardy Neesima)と名乗った。

         
フィリップスアカデミーの案内板          図書館前のアーミラリー天体儀


コクラン礼拝堂

フィリップス・アカデミーは、独立直後の1778年にS.フィリップス、Jr.によって創設された全寮制の私立中等教育機関で、今でも全米にその名が知られる名門校だ。ブッシュ元大統領親子の母校でもある。A・ハーディーは新島の英語力が不足していたため寮には入れず、叔母や弟と住む独身女性メアリー・E・ヒドゥンの私宅に彼を預けた。メアリーも「脱国の理由書」に感動して新島を受け入れ、2カ月後ハーディーに次のように報告している。「ジョセフは紳士であることが分かりました。我が家に連れて来られたこの異教徒ほどにはキリスト教社会の私たちが進歩していないのは恥ずかしい限りです。(中略)彼は自分の受けた好意に対しては心から感謝し、お返しに何かをしようとします。(後略)」新島はこの家に2年近く住んだが、25歳年上のメアリーを実の母のように慕ったと言われる。
新島がホームステーした家は、今もヒドゥン・ロード17番地にある。外で写真を撮っていると、中から中年のご婦人が出てきて中に入れという。この家は、メアリー・ヒドゥンに子供が無かったため、亡くなってからは暫く親戚の人間が暫く住んだ後第三者の手に渡っていた。今のオーナーは25年程前に買ったが、新島のことは良く知っていて誇りに思っているので、もっと日本人が訪ねて来てほしいと言っていた。内部は改装されていたが、幅広い床板を使った台所とか上下に分かれている玄関のドアなど随所に新島が住んでいた当時を偲ばせるものが残っていた。新島が使っていた部屋は、もう何年も掃除してないので、今はお見せできないとのことだった。

       
新島がホームステーした家          玄関前の現オーナー
    
1867年にフィリップス・アカデミーを卒業すると、新島はアマースト大学に進みアジア人初の学生となった。大学にはクラーク博士が教鞭をとっており、この時の縁で後に新島の推薦により札幌農学校に招聘されることになった。3年後アマースト大学を卒業すると再びアンドーヴァーに戻り、フィリップス・アカデミーに隣接して建てられたアンドーヴァー神学校(1808年設立)に入学して牧師になった。この神学校は20世紀初頭にケンブリッジに移され今は無いが、建物だけは残っている。
新島は、1871年に初代駐米公使の森有礼の配慮で留学免許証とパスポートを入手し、密出国者から晴れて正規の留学生となった。翌年、岩倉使節団がアメリカを訪問した時、新島は留学生として協力を求められ、田中不二麿(文部理事官)の秘書・通訳として米欧を視察した。ヨーロッパから戻ると、アンドーヴァー神学校に復帰し、1874年に卒業、同年11月日本に帰国した。帰国後、使節団の副使だった伊藤博文や木戸孝允が新島の学校設立運動に好意的であったのは、新島がアメリカで使節団に参加し両氏に面識があったことが影響したものと思われる。
        
「良心碑」と筆者           英語の説明板
    
フィリップス・アカデミーのキャンパス内に「良心碑」が建っているというので、学校の教務課に行って何処にあるか尋ねたら、事務の女学生が案内してくれた。この碑は同志社大学の構内にあるのと同じもので、1993年に新島襄の生誕150周年を記念して同志社大学から寄付された。碑には「良心を全身に充満したる丈夫の起こり来たらんことを」とあり、足元の金属板には英語で “Come, all exuberant youth who cherish living by your conscience” と刻まれてあった。
アンドーヴァーにはこの他にも色々と興味深い話があるが、本題から外れるのでここでは触れないでおく。いずれ機会があればご紹介したいと思う。

以上で「ボストン」紀行は終わります。長い間お付き合い下さり、ありがとうございました。

ボストン紀行(11) 2010年3月 

2010-02-28 20:53:37 | 日記
完成した万次郎記念館

            
 万次郎                 ホイットフィールド船長と
 
ジョン万次郎ゆかりの地 フェアヘーブン(地図リンク) に初めて行った時は、ガイドブックを頼りに一人でタクシーを利用して回ったので十分な見学が出来なかった(その時の旅行記はこのシリーズの6番目に掲載)。
今回の訪問は完成した「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」を見るのが目的だったが、幸運なことに車で案内をしてくれる人がいたので、万次郎トレールも一通り辿ることが出来た。
万次郎が住んだチェリー・ストリート11番地のホイットフィールド船長の家は、しばらく前から空き家になっていた。2007年、老朽化して売りに出されていたことを知った聖路加国際病院の日野原先生は、この家を日本側で買い取り記念館として日米の懸け橋にしたいと考え、各界の有識者らに呼び掛け募金活動を行った。2009年3月までに約1億3千万円の寄付金が集まったので、計画通りこの家を購入し修復を進めていた。

             
記念館になったホイットフィールド船長の家        記念館の看板
        
166年前の5月7日は、万次郎が船長の家でアメリカ本土最初の夜を過ごした日なので、この記念すべき日に合わせ日本及び米国内から200名以上の関係者らが集まり記念式典が盛大に行われた。式典に先立ち、タウンホールで日本側を代表して日野原先生からフェアヘーブン市へ記念館の贈呈が行われ、記念館の管理運営はホイットフィールド・万次郎友好協会(会長ジェリー・ルーニー)に任されることになった。

ウェブサイトで調べると記念館の見学は予約が必要とのことなので、2009年夏アンドーヴァーに滞在中電話してみた。電話に出たのは協会の会長ルーニーさんで大歓迎だという。車の長距離運転には自信がないので、前回同様ボストンのサウスステーションからバスに乗った。予め連絡しておいた便で終点のフェアヘーブンに着くと、ルーニーさんが迎えに出てくれた。昼時だったので、食事をしながら色々と話を伺った。
ルーニーさんは笑顔を絶やさない初老の紳士で、1987年、フェアヘーブン市と万次郎が生まれた現在の土佐清水市が姉妹都市になった時から、市の職員として万次郎関連の仕事に携わってきた。その後リタイヤしたが、今回万次郎記念館の市への引き渡しに伴い、協会の会長として記念館運営の責任者になられた。協会の仕事は現在ボランティアでやっているとのことだった。その日は会議まで3時間ほど空き時間があったので、万次郎トレールを車で案内してくれることになった。

先ずミリセント図書館に行ったら、1年前に訪ねた時も飾ってあった日本刀などはそのまま置いてあった。ゲストブックに2度目の記帳をしてから図書館を出て、万次郎トレールマップに載っている旧ユニタリアン教会、後に高等数学、航海術や測量術などを学んだバートレット・アカデミーを見て、オールド・ストーン・スクールに着いた。これが万次郎生まれて初めての学校だった。ドアの鍵を開けてもらって中に入ると、一クラス位の広さで、ここで万次郎は最年長者(当時16歳)としてABCや算数を学んだ。次に訪ねたのはリバーサイド共同墓地で、そこにはホイットフィールド船長のお墓があった。船長は1886年2月14日、82歳で記念館になった家で亡くなっている。それから船長がニューヨークに行っている間万次郎を預かってくれた友人のエーキン家と、オールド・ストーン・スクールの先生で放課後万次郎の家庭教師をしていたジェーン・アレンと2人の姉妹が住んでいた家を見て、最後に船長の家に着いた。万次郎が住んだ当時は平屋だったが、1874年に2階を増築して今の形になった。

      
バートレットアカデミー      オールドストーン スクール

船長のお墓とルーニー氏


外観は1年前に見たときと左程変わってなかったが、中に入ると驚いたことに内部はすっかり近代的な住宅に改装されていた。訪ねる前、万次郎が住んだ当時の佇まいに近いものを期待していたので、少し違和感を覚えた。1階には、昔からあった暖炉のある部屋、現代風のキッチンと大きなテーブルのある会議室があった。2階と屋根裏のベッドルームにはアンティークのベッドとタンスが置かれていたが、壁は新しく床はぴかぴかだった。一通り見学してから、船長と万次郎の写真が壁に掛けられてあった会議室でルーニーさんとお話をしたが、1階は友好協会の事務所として使用し、ベッドルームについては徐々に当時の雰囲気を出して行きたいとのことだった。

さらに、予算がつけば裏庭には日本庭園を造り、奥の馬車小屋は改造して和室を造りたいという。ルーニー会長はアメリカ人の見学者も念頭に置いていることが分かった。図書館のゲストブックを見ても記帳しているのは殆ど日本人で、ボストンから車で1時間も掛かるほど離れているので、日本人旅行者が気軽に立ち寄るには少し遠すぎる。そこで記念館の発展のためには日本人以外の見学者を増やすことを考えるのは当然で、そのために万次郎物語だけでなく広く日本文化に接することが出来る場所にしたいと考えているようだった。この記念館が日本の本当の姿を伝える場になれば素晴らしいことだと思った。
時間が来たのでニューベッドフォードの鯨博物館まで送って頂いたが、万次郎の家系とは何の関係もない一旅行者に対し、これ程までのアテンドをしてくれたルーニーさんには感謝の気持ちで一杯だった。こんなことが日本で考えられるだろうか。アメリカには未だまだ人間味と余裕が残っていると思った。ルーニーさんの親切心は、昔ホイットフィールド船長が万次郎に示した好意とどこか通じているような気がしてならなかった。

日米関係が兎角ぎくしゃくしている昨今、日米双方の多くの人が万次郎記念館を訪ねて欲しい。そして、ホイットフィールド船長と万次郎の心温まる友情物語を思い起こし、文化や国民性の違いを乗り越えてお互いが理解し合うには何が大事なことなのかを考えてみるべきではないだろうか。

ボストン紀行(10) 2010年2月

2010-02-05 21:24:42 | 日記

10.アメリカ初の産業都市ローエル

 ニューハンプシャー州中部を水源とするメリマック河は州の中央部を南下し、マサチューセッツ州のローエルで北東に急カーブし、ニューベリポートで大西洋に注いでいる。ローエル付近には古来、落差約10メートルのポータケット滝があり、これが河川輸送の障害になっていた。この地理的条件が小さな農村に過ぎなかったローエル(当時のイーストチェルムズフォード)の運命を大きく変えることになった。アメリカで最も早く繊維を中心とする産業都市に発展していったローエルの物語は興味深い。

 ローエルはボストンの北北西約40kmに位置し、ボストン市内から車なら高速93号線と495号線を利用して1時間弱で行ける。また、ノースステイションからコミューターレイルに乗ると40分でローエル駅に着き、駅前からシャトルバスで市の中心部まで行くことができる。滞在先のアンドーヴァーからは車なら20分位で行けそうなので、出勤前の子供に送って貰ってローエルを訪ねた。

 目抜き通りを少し歩くとビジターセンターがあり、中に入って先ずツアーのスケジュールを調べ、次の出発を予約した。時間があったので、受付で貰ったパンフレットを読んでみると冒頭に、19世紀にローエルを訪れた人は運河と紡績工場のスケールの大きさに圧倒され、女性の労働力に強い印象を受けたと書いてあった。往時の様子は、この遺産を管理するNational Park Serviceのお陰で今でも実感することができる。

 イギリスから独立すると、アメリカ西海岸では造船業が盛んになり大量の材木を必要とした。当時造船業の中心地だったニューベリポートの商人は、森林資源が豊富なニューハンプシャー州の材木を供給しようと考え、1796年ポータケット滝を迂回する1.5マイルのポータケット運河をローエルに建設した。ツアーはこの運河をボートで辿るもので、パークレンジャーの説明を聞きながら、約2時間の船旅を満喫した。途中ロックに入り、水面の高さが変わるのを体験し、やがて広々としたメリマック河に出た。ボートからは見えなかったが、少し下流にポータケット滝があり、この滝を避けて材木を河口まで運ぶために運河を造った理由が納得できた。しかし、この運河がフルに利用されたのは7-8年で、ボストンの起業家が1803年、直接ボストンを結ぶミドルセックス運河を完成させた後は殆ど利用されなくなった。

    

 ウオルサムの紡績工場で大成功を収めた共同設立者のジャックソンとアップルトンは、より発展性のある工場用地を求めて1821年この地域を訪れた。ウオルサム工場生みの親だったF・C・ローエルは既に亡くなっていたが、後に開発が進み人口が増加して町になった時、この町は彼の名を取ってローエルと名付けられた。二人はポータケット運河が簡単に工場の動力運河に改造できることと、近くにあるミドルセックス運河は主要なマーケットへの輸送に便利なことからここに決め、ポータケット運河の権利を買い取ると同時に、運河とメリマック河との間の農地を買い占めていった。

 開発は翌年から始まった。道路、運河、ロック、紡績工場、機械工場、女性紡績工用寄宿舎等の他に、教会も建てられた。中でも運河の掘削にはアイルランド人が従事し、これが移民労働者の先駆けとなった。1823年にはポータケット運河の最初の支流となるメリマック運河が完成し、メリマック製造会社の紡績工場が操業開始した。その後も新しい運河の完成と共に次々と工場が建設され、1840年までに10か所の紡績工場が稼働した。1846年には、ヘンリー・ソローが「アメリカのマンチェスター」と呼んだ程、ローエルは繊維の町として繁栄を極めていた。製品の大半は人口増加の著しいアメリカ西部と南部へ出荷されたが、南米、中国、インドやロシアにも盛んに輸出された。品質の良さと価格競争力はしばしばイギリスや他のアメリカ生産者を凌駕した。

 ツアー終了後軽い昼食を済ませ、1世紀前に活躍していたトロリーに乗ってブート・コットン・ミルズ・ミュージアムを訪ねた。ブート工場は1836年に建設されたが、ミュージアムの1階では100台余りの織機が20世紀初頭の姿のまま、耳をつんざくばかりの音を立てながら布を織っている様子を見学できた。ブート工場に限らずローエルの工場では、当初給料が高い上に管理が行き届いた女性専用の寄宿舎があったので、ニューイングランド地方の農家の若い独身女性はこぞって働きに来た。しかし、仕事は長時間労働で職場の環境は必ずしも良くなかったので、お金が貯まると辞めて行ったという。それでもヤンキー女性を中心とした操業は約30年続いたが、その後は低賃金を厭わぬ移民が徐々に取って代わることになった。

       

  繁栄を謳歌していたローエルの紡績工場も19世紀後半に入ると、蒸気機関の普及により地理的にも技術的にもその優位性は次第に失われて行った。1890年末に生産量で全米トップの座を明け渡すと、その後は衰退の一途をたどり、1930年代には7つの工場が閉鎖または南部に移転した。第二次世界大戦の間、一時的に雇用と生産の復活が見られたが、1950年半ばには当初の工場は全て姿を消し、小規模な工場が僅かに残るのみとなった。雇用の喪失と人口の激減により大きな打撃を受けたローエルは、1970年代に入ると漸く都市再生の気運が起こり、1978年には議会により「ローエル国立歴史公園」の指定を受けた。現在は官民一体となり、当時の建物や運河などの歴史的遺産を保存修復しながら再建が進められており、都市復興のモデルケースとして内外の注目を集めている。