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海外での思い出 佐藤仁平

伊藤忠での海外駐在時代、退職後の海外旅行中に体験したことを中心に、ハプニングやエピソードを交えて紹介します。

社友会HPに何故投稿するようになったのか

2012-01-01 14:53:01 | 日記
社友会のホームページに恥を忍んで雑文を載せるようになってから早三年が過ぎた。途中休んだ月も何度かあったが、それにしても良く続けて来られたものだ。初めは一年も続けばと思っていたが、懇親会などでお会いした方から読んでいると言われたことが大きな励みになった。元気な間は続けたいと思っているが、この機会に投稿するに至った経緯と背景を述べてみたい。

生来文章を書くのが苦手だった自分が、生まれて初めてエッセイの魅力を感じたのはある出来事がきっかけだった。それはもう半世紀近くも前になるが、ニューヨーク駐在時代に日本から取引先の役員の方が出張で来られ、晩秋のある日モハンシックという所でゴルフをしたことがあった。日が暮れるのが早く、18番ホールに着いたときは薄暗くなり、グリーンも良く見えない位だった。ところがグリーンの近くまできたら、帰りがけの人が車を停めてグリーンに向かってライトを照らしてくれていたので無事ホールアウトすることができた。お客様が帰国されて暫くすると、日経新聞に「モハンシックの友情」と題するエッセイが載っていた。読んでみると、なんとあの時一緒にゴルフをした方が書いたものだった。詳しいことは忘れてしまったが、日本は高度成長期に入り、自分のことばかり考えて他人を思いやる日本古来の美徳が失われつつある。そんな時にアメリカに来て、普通ならゴルフが終わったら早く家に帰り一杯飲みたいところなのに、何の関係もない我々に時間を割いて、プレーが終了できるように配慮してくれた暖かい友情に接し感激したことが綴られていたと記憶する。このとき、自分もこんな文章が書けるようになりたいと思うようになった。

そんな経験をしたのに、現役時代は勿論のこと、リタイヤーしてからも文章を書こうという気が起こらなかった。しかし10年程前から腰痛のためゴルフをやめ、囲碁の他あまりやることが無くなったので、少しずつ自分史を書き始めた。自分史は何れ家族が見るだろうが、他人に読ませることを前提にしてないので、単に過去に経験した事を記録するだけで、推敲はしないし文章の体をなしていなかった。その頃社友会にホームページができたが、投稿する人は皆文章を書くのが上手な方ばかりで、まさか自分が投稿するようになるとは思いも寄らなかった。

数年前のことだが、大学同期生の会で喜寿を記念した文集を出すことが決まった。余り文章を書いたことがなかったので、どうしようか迷ったが、自分史に書いていた海外での思い出話をオムニバス形式にして投稿してみた。文章に自信はなかったが、文集が発行されてから同期会に出てみると、日ごろ疎遠にしている人とも話ができるようになり、自分が書いた文章を公開することは交流の場を広げる良い機会になることを実感した。

文集に載ったことで少し自信が湧いてきた自分が、思い切ってホームページに投稿しようと決心した直接のきっかけは二つあった。一つは、20年ほど前に撮った、後のブッシュ大統領とのツーショット写真を説明付きで当時のCIマンスリーに出そうと思ったが、編集方針に合わないとの理由で採用してもらえなかった。この写真はブッシュ氏が大統領どころか政界に入る前のもので、今となっては貴重な出会いだったので、どうしても他の人にもお見せしてその時の様子を伝えたかった。

二つ目は、数年前子供の家族が住むマサチューセッツ州アンドーバーに滞在中、図書館でこの町の歴史を調べていたら、「アンクルトムの小屋」を書いたストウ夫人や同志社大学を創立した新島襄が身近な処に住んでいたことがわかった。ゆかりの場所を訊ね歩いて写真を撮っているうちに、この情報を何らかの方法でアメリカに興味をもっている方に知らせたいとの思いが募った。そこで日頃講読している朝日ウィークリーに英文で投稿してみたが、これもボツになった。編集長からの手紙には、話は面白いが、海外旅行物はある業者と長期契約を結んでおり、他の記事を載せることはできないとのことだった。しかし、英文が駄目なら日本語で発表したいという思いが湧いてきた。

そんなことがあって、何か自分の体験記を発表する手段はないものか考えていた時、ふと社友会のホームページを思い出した。これならボツになることはなだろうし、同じ釜の飯を食った会社のOBなら自分の経験を共有して頂ける人も多くいるではないかと思い、投稿を始めることした。日の目をみなかった事柄に関するエッセイも既に掲載させて頂いた。

他人にも読んで貰うからには、文章は何度も推敲しなければならないし、あいまいなことは確認する必要があるので、図書館に通う回数が増えてきた。昔と比べると本を読むことも多くなった。私はこれからも健康でいる限りは、主として海外で自分の目で見て感じたことや、過去に経験したことで記憶がはっきりしている事柄を自分の文章にしてホームページへの投稿を続けたいと願っている。

最後になりましたが、ホームページの編集担当者には心より御礼申し上げます。今後ともよろしくお願い致します。

バンカーヒルで戦った謎の英雄

2011-12-02 23:00:37 | 日記
数年前、ボストンで最も人気のある観光ツアーである「フリーダムトレイル」歩きに参加したことがあったが、時間と体力の関係で終点のバンカーヒル記念塔まで行く事ができなかった。帰りの電車から夕日に輝く搭を眺めながら、次回は必ず行ってみようと決めていたものの、なかなかその機会はなかった。ところが、アメリカ独立戦争発端の町レキシントンを訪ねてから、その後に起こったバンカーヒルの戦いがどんなものであったのか知りたくなり、今年(2011年)の夏はいの一番で行ってみた。



ノースステーションから歩いて橋を渡たり、チャールズタウンに入って緩やかな坂道を上ると、バンカーヒル記念塔に着く。この搭はバンカーヒルの戦いを記念して建てられたものだが、高さは約67メートルもあり、近くで見るとなかなかの存在感があった。内部にはエレベーターはなく、294段の階段を上れば展望階からの眺めは素晴らしいと聞いてはいたが、年寄りには無理なので諦めて近くの博物館に入った。ここにはバンカーヒルの戦いについての詳細な説明と実際の戦闘状況を模型で見せるジオラマがあった。



レキシントンとコンコードの戦いに敗れたイギリス軍はボストンに撤退し、チャールズタウンからも軍隊を引き上げてボストンの防御を固めた。本土からの援軍到着を待って、イギリス軍は1775年6月、チャールズタウンを奪還して、植民地軍の前線基地があるケンブリッジに進攻する計画を立てた。6月18日決行との予定を察知した植民地軍は、先制してバンカーヒルに塹壕をめぐらすことにし、16日夜ケンブリッジに駐屯していた連隊がチャールズタウンに進軍した。17日朝、日が昇るとイギリス軍はバンカーヒルに一夜にして築かれた塹壕と大勢の植民地兵を発見してびっくり仰天したという。

イギリス軍の攻撃は、先ず艦砲射撃とコップヒルからの砲撃で始まった。弾は殆どが植民地軍の陣地まで届かなかったが、耳を聾するばかりの砲声は植民地軍の度肝を抜いたと言われる。2,300名ほどのイギリス軍はボストンからバージに乗ってチャールズタウンに上陸し、植民地軍に対し3回の攻撃を行なった。一回目は丘の麓を川に沿って進撃したが、植民地軍の堅固な柵に阻まれて撤退を余儀なくされた。二回目は丘の上に築かれた塹壕に向かって正面から攻撃したが、植民地軍により撃退され、三回目の攻撃で漸く弾丸の尽きた植民地軍を圧倒し退却させた。しかし、三回に亙る戦闘でイギリス軍は約半数の兵士が死傷し、特に将校はかなりの犠牲者を出したので、士気は極度に低下し植民地軍を追討する力は最早残っていなかった。

この戦いで植民地軍に参加し大活躍した一人の勇敢な黒人兵士がいた。博物館を出る時、テーブルの上に置いてあった一枚のペーパーを手にして初めてその存在を知った。彼の出身が今自分の滞在しているアンドーバーだったので、帰ってから町の400年史で調べてみると、“勇敢な兵士”セーラム・プアーとして載っていた。彼は子供の時セーラムの奴隷市場で買われてアンドーバーに連れて来られた。幼時はセーラム・ポニーと呼ばれ、北パリッシュ教会で洗礼を受けている。1769年に当時のお金で一年分の給料に相当する27ポンドを払って自由の身となり、1771年にナンシー・パーカーと結婚し、息子が一人いた。

28歳の時植民地軍に加わって出征したが、バンカーヒルの戦いで彼が勇敢な兵士であったことを示す資料が残っている。それはマサチューセッツ州の古文書保管所にある植民地議会に宛てた一通の嘆願書だ。戦いから6カ月後の1775年12月5日付けのこの書類には、彼が“経験豊かな士官のように振る舞い”、“勇猛果敢な兵士であった”と書かれ、一緒に戦った14名の将校が署名して彼の勇気ある行動を顕彰するよう要請している。実際にどんな戦いぶりをしたのかは明らかにしてないが、このような形で選ばれた兵士は他に居なかった。

この男が何故このような行動をとったかは謎のままだ。黒人の奴隷を所有しているかもしれない白人と共に自分の命を賭けてまで戦ったのは、愛国心からだったのか、それとも新しいより良い生活のためだったのか。あるいは白人との平等という違う種類の自由に対し戦ったのだろうか。しかし、独立戦争が終わってみると、黒人は自分たちが望んだ自由と平等からは余りにもかけ離れた処に居ることを発見して失望したに違いない。



セーラム・プアーは1780年に除隊しアンドーバーに帰って来たが、10年後の1790年人口調査の時は居なかった。彼が何時何処で亡くなったかは不明のままだが、この“勇猛果敢な兵士”の名は完全には忘れられてはいなかった。1975年発行の米独立200年記念切手に勇敢な兵士としてその名を留めている。

米独立戦争発端の町レキシントンを訪ねる

2011-11-03 20:56:30 | 日記
ボストンの西方にレキシントンという人口3万人程の小さな町がある。独立戦争発端の地として有名なところだ。現在は緑に囲まれた閑静な住宅地で、ボストンにも比較的近く、教育水準も高いので、日本人駐在員には居住地として人気の場所だ。公共交通機関でのアクセスは多少不便だが、車ならボストンの中心部まで1時間と掛からない。昨年(2010年)の夏、土曜日の午前中は孫がメッドフォードの日本語学校に通っているので、朝一緒に出かけ授業が終わるまでの時間を利用してレキシントンに出かけた。

高速を降りて暫く走るとレキシントンの町に入ったが、どこか他の町と違うことに気がついた。それは店に看板が一切出てないことだ。アメリカでは何処の町でもファミレスやハンバーグ屋の大きな看板が目につくが、ここでは何処にも見当たらない。それではファミレスがないかと言えばよく見ると店はある。ただ遠くから分からないだけだ。日中なので気がつかなかったが、ネオンサインも条例で禁止されているという。静かに暮らしたいと思う住人の心に配慮した数少ない町だ。

レキシントン観光案内所の近くに駐車すると、そこがミニットマン国立歴史公園の中心だった。観光案内所に入ると、レキシントンの戦いの模型が展示されていた。ミニットマンとは民間人の兵士のことで、普段は農業などに従事しているが、いざという時には数分間で銃を手に集まり軍隊を組織したのでこう呼ばれたらしい。1775年4月19日の早朝、僅か77名のミニットマン兵士が700名のイギリス軍隊を迎え撃った。


  
ここに至るまでの経過を辿ってみよう。7年間に及ぶ仏・インデアン戦争で多額の債務を抱えたイギリス政府は、財政難解消のため植民地に対し1760年代から課税を強化し始めた。このため植民者の間に徐々に不満が広がり、ボストンでは抗議行動、ボイコット、破壊行為などが起こった。紅茶に対する課税に怒った植民者は1773年12月、ボストン港に停泊中のイギリス船から茶箱を海に投棄した。これが「ボストン茶会事件」と呼ばれるものだ。この事件を受けてイギリス議会は混乱を鎮めるため、ボストン港を閉鎖し、数千名の軍隊を植民地に派遣した。イギリス軍との衝突は避けられない状況になったので、植民者は軍隊を組織し、コンコードに武器・弾薬を貯蔵した。この情報を入手したイギリス軍は、これを破壊すると同時にレキシントンに滞在していた反乱の首謀者と目されたサム・アダムスとジョン・ハンコックを逮捕すべく、4月18日夜ボストンコモンに集結した。

この動きをオールドノース教会の塔の上に灯されたランタンで知ったポール・リビアは、二人のリーダーとミニットマンにいち早く知らせるべく、レキシントンに向けて深夜馬を走らせた。これが有名な「真夜中の疾駆」(Paul Revere’s Ride)だ。アメリカの国民的詩人であるヘンリー・ロングフェローの詩に謳われており、アメリカの小学生が最初に習う歴史物語だ。植民地軍の本部があったのは戦場となったバトルグリーンの近くにあるバックマンタバーンと呼ばれる居酒屋で、77名のミニットマンが集まり、4月19日の夜明け前バトルグリーンに出てイギリス軍を待ち受けた。


写真 バトルグリーン


写真 居酒屋バックマンタバーン


写真 ガイドに話を聞く

バトルグリーンの入り口に当時のミニットマンの服装をした若い男性のガイドがいたので、当時の模様を話してもらった。午前5時、パーカー隊長が率いるミニットマンたちは約10倍の数のイギリス軍を目撃した。劣勢を悟った隊長が撤退を命じたときは、ミニットマンたちは既にイギリス軍に向かって行った後だった。よく訓練されたミニットマンたちは善戦し、最終的には死者8名、負傷者10名に留まった。負傷者は直ちにバックマンタバーンに運ばれ手当てを受けたといわれる。バトルグリーンの角には銃を手にした農民兵士ミニットマンの像が立っていた。また像と道路を挟んで反対側にはレボリューショナリー・モニュメントがあり、ここに犠牲となったミニットマンが眠っているといわれる。

  
ミニットマンの像(左) レボリューシヨナリー・モニュメント(右)

レキシントンの戦いで再編成を余儀なくされたイギリス軍は、このあと約100名がコンコードに進軍したが、ここでもミニットマンの勇敢な抵抗に遭った。オールド・ノース・ブリッジの戦いで多くの死傷者を出し、コンコードではさしたる戦果を挙げることなく、一日でボストンへ退却することになった。かくしてレキシントン・コンコードの戦いは植民地軍の勝利に終わった。その後バンカーヒルの戦いを経て、イギリス軍は翌年ボストンから撤退したが、レキシントンはアメリカ独立戦争で最初に銃撃戦が行なわれた場所として歴史に深く刻まれることになった。

孫が通うボストン日本語学校

2011-10-06 18:34:18 | 日記
孫娘が親の仕事の関係でアメリカに渡ってから5年が過ぎた。当時4歳半の彼女は漸くおしゃべりが出来るようになっていたので、別れるのは辛かった。こちらはあとどれだけ生きられるか分からない身だが、元気でいればまた会える日もあると思いながら成田で見送った。つくば市に住んでいた時は、月に2-3回は会っていたので、別れて暫くすると無性に会いたくなり、まだ2カ月と経っていないのに老夫婦二人でボストン郊外まで出かけることになった。直行便はなかったので、途中乗り換えの長旅は体にきつかったが、空港に迎えに来てくれた孫に会ったときは、旅の疲れも吹き飛んだ。孫は現地の保育園に通い始めていたが、英語がほとんど話せないので苦労しているようだった。

その後2年間保育園に通った後、晴れて現地校の小学一年生となったが、毎年夏に会う度に彼女の英語は上手になった。学校では英語の授業を受け、友達とは英語で話し、帰宅して観るテレビは英語、両親との会話も英語が主なので、英語が上手くなるのは当然のことだが、その分使わない日本語は話せなくなっていった。何とか日本語を忘れないように、土曜日の午前中はボストン日本語学校に通っている。

ボストン日本語学校は35年の歴史があり、設立時は生徒数若干25名でスタートしたが、現在では約770名で、全米でも有数の規模を誇る日本語学校となっている。クラスも幼稚部、小学部、中学部、高校部と日本語部を合わせて40クラスあり、幼稚部から高校部までは主として駐在員の子女を対象としている。日本語部はアメリカに永住する子女を対象としたクラスで、孫はこの部に入っている。

どんな授業をするのか興味があったので、数年前のある土曜日の朝一緒に行ってみた。授業はボストン郊外のメッドフォードにあるMedford High Schoolの教室を借りて行なわれている。大部分の子女は親が運転する車で通学するので、9時前になると学校の駐車場は満杯になり空いているスペースを探すのに苦労するほどだった。孫のクラスの先生は中年の日本人女性で、日本から来たことを話すと授業参観は大歓迎とのことだった。



このクラスの生徒数は15名位で、授業は英語を使って日本語を教えていた。その日は形容詞の授業で、先生が黒板に「おおきい」「ちいさい」と例を書き、生徒に同じような反対の意味を持つ二つの言葉を答えさせるものだった。「たかい」「ひくい」とか「あつい」「さむい」などの答えがでたが、先生がこれらの言葉は何かと訊ねたのに対し、生徒がAdjectiveと答えれば正解で、それ以上の説明はなかった。明らかにAdjectiveとは何か知っているものとして日本語を教えていることが分かった。



授業が行われる約3時間の間、生徒を連れてきた親(といっても母親が多いが)はどうしているかというと、近くに住んでいる人は一旦家に帰るのだろうが、多くの人は図書室に行く。授業が行われる教室はHigh Schoolの学生が使っているのを土曜日だけ借りているが、図書室だけは借り切りになっている。階段教室を改造して作ったものだが、子供用の本から大人用の雑誌や書籍が揃っていて、本を借りたり返したりする親たちで混雑する。別の階に広い待合室があるので、そこで本を読んで時間をつぶす人もいれば、この日はボストン地区に住む殆どの日本人が集まるので格好の社交場にもなる。また、近くにスーパーマーケットや日本食料品店があるので、買い物をして時間を過ごしているようだ。



今年の夏も孫と一緒に過ごしたが、日本語学校は現地校より一足早く8月27日から始まった。夏休みの宿題に自由研究として、孫はイルカの生態について調べたことをボードに書いて提出したが、幸運にも優秀賞を貰った。9月10日の授業が始まる前に先生から表彰状が渡されたが、いつもは物怖じしない孫もこの時ばかりは照れていたそうだ。宿題の作成に大分苦労して日本語を書いたので、この時以来普段は殆ど話さない日本語が少し口から出るようになった。



学校新聞によると、ノーベル化学賞を受賞された下村博士が一度学校に来られたそうだ。ケープコッドに住んでおられるが、成人された二人の子供さんは日本語が全くできなので、日本人の子供たちがこの学校で日本語を学ぶことの大切さを強調されていたという。孫もこの学校に通うことにより、何とか日本語と日本の文化を忘れないようにして欲しいと願っている。

米格付会社の信頼性についての雑感

2011-09-01 00:00:00 | 日記
アメリカに滞在していると日本のことが気になるので、毎朝ウェブサイトでニュース見る他に、2-3日遅れで配達される朝日新聞の国際版を読んでいる。一方アメリカのことは毎日CNNテレビを観ているが、特に興味あるのは、日本と同じねじれ現象を起こしている議会に対するオバマ大統領の対応振りと、アメリカ経済の現状を端的に表すNYダウの動きだ。ダウは世界経済にも大きな影響を与えるので、終値をチェックし、翌日日本やヨーロッパがどんな反応を示したかをフォローしている。

8月2日がデッドラインだった債務上限引き上げ問題は、与野党が駆け引きの限りを尽くした末にデフォルトは回避されたが、続いてS&Pが米国債の格下げを発表してからダウは連日乱高下した。その後発表されたFOMCの経済見通しも景気回復には2年程かかるとの予想だし、ヨーロッパの債務問題もあるので、ダウの動きには益々目が離せなくなった。ようやくダウが底を打ったかに見え始めた頃、8月11日付け朝日の国際版でクルーグマン教授のコラムが目にとまった。早速ネットで検索すると、それは8月8日付けNYタイムズに掲載された「Credibility,Chutzpah and Debt」という評論だった。

論点は、米国はもはや昔のように信頼できる国ではなくなったが、S&Pはもっと信頼できないので、米国債の格付けを判断する資格はない。今回米国債の格下げを行った判断は厚顔無恥だ、として2008年の金融危機のときS&Pがいかに誤った格付けを行っていたかを指摘している。あの時以来、格付け会社は信用できないと思っていたので、こんな表現でS&Pをこき下ろしてくれて胸がすく思いだった。

思い起こすと、2008年9月リーマン・ブラザースが倒産した時もアメリカでテレビを観ていた。帰国すると、影響は比較的少ないと予想されていた日本は、間もなく世界で最悪の影響を受けたことが判明し、今回の経済危機は100年に一度と騒がれだした。これほどまでに大きな被害を世界経済に与えたアメリカの金融危機はどうして起こったのか、なぜ防げなかったのか、そして張本人は一体誰なのかを自分なりに解明してみたくなり、一時期このことに没頭したことがあった。そのとき出した結論は、最大の責任は格付け会社にあり、というものだった。

ムーデイーズやS&Pなどの格付け会社は、不動産が値上がりしなければ返済不能になることが明らかなサブプライムローンを担保にした証券(実際にはこれに少しだけ優良債権をまぶして見栄えを良くしてあるが)をなんと最高の格付けである「トリプルA」に格付けしていたのだ。不動産が永久に上がり続けることはあり得ないし、一部の有識者から盛んに危険信号が上っていたにも拘らず、ぎりぎりまで変更しなかった。世界の機関投資家は通常格付け会社を信用し、その格付けを見て取引する。格付けが「トリプルA」で利回りが高いとなれば、買うのは自然の成り行きだ。ということで、一部に破綻が出始めて格付け会社が慌ててジャンクボンドに変更したときは、既にどうにもならないほど大量の証券が世界中に出回っていた。そして、これらの証券はやがて紙くず同然となり世界経済に計り知れないダメージを与えたことは周知の通りだ。もし格付け会社がこれらの証券の安全性を常識で判断していたら、まさか「トリプルA」に格付けすることはなかった筈だし、これほどの被害は起こらなかったろう。格付け会社の判断ミスによる責任は極めて重いと言わざるをえない。

クルーグマンはこの事実を挙げ、さらに倒産する前のリーマン・ブラザースに対し、「A」の格付けをし、破綻した後で「何も悪いことはしてない」と弁明したことも紹介している。こんないい加減な格付けをしてきたS&Pが米国債の格下げをするのは正に厚顔無恥だというのだ。Chutzpah(フッパーと発音する)という単語は初めてお目にかかったが、Wikipediaで調べると、もともとは大胆さや厚かましさを意味するヘブライ語の言葉だという。実にうまい単語で、今回国債を格下げしたS&Pの行動を表現するのにこれ以上適切な言葉はないと感心した。

ポール・クルーグマンは1953年2月28日生まれのアメリカの経済学者だ。1974年イェール大学卒業、1977年MITで博士号取得。現在はプリンストン大学教授でNYタイムズのコラムニストでもある。1991年にジョン・ベーツ・クラーク賞、2008年にはノーベル経済学賞を受賞している。専門は国際貿易の新理論で、現在アメリカで最も活躍している学者の一人だ。クルーグマン教授にこれだけ批判されても、S&Pは一向に反省する様子は見られない。一方の投資家側は解っていても、格付け会社が発表する格付けに頼らざるを得ない現実がある。ダウが乱高下したのもそのためだろう。今のところ、ムーデイーズや他の格付け会社は米国債の格下げをしてない。米国債が安全な債券であることが分かれば、何れS&Pは格付けを元に戻さざるを得なくなるに違いない。米政府もS&Pの格下げに影響されることなく、安全資産であることを自ら証明できるよう財政再建策の拡充などに努力すべきではないだろうか。