社友会のホームページに恥を忍んで雑文を載せるようになってから早三年が過ぎた。途中休んだ月も何度かあったが、それにしても良く続けて来られたものだ。初めは一年も続けばと思っていたが、懇親会などでお会いした方から読んでいると言われたことが大きな励みになった。元気な間は続けたいと思っているが、この機会に投稿するに至った経緯と背景を述べてみたい。
生来文章を書くのが苦手だった自分が、生まれて初めてエッセイの魅力を感じたのはある出来事がきっかけだった。それはもう半世紀近くも前になるが、ニューヨーク駐在時代に日本から取引先の役員の方が出張で来られ、晩秋のある日モハンシックという所でゴルフをしたことがあった。日が暮れるのが早く、18番ホールに着いたときは薄暗くなり、グリーンも良く見えない位だった。ところがグリーンの近くまできたら、帰りがけの人が車を停めてグリーンに向かってライトを照らしてくれていたので無事ホールアウトすることができた。お客様が帰国されて暫くすると、日経新聞に「モハンシックの友情」と題するエッセイが載っていた。読んでみると、なんとあの時一緒にゴルフをした方が書いたものだった。詳しいことは忘れてしまったが、日本は高度成長期に入り、自分のことばかり考えて他人を思いやる日本古来の美徳が失われつつある。そんな時にアメリカに来て、普通ならゴルフが終わったら早く家に帰り一杯飲みたいところなのに、何の関係もない我々に時間を割いて、プレーが終了できるように配慮してくれた暖かい友情に接し感激したことが綴られていたと記憶する。このとき、自分もこんな文章が書けるようになりたいと思うようになった。
そんな経験をしたのに、現役時代は勿論のこと、リタイヤーしてからも文章を書こうという気が起こらなかった。しかし10年程前から腰痛のためゴルフをやめ、囲碁の他あまりやることが無くなったので、少しずつ自分史を書き始めた。自分史は何れ家族が見るだろうが、他人に読ませることを前提にしてないので、単に過去に経験した事を記録するだけで、推敲はしないし文章の体をなしていなかった。その頃社友会にホームページができたが、投稿する人は皆文章を書くのが上手な方ばかりで、まさか自分が投稿するようになるとは思いも寄らなかった。
数年前のことだが、大学同期生の会で喜寿を記念した文集を出すことが決まった。余り文章を書いたことがなかったので、どうしようか迷ったが、自分史に書いていた海外での思い出話をオムニバス形式にして投稿してみた。文章に自信はなかったが、文集が発行されてから同期会に出てみると、日ごろ疎遠にしている人とも話ができるようになり、自分が書いた文章を公開することは交流の場を広げる良い機会になることを実感した。
文集に載ったことで少し自信が湧いてきた自分が、思い切ってホームページに投稿しようと決心した直接のきっかけは二つあった。一つは、20年ほど前に撮った、後のブッシュ大統領とのツーショット写真を説明付きで当時のCIマンスリーに出そうと思ったが、編集方針に合わないとの理由で採用してもらえなかった。この写真はブッシュ氏が大統領どころか政界に入る前のもので、今となっては貴重な出会いだったので、どうしても他の人にもお見せしてその時の様子を伝えたかった。
二つ目は、数年前子供の家族が住むマサチューセッツ州アンドーバーに滞在中、図書館でこの町の歴史を調べていたら、「アンクルトムの小屋」を書いたストウ夫人や同志社大学を創立した新島襄が身近な処に住んでいたことがわかった。ゆかりの場所を訊ね歩いて写真を撮っているうちに、この情報を何らかの方法でアメリカに興味をもっている方に知らせたいとの思いが募った。そこで日頃講読している朝日ウィークリーに英文で投稿してみたが、これもボツになった。編集長からの手紙には、話は面白いが、海外旅行物はある業者と長期契約を結んでおり、他の記事を載せることはできないとのことだった。しかし、英文が駄目なら日本語で発表したいという思いが湧いてきた。
そんなことがあって、何か自分の体験記を発表する手段はないものか考えていた時、ふと社友会のホームページを思い出した。これならボツになることはなだろうし、同じ釜の飯を食った会社のOBなら自分の経験を共有して頂ける人も多くいるではないかと思い、投稿を始めることした。日の目をみなかった事柄に関するエッセイも既に掲載させて頂いた。
他人にも読んで貰うからには、文章は何度も推敲しなければならないし、あいまいなことは確認する必要があるので、図書館に通う回数が増えてきた。昔と比べると本を読むことも多くなった。私はこれからも健康でいる限りは、主として海外で自分の目で見て感じたことや、過去に経験したことで記憶がはっきりしている事柄を自分の文章にしてホームページへの投稿を続けたいと願っている。
最後になりましたが、ホームページの編集担当者には心より御礼申し上げます。今後ともよろしくお願い致します。
生来文章を書くのが苦手だった自分が、生まれて初めてエッセイの魅力を感じたのはある出来事がきっかけだった。それはもう半世紀近くも前になるが、ニューヨーク駐在時代に日本から取引先の役員の方が出張で来られ、晩秋のある日モハンシックという所でゴルフをしたことがあった。日が暮れるのが早く、18番ホールに着いたときは薄暗くなり、グリーンも良く見えない位だった。ところがグリーンの近くまできたら、帰りがけの人が車を停めてグリーンに向かってライトを照らしてくれていたので無事ホールアウトすることができた。お客様が帰国されて暫くすると、日経新聞に「モハンシックの友情」と題するエッセイが載っていた。読んでみると、なんとあの時一緒にゴルフをした方が書いたものだった。詳しいことは忘れてしまったが、日本は高度成長期に入り、自分のことばかり考えて他人を思いやる日本古来の美徳が失われつつある。そんな時にアメリカに来て、普通ならゴルフが終わったら早く家に帰り一杯飲みたいところなのに、何の関係もない我々に時間を割いて、プレーが終了できるように配慮してくれた暖かい友情に接し感激したことが綴られていたと記憶する。このとき、自分もこんな文章が書けるようになりたいと思うようになった。
そんな経験をしたのに、現役時代は勿論のこと、リタイヤーしてからも文章を書こうという気が起こらなかった。しかし10年程前から腰痛のためゴルフをやめ、囲碁の他あまりやることが無くなったので、少しずつ自分史を書き始めた。自分史は何れ家族が見るだろうが、他人に読ませることを前提にしてないので、単に過去に経験した事を記録するだけで、推敲はしないし文章の体をなしていなかった。その頃社友会にホームページができたが、投稿する人は皆文章を書くのが上手な方ばかりで、まさか自分が投稿するようになるとは思いも寄らなかった。
数年前のことだが、大学同期生の会で喜寿を記念した文集を出すことが決まった。余り文章を書いたことがなかったので、どうしようか迷ったが、自分史に書いていた海外での思い出話をオムニバス形式にして投稿してみた。文章に自信はなかったが、文集が発行されてから同期会に出てみると、日ごろ疎遠にしている人とも話ができるようになり、自分が書いた文章を公開することは交流の場を広げる良い機会になることを実感した。
文集に載ったことで少し自信が湧いてきた自分が、思い切ってホームページに投稿しようと決心した直接のきっかけは二つあった。一つは、20年ほど前に撮った、後のブッシュ大統領とのツーショット写真を説明付きで当時のCIマンスリーに出そうと思ったが、編集方針に合わないとの理由で採用してもらえなかった。この写真はブッシュ氏が大統領どころか政界に入る前のもので、今となっては貴重な出会いだったので、どうしても他の人にもお見せしてその時の様子を伝えたかった。
二つ目は、数年前子供の家族が住むマサチューセッツ州アンドーバーに滞在中、図書館でこの町の歴史を調べていたら、「アンクルトムの小屋」を書いたストウ夫人や同志社大学を創立した新島襄が身近な処に住んでいたことがわかった。ゆかりの場所を訊ね歩いて写真を撮っているうちに、この情報を何らかの方法でアメリカに興味をもっている方に知らせたいとの思いが募った。そこで日頃講読している朝日ウィークリーに英文で投稿してみたが、これもボツになった。編集長からの手紙には、話は面白いが、海外旅行物はある業者と長期契約を結んでおり、他の記事を載せることはできないとのことだった。しかし、英文が駄目なら日本語で発表したいという思いが湧いてきた。
そんなことがあって、何か自分の体験記を発表する手段はないものか考えていた時、ふと社友会のホームページを思い出した。これならボツになることはなだろうし、同じ釜の飯を食った会社のOBなら自分の経験を共有して頂ける人も多くいるではないかと思い、投稿を始めることした。日の目をみなかった事柄に関するエッセイも既に掲載させて頂いた。
他人にも読んで貰うからには、文章は何度も推敲しなければならないし、あいまいなことは確認する必要があるので、図書館に通う回数が増えてきた。昔と比べると本を読むことも多くなった。私はこれからも健康でいる限りは、主として海外で自分の目で見て感じたことや、過去に経験したことで記憶がはっきりしている事柄を自分の文章にしてホームページへの投稿を続けたいと願っている。
最後になりましたが、ホームページの編集担当者には心より御礼申し上げます。今後ともよろしくお願い致します。