ある日、私は一人の女性介護職員に呼び出された。
そうして、こう言われた。
「腰掛けの気持ちで、この仕事をしてほしくない。
私たちは真剣にこの仕事に取り組んでいるのだから」
私があいまいな勤務態度ではないということは、この人には伝わっていたはずだ。
おそらく、こう思われていたのかもしれない。
(この人は真面目に仕事をしているけれども、根本的にこの仕事を好きではない。
結局はここからいなくなってしまう人だ)と。
しかし、この頃の私はまだ若くて、
彼女の真意を汲み取るほどの思慮深さに欠けていた。
逆に開き直ってこう切り換えしてしまった。
「確かに私は腰掛かもしれないけど、
この腰掛けの私よりも真剣に仕事に取り組んでいる人は何人いるのか?
私より必死に勉強してよりよい介護をしようと思っている人はどれだけいるのか?」
今ふりかえれば、何とも傲慢で生意気な奴である。
こんな台詞は間違っても言えたもんじゃあない。
しかし、それを平然と言ってのけた当時の私は若かった。
そんな自信は何処から来ていたのだろうか。
とにかくこの女性職員に笑われないように、
更にリハビリテーションの勉強をし始めた。
リハビリテーションの視点に立った身体介護を身に付ければ、
相手の力や意欲を引き出すことが出来る。
片麻痺でも残っている機能を引き出しながら、
少しずつ自信を持てるようになる。
そして介護者も介護を受ける側もお互いに楽な介護になる。
この視点は今でも間違っていなかったと思う。
それから間もなく新しく結成された施設内リハビリテーションの一員に選ばれ、
毎週、東海大学病院リハビリテーション科へ研修に行くようになった。
それは入居者の外来受診という形をとり、
理学療法士の行なっている療法を実際に間近で見て覚えて、
施設に戻って再びそれを実践することだった。
しかし、マットを敷いて入居者の人たちに関節可動域訓練を行なっても、
誰も見に来て覚えようという職員は一人もいなかった。
そう、私は“出る杭”となり、組織からはみ出した存在になっていた。
(そんなことをやって何になるの?歩けるようになるわけではないのに)
そんな冷たい視線に囲まれていた。
そうして、こう言われた。
「腰掛けの気持ちで、この仕事をしてほしくない。
私たちは真剣にこの仕事に取り組んでいるのだから」
私があいまいな勤務態度ではないということは、この人には伝わっていたはずだ。
おそらく、こう思われていたのかもしれない。
(この人は真面目に仕事をしているけれども、根本的にこの仕事を好きではない。
結局はここからいなくなってしまう人だ)と。
しかし、この頃の私はまだ若くて、
彼女の真意を汲み取るほどの思慮深さに欠けていた。
逆に開き直ってこう切り換えしてしまった。
「確かに私は腰掛かもしれないけど、
この腰掛けの私よりも真剣に仕事に取り組んでいる人は何人いるのか?
私より必死に勉強してよりよい介護をしようと思っている人はどれだけいるのか?」
今ふりかえれば、何とも傲慢で生意気な奴である。
こんな台詞は間違っても言えたもんじゃあない。
しかし、それを平然と言ってのけた当時の私は若かった。
そんな自信は何処から来ていたのだろうか。
とにかくこの女性職員に笑われないように、
更にリハビリテーションの勉強をし始めた。
リハビリテーションの視点に立った身体介護を身に付ければ、
相手の力や意欲を引き出すことが出来る。
片麻痺でも残っている機能を引き出しながら、
少しずつ自信を持てるようになる。
そして介護者も介護を受ける側もお互いに楽な介護になる。
この視点は今でも間違っていなかったと思う。
それから間もなく新しく結成された施設内リハビリテーションの一員に選ばれ、
毎週、東海大学病院リハビリテーション科へ研修に行くようになった。
それは入居者の外来受診という形をとり、
理学療法士の行なっている療法を実際に間近で見て覚えて、
施設に戻って再びそれを実践することだった。
しかし、マットを敷いて入居者の人たちに関節可動域訓練を行なっても、
誰も見に来て覚えようという職員は一人もいなかった。
そう、私は“出る杭”となり、組織からはみ出した存在になっていた。
(そんなことをやって何になるの?歩けるようになるわけではないのに)
そんな冷たい視線に囲まれていた。