光のみちしるべ ~愛だけが現実~

私たちは皆、神様の子供。
内なる神の分光を輝かせましょう。
5次元の光のピラミッドがあなたを待っています。

プロフェッショナル ~オリジナルこそ命~ ⑤

2007年02月17日 09時13分19秒 | プロフェッショナル
リハビリテーションの視点に立った介護は、障害児療育の中で養われた。

小児精神科医師、PT(理学療法士)、OT(作業療法士)、ST(言語聴覚士)などの専門職が、
それぞれの立場から意見を交換し合い、日々の療育の場面で実践していった。
それぞれの子供たちのよりよい発達のために一丸となって進んだ。
しかし、最初から順風満帆であったわけではない。

肢体不自由、ダウン症、自閉症、知的障害などの子供たちに囲まれて、
児童指導員として社会への第一歩を踏み出した私は、
それまで大学で学んだことが何も通用しないことに愕然とした。
大学で学んだことが間違っていたわけではない。
机上で得た知識が私の血肉になるまで昇華されていなかったのだ。

何をやってもヘマばかり。
仕事をとちってばかり。
先輩職員に叱られてばかり。
記録を書いては何度も書き直しを命じられて、
毎日が忍耐の日々だった。
当然、子供たちと打ち解けることが中々できず、
皆私のもとに集まって来ることはなかった。

そんなときに出会った女の子に、Mちゃん(4歳)がいた。
いつもキャーキャー笑いながらあちこちを走り回っていた。
一つの遊びに集中することがなく、
言葉を発することも少なく、
他の子と一緒に遊ぶことはなかった。

私が「Mちゃ~ん」と呼んでも返事することはなく、
ふり向いてくれることもなかった。
他者との関わりが希薄なため、
言葉というコミュニケーション手段が発達しきれていなかった。

そんなとき、
「何度も名前を呼んでください。必ずふり向くときが来ます」
という小児精神科Drの助言をいただいた。
その日から他の職員から「Mちゃんパパ」と言われるぐらい、
何度も何度も「Mちゃ~ん」と名前を呼び続けた。

そんな日々が1年になろうとしたある日、
自由遊びの時間が終わって遊具を倉庫に片付けていたとき、
開けていた扉が何かの拍子に閉まってしまった。
中に一人取り残された私は扉を開けようと振り向くと、扉がゆっくりと開いた。
誰かが扉を開けてくれたのだ。

「すじゅき、せんせい‥」
Mちゃんが扉の間から顔だけのぞかせて、心配そうに私を見つめていた。
「Mちゃん‥」
涙が出そうなほどの瞬間だった。
「Mちゃん、心配して扉を開けてくれたの?ありがとう!」
思わず抱きしめて、素直に喜んだ。
何か大きなものをMちゃんから与えられたような気がした。

それからというもの、どんなに遠くで遊んでいても、
名前を呼ぶとキャーキャー叫びながら戻って来てくれるようになった。
その経験が私の中心、核となり、揺らぎのない自信となっていった。


そのときのことがあったから、必ず結果を出せるという信念があった。
一人、居室の片隅で20分間のリハビリに集中した。
私を信じてくれる入居者の思いが後押ししてくれていた。
そして、その効果を実感し始めたのは私ではなく、他ならぬ寮母さんたちだった。
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プロフェッショナル ~オリジナルこそ命~ ④

2007年02月12日 08時50分23秒 | プロフェッショナル
介助員という職種は基本的に介護職の下に位置し、
寮母さんたちを補助する役割が主な仕事であった。
だから私の補助を行なうということは基本的に有り得なかった。
そういう役割は存在しないのである。
同じリハビリチームの介護職員も私と一緒に行なおうとしなかった。
孤立無援の闘いが始まった。

基本的に施設内でリハビリテーションを行なう時間帯はない。
毎日が流れ作業のように繰り返す時間の中で、
10分でも20分でもその時間帯を捻出しなければならない。
しかし、その時間帯はあった。

それは3時のおやつが終了すると、
職員たちは一斉に寮母室へ入り休憩してしまう時間帯だった。
かねてから何故こんな摩訶不思議な時間帯が存在するのか理解できなかった。
夕食前のオムツ交換(トイレ介助)まで、約20分の空白時間があったのだ。

私は決してこれを見逃さす、寮母室へ入っていく職員を尻目に、
すかさずリハビリテーションを行なう準備を始めた。
皆は一人だけ逸脱した行為を始めた私を迷惑そうに眺めていた。
しかし、そんなことにはお構いなしに、
空いている居室にすぐにマットを敷いて、
二人の女性入居者を横にし、マット上のリハビリ訓練を行なった。
まず最初にホットパックで関節部位を温めたのちに、関節可動域訓練(ROM)を行なった。
とにかく、東海大学病院の理学療法士(以下PT)に教わったことを忠実に行なった。

決して無理をしないこと。
あとで疲れてぐったりしてしまうまで行なわないこと。
ちょっと物足りないぐらいで終了することなどを心がけた。

来る日も来る日も私一人だけのリハビリが続いた。
それに正比例して、来る日も来る日も冷ややかな視線を浴び続けた。
誰も協力しない。
同じリハビリチームの職員も一緒に行なってくれない。
しかし、それでもやめなかった。
孤立無援の状況でありながらでも、“継続は力なり”をとことん信じた。

時間はほんの20分ぐらいしかないのだ。
その20分で出来ることはわずかだけど、自分が覚えた訓練は精一杯やった。
そして20で切り上げないと、
すぐに介護職員たちから次の仕事に支障をきたすと苦情がくる。
しかし、そのリハビリの効果は徐々に現れつつあった。



[注]寮母→当時1980~90年代の介護職は寮母と呼ばれていました。
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プロフェッショナル ~オリジナルこそ命~ ③

2007年02月11日 16時22分01秒 | プロフェッショナル
ある日、私は一人の女性介護職員に呼び出された。
そうして、こう言われた。

「腰掛けの気持ちで、この仕事をしてほしくない。
私たちは真剣にこの仕事に取り組んでいるのだから」

私があいまいな勤務態度ではないということは、この人には伝わっていたはずだ。
おそらく、こう思われていたのかもしれない。

(この人は真面目に仕事をしているけれども、根本的にこの仕事を好きではない。
結局はここからいなくなってしまう人だ)と。

しかし、この頃の私はまだ若くて、
彼女の真意を汲み取るほどの思慮深さに欠けていた。
逆に開き直ってこう切り換えしてしまった。

「確かに私は腰掛かもしれないけど、
この腰掛けの私よりも真剣に仕事に取り組んでいる人は何人いるのか?
私より必死に勉強してよりよい介護をしようと思っている人はどれだけいるのか?」

今ふりかえれば、何とも傲慢で生意気な奴である。
こんな台詞は間違っても言えたもんじゃあない。
しかし、それを平然と言ってのけた当時の私は若かった。
そんな自信は何処から来ていたのだろうか。
とにかくこの女性職員に笑われないように、
更にリハビリテーションの勉強をし始めた。

リハビリテーションの視点に立った身体介護を身に付ければ、
相手の力や意欲を引き出すことが出来る。
片麻痺でも残っている機能を引き出しながら、
少しずつ自信を持てるようになる。
そして介護者も介護を受ける側もお互いに楽な介護になる。
この視点は今でも間違っていなかったと思う。

それから間もなく新しく結成された施設内リハビリテーションの一員に選ばれ、
毎週、東海大学病院リハビリテーション科へ研修に行くようになった。
それは入居者の外来受診という形をとり、
理学療法士の行なっている療法を実際に間近で見て覚えて、
施設に戻って再びそれを実践することだった。

しかし、マットを敷いて入居者の人たちに関節可動域訓練を行なっても、
誰も見に来て覚えようという職員は一人もいなかった。
そう、私は“出る杭”となり、組織からはみ出した存在になっていた。

(そんなことをやって何になるの?歩けるようになるわけではないのに)
そんな冷たい視線に囲まれていた。
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プロフェッショナル ~オリジナルこそ命~ ②

2007年02月11日 11時17分16秒 | プロフェッショナル
私は次の新しい職場を見つけて、早く辞めてしまおうと考えていた。
言うなれば単に腰掛けのつもりだった。
それまで知的障害児通園施設で働いてきた私にとって、
老人福祉はすべてが時代遅れの産物のように思われ、
介護は児童の療育分野より200年も遅れているような暗い気持ちなっていた。

それは老人介護が医学的または科学的な見地から程遠く、
すべては経験がものをいう世界であり、
声の大きい人の主張が優先されていくという現状だったからだ。
早くここから脱出せねばと考えていた。
単に生活の糧を稼ぐ手段が見つからなかったからここにいるだけなのさ、
と自分自身に思い込ませていた。

しかし、そういう私にもプライドがある。
それまで知的障害児の療育で教えられてきたことを、
そのまま老人介護に実践した。

このお年寄りはどうしてここに来なければならなかったのか。
このお年寄りは今どんな気持ちで過ごしているのか。
今、何を一番求めているのか。

そんなことを考えながら入居者の人たちと接するようになった。

そして、リハビリテーションの本を買い込み、
トランスファー(移乗動作)や基本的な身体介護の勉強をし始めた。
徐々にお年寄りの方たちが、
「いい人が来てくれて本当に良かったわ」と言ってくれるようになった。
しかし、まだ本気でこの分野に取り組もうといく気持ちにまでは至らなかった。
ところが、この気持ちを一変させることが起きた。


つづく

[注]
老人福祉、老人介護の言葉は、
現在、高齢者福祉、高齢者介護と呼ばれていますが、
当時の言葉のままで使っています。
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プロフェッショナル ~オリジナルこそ命~ ①

2007年02月10日 07時02分21秒 | プロフェッショナル
最近、NHK「プロフェッショナル」を見るようになった。
各分野のプロ中のプロたちが登場する。

それぞれのプロフェッショナルたちに共通するのは、
既成概念に捉われないということだ。
先人たちが切り開いた道をなぞるように歩いて行くことをしない。
敷かれたレールの上を進んで行くことをしない。
独自の視点と発想を持ちユニークでインパクトのあるものを生み出していく。

しかし、そこに到達するまでには、それなりの代償を払っている。
挫折や失意に喘ぎ、どん底の日々を過ごしている。
栄光の実績がある人でさえもすべてをかなぐり捨てて、
ゼロからの出発を果たしている。


介護の世界においてはどうだろうか?
22年前、特別養護老人ホームで働いていたとき、
“残存能力の活用”という概念すらなかった。
当然、ベッドで寝かせきり、外出の機会などあるわけはない。
トイレに行きたいと言ってもオムツの中ですればと平然と言う職員。
定時のオムツ交換のとき換えてあげるからと。
週2回の入浴時はバスタオル一枚で待つ車椅子の列、
お粥とお惣菜をごちゃ混ぜにして食べさせる食事介助、
本人の意思、意向はすべて無視され、
短時間で切り上げる人が優秀な介護職員と言われていた。

もちろん、すべての人がそうではない。
しかし、出る杭にはなりたくない。
一人だけ組織からはみ出し、村八分されたくない。
疑問を持ちながらも成す術なく、長いものには巻かれろだった。

そして私はというと、
介助員として介護職員(当時は寮母)の下働きで、
日々雑用の仕事ばかりこなしていた。


(つづく)
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