Drawing Diario

同志社大学クラマ画会2006年度生 北川巧の小作品群展示

画廊番

2010年03月16日 19時20分14秒 | メッセージ
三回生の時にまとめた画廊番の心得がある。
展覧会関係の記事の中で紹介し忘れていたので簡単に羅列する。



●あいさつは「こんにちは」がよい。多くの画廊の開廊時間である11時から17時台までならずっと使えるし、「いらっしゃいませ」の持つ、ただでは帰らせないかのようなプレッシャーがない。

●おしゃべりしないこと。画廊番は二名以上いることが普通だが、彼らがすべて入り口から目をそらし、わいわいと話し込んでいる会場に客は入らない。また、作品鑑賞に集中している時に聞こえるしゃべり声は大変不快だ。

●客ともしゃべり過ぎないこと。特にクラマ関係者との会話は花が咲きやすいが、接客の優先順位はあくまでも{(1)一般のお客さん(2)招待したお客さん(3)クラマ関係者(先輩・卒業生を含む)}の順である。

●お茶は会場の休憩用椅子に腰かけられたお客さんにお出しする。この際、展や作品の感想・アドバイスを聞くとよい。

●来客の多くを占める、通りすがりの一般の方に感想ノートやアンケート用紙の記入を求めるのは少々酷である。それよりも、彼らのこぼす一人言や、作品をみつめる時間の長さなどから反応をうかがい、その様子を画廊番がノートにメモするのがよい。

●芳名録への記入は、その数が展の成果の証明のひとつとなるため、すべてのお客さんに求めたいところであるが、記入を嫌う方もおられるので、とりあえず、すべてのお客さんに帰り際、「ご芳名帳おねがいします。」とお声がけし、無記入分は小さく頁の端にしるしをつければよい。

『クラマ十年史』

2010年03月16日 11時00分22秒 | メッセージ
(以下は第91代の先輩が、2005年(最後の一年分のみ2006年に追記)、ボックスノートに記した文章である。なぐり書きの文章であるが、なぜクラマ画会が京美連の中心として活躍した時代から、有名な「ウラクラマ」の時代へと、部員数や創作への勢いを下落させたのか、そしてどのような過程を経て後の部員たちはクラマ画会を組織として再スタートさせたのかがわかり興味深い。)





●1995年 第84代
一回生が一人も入らなかった。(原因は書かれていない。)
よって第84代は空白の世代となる。


●1996年~2000年 第85~89代
上回生のいない京田辺に美術部らしからぬ人々が入部。「ウラクラマ」を名のる。
「ウラクラマ」は美術よりもマージャン・酒・バイクを愛し、美術部としてのクラマ画会は、2000年頃までほぼ壊滅状態となる。


●2001年 第90代
「ウラクラマ」ともそれなりに付き合える、強力なクラマ愛を持つ人物が幹事長をつとめた世代。
しかし、入学当初10名近くいた第90代部員は、荒れた部内の人間関係のため、約半数が退部し5名のみ残る。
技術レベル、クラマ愛はかなり高かった。


●2002年 第91代
第91代部員は数年ぶりに10名以上定着し、人数の少ない上回と対立することもあった。メンバー間の仲がよく、クラマ画会の組織化再出発にも一役かった。なお、この2002年度生の活躍から、2004年度生が再組織化を完成するまでの三年間を「ウラクラマ」時代からの「過渡期」と呼んでいる。


●2003年 第92代
『クラマ画会規約』を作り直すなど、再組織化に大きく貢献した。過渡期の中では比較的幹事団の牽引力が強かった。


●2004年 第93代
過渡期最後の世代。この代の幹事団の活躍により再組織化は完成したといえる。メンバー間の結束は強いが、ボックスにゲーム機を持ち込むなど、アトリエの私的利用に拍車をかける一面も。


●2005年 第94代
数年前まで不可能であると思われていた20名を越える部員数。行動力・発想力は高いが、しばし暴走ぎみ。アニメ・ゲームに趣向がかたよっている。


●2006年 第95代
これまた20人近い大所帯。正確な人数は誰も把握していない。その特性は一見さわやかだが、いくつか疑わしい点も報告されている。ヲタク化が普及した日本においては比較的健常な人間たちだと思われる(??)
また、本来の「美術部」を志向する動きも見られ、再びクラマに変革の風をもたらす可能性大である。
なお、この年「ウラクラマ」消滅。






…最後に書かれている95代目というのは、我々2006年度生のことである。

この文章で、君たちが所属し、また変革していく現在のクラマ画会の、最も近年の歴史がわかったであろう。
ご覧のとおり、現在のクラマ画会の運営スタイルは完成してまだ日が浅い。
今後のクラマ画会は過去のどの時期を見習い、どの時期を反省すべきかをよく考え、矛盾や不安定さの少ない、理想的な部活動を目指してほしい。