Drawing Diario

同志社大学クラマ画会2006年度生 北川巧の小作品群展示

クラマ画会創設期に関する2011年11月現在の資料

2011年11月08日 15時58分48秒 | メッセージ
クラマ画会創設期に関する2011年11月現在の資料

(資料のみ。解説および仮説未掲載。)

文責
同志社大学大学院文学研究科 北川巧 (クラマ画会2006年度生)




はじめに

クラマ画会の創設期について考える上で、その中心となる資料は、社史資料センターに保存されている『鞍馬画会創立の回顧そのほか』と名づけられた手書きの文書とその付属文書(『鞍馬画会小史稿本』・『鞍馬画会より』)である。『鞍馬画会創立の回顧そのほか』は一九五○年に田中良一氏により書かれたものである。田中良一氏は、クラマ画会最古の部員であり、大学卒業後、同志社職員として、秘書課長、管理部長、社史史料センター長などを歴任した人物である。二点の付属文書も田中良一氏が記したもので、『鞍馬画会小史稿本』は昭和五年(一九三○)に発行された『同志社五十年史』に引用された文章の原本。『鞍馬画会より』は大正十一年七月一日発行の同志社時報に投稿された文章の下書きである。これらの文書が同志社に寄贈された時期については、『人文研50年史』に一九七八年と書かれている。また、この三つの文章が記述および添付されたノートの末尾には、題名こそつけられていないが、創設期に関する記述を含んだ短文がある。
上記四点の記述、およびそれを掲載・引用したもの(『同志社時報』や『同志社五十年史』)以外で、クラマ画会の創設期にふれた文書は、クラマ画会OBが所有していた『鞍馬画会第一回OB展目録』における田中良一氏によるあいさつ文がある。

以上説明した資料を、記述および出版された時期の古いものからa~gとすると、以下のようになる。
a、『田中良一文書』、「鞍馬画会より」(資料b発行以前)
b、『同志社時報』第二○三号、「鞍馬画会より」(大正一一年(一九二二)一二月一日)
c、『田中良一文書』、「鞍馬画会小史」(資料d発行以前)
d、『同志社五十年史』三七四頁~三七七頁、「文芸 絵画 鞍馬画会」の項(昭和五年(一九三○)七月一五日)
e、『田中良一文書』、「鞍馬画会創立の回顧そのほか」(昭和二五年六月一五日)
f、『田中良一文書』ノート末尾の文章(昭和二五年(一九五○)一一月)
g、『鞍馬画会第一回OB展目録』「あいさつ」(昭和三五年(一九六○)九月一九日)
資料a~gは、すべて田中良一氏が記すか、もしくは彼の記述を引用したものである。しかし不思議なことに、それら七つの文章における創立時の表現は二種類のものがあり、それらは創立年の記述を含め、大きく異なっている。以下に七つの資料をグループX、グループYに分け掲載し解説を加え、その後それらをふまえた上での、創立状況の実際についての仮説を書く。なお、資料a(『田中良一文書』、「鞍馬画会より」)と資料e(『田中良一文書』、「鞍馬画会創立の回顧そのほか」)は長文であるが、初期のクラマ画会の実情を、その背景も含めて克明に記述している好資料であるにもかかわらず、未だ活字化されずにあるものなので、この場を借りて全文を掲載する。


グループX

a、『田中良一文書』、「鞍馬画会より」(大正一一年(一九二二)一二月一日以前)

   鞍馬画会より
 校友諸氏は母校の学友会に於ける運動部なり音楽部なりの存在を御存じでも鞍馬画会と称する絵画部の存在を御存じの方は極めて少いと思ふ。其れは絵画部の歴史が浅いのと、会の性質上従来其の活動が校内のみに止り、尚絵画部として未だ一回も時報上に其の状況を報告せなかった事に起因する。今其の歴史と現在の動作とを明らかにし、将来に対する抱負を述べて、啓する校友諸氏に対す吾々の勤めの一端を果たす。
同志社にも明治四十二、三年頃には生徒の間に絵の団体が存在して居た様だが、大正元年頃には絵の団体と言ふ様なものは存在して居なかった。処が大正三年に当時の大学及普通部の学生及生徒の中で絵画に趣味を有する者が集まってゴンドラ倶楽部なるものを組織して其の第一回洋画展覧会を普通部の通学生休憩室(現今の立志館最左端教室)に開いた。――此処に於て私は主なる出品者と其の作品に就いて書かねばならないが報告文が余りに長くなる事を恐れて中止する。以後の展覧会の場合も同様――此のゴンドラ倶楽部から今の画会まで達するに三階段を踏まねばならなかった。其の第一は、ゴンドラ倶楽部時代と仮に名付けやう。此のゴンドラ倶楽部は、唯一回しか作品発表をせなかった。そして直ぐ其の翌年(大正四年)には、第二の時代に移った。此の時代に於ては会員各自の熱心さは非常なものであった。時々会員が揃って写生遠足を行った。又月に一回或る土曜日に各自の作品を持ち寄ってお互いに批評を為しあった。其の席に於ては随分激烈な議論も行はれた事を記憶してゐる。やはり此の批評会の或る席上に於てであったが、ゴンドラ倶楽部なる名称にかへて鞍馬画会なる名称が附せられた。此の名称の起原は、且つて吾々の行った最初のスケッチ遠足の目的地が鞍馬であった事に依る。斯くして此の年の五月頃に又第一回洋画展覧会が行はれた。其の後会員各自の努力に依り大正六年三月には第二回洋画展覧会を開いた。然し会は未だ現在の様に学友会に入り其の方から補助を受けてゐる校内の公の団体では無之て、少しばかりの大学生と中学生との会員が一致団結して総べての事を処理して居た。此の第五回((ママ))展覧会を開いた時であった。画会の存廃問題が起ったが、見えざる御手に依って安全に導かれ其の翌年に於て第三の時代に其の第一歩を踏み入れた。即はち学友会は鞍馬画会に対して学友会入会を勧告して、鞍馬画会の方では種々な議論があり結局、学友会に入るも其の行動は絶対に自由であり他よりの干渉は絶対に許さないと言ふ条件付で入会する事になった。(此の時、鞍馬画会関係者中には鞍馬画会既に死せりとまで言った人も在った。)此処に於て永らく力を尽し合った中学生の会員と大学生の会員とは分離して各自の学友会に入り、画会は校内の公の団体となり名称は大学部絵画部が受け継ぐ事となり中学部の方は中学絵画部と称する事になった。其の後大正九年秋、第八回展覧会が青年会館で開かれ次いで大正十年中に第九回及び第十回洋画展覧会を開き、大正十一年二月には第十一回洋画展覧会を開く事が出来た。此の間悲しい事には初期よりの会員であった、小野鎮君が他界せられた。吾々は第十一回展覧会を其の遺作品展覧の為めに捧げて哀悼の意を表した。然るに不幸は又襲った。其れは会員山田完一君が他界せられた事である。再び謹んで哀悼の意を表する。
書くことを忘れて居たが当会には学生の幹事一名を置き部長には教授がなってゐる。一回の展覧会には平均三十点位の作品が集り主に生徒の出品であるが教授の出品もある。今後は現今では各自勝手に行ってゐる筈の研究を、一週に二回位会員が一所へ集り共に研究を為し、も少し組織を改めて、大学部のみに限らず、全同志社より作品を募集して真面目な絵のみの展覧会を開き度く思って居る。又第一回展覧会よりの良い作品を集めて地方へ持って行き絵画展覧会に依って同志社宣伝を行ふ事も吾々の希望である。其の時は校友諸氏の御声援を乞ふ。
顧ると今迄歩んだ道に就いて深く天父に感謝せずには居られない。之と同時に吾々の作品に就いて理解のある批評を与へて下った諸先生に厚く報ゆる為めに益々勉強しやう。(田・良・報・)

f、『田中良一文書』ノート末尾の文章(昭和二五年(一九五○)一一月)

本会は同志社各学校学友会絵画部及曽つてそれに属した校友同窓教職員の連合クラブである。大正四年の結成で本年に到る三十五年間微力乍ら同志社学生の教養向上のため一灯を捧げて来た。発会当時同志社普通学校教頭波多野培根先生の激励の辞に“若し諸君の企が成功すればピューリタニズムの同志社に欠けた重要な一面を諸兄によって補うことが出来るから努力してほしい”とあったことを想起して更に来る可き年への努力を誓うものである。
前頁はがきは最初絵にする心算であったが代表的風景画が揃わないので原田氏の写真に拠ることにした。写真提供を快諾された同氏の厚意に対し深甚の謝意を表する。
 昭和廿五年十一月 同志社鞍馬画会

(筆者注:この文章の前数ページには、同志社に関する記念はがきの図案スケッチがある。)


g、『鞍馬画会第一回OB展目録』「あいさつ」(近藤恒雄氏蔵)(昭和三五年(一九六○)九月一九日)

       あいさつ
 大正三年秋同志社学生生徒の有志が絵の同好クラブを設け、翌四年春鞍馬へ遠足してスケッチを楽しみ、帰えりに上賀茂橋畔の焼餅の甘さに疲労を忘れ、雑談のうちに鞍馬画会と名称を思い付いてから早や満四十五年が流れ去り、此の間多人数の卒業生を送り新入生を迎えながら、画壇の風潮をも敏感に受け入れ、お互いの教養をも深め、趣味同好親和の会として使命をよく果して参りました。
 然し戦後、絵を描くことの異常な普及は既存の学生画壇をして趣味の会にとどまることを許さず、学生たちもこの一つの転機に立ち、一歩前進して二科、行動、独立、新制作等に出品する者があらわれ趣味の親和団体にも旧来に見ない活気を生じて参りました。
 斯くして誰云うとなく、古い先輩との交歓展を開く話がまとまり、本日の催しと成りました。年寄組は永い間絵筆を執りませんので、前世紀のカビの生えた絵も御座いましょうが、京都の素人画壇の一つの祭りとして御高覧を得ば幸甚です。
 なお此の度は平素直接間接御同情を賜っております諸先生各位が、奨励の思召しを以って賛助御出品下さいましたことは感謝にたえません。厚く御礼申し上げます。
  昭和三五年九月十九日
     大正四年当時最年少の会員
      同志社管理部長 田中良一




グループY

b、『同志社時報』第二○三号、「鞍馬画会より」(大正一一年(一九二二)一二月一日)

       絵画部
      鞍馬画会より
 遠くに住はれる校友諸氏は、母校の学友会に音楽部或るひは端艇部のある事を御存じでも、鞍馬画会と称せられてゐる絵画部の存在を御存じのお方は、極めて少数と思ふ。これは主として当会の性質上、従来其の活動が校内のみに限られた事、或は絵画部として、常に事ある毎に、時報上に報告せなかった事に起因する。故に吾々が去十月六・七両日に亘って洋画展覧会を開き、其の回数今や十三を重ねて、漸次質に於て向上しつつある今日、其の第一回より今までを知ってゐる者の一人が、此処に其の沿革と現在の状況とを簡単に説明する事に依て、敬する校友諸氏に対する吾々の義務の一端を果す事は、当画会としての願ひである。
同志社に於て明治四十三、四年頃には生徒の間に同志社画会と言ふものが存在したと聞くが、大正元年頃には既に解散してゐた。然るに大正五年、当時の普通部生徒の中で絵画に趣味を有する者等が相集って、自己の作品を発表する為めにゴンドラ倶楽部と称する団体を組織し、一般生徒からも作品を募集して、其の第一回洋画展覧会を普通学生休憩室(現在立志館第九番及十番教室)に開いた。(此処で記者は、展覧会の状況と作品目録とを掲げる事は、会の沿革内容を知る上に於て最も重要な事と信ずるが、報告文が長引く事を恐れ中止し、以後の場合も此の例に従ひ、最後に、絵画会に出品して会の発達に尽力し又当会に好意を寄せられた全部の人々の氏名を年代順に記する事にしたい。)然し、ゴンドラ倶楽部なる名称は当回限りで廃止となり、同年五月に開れた展覧会には、出品者に大学部学生をも交へて、鞍馬画会第一回洋画展覧会と称せられた。偖て会の新名称は、当時会員が屡々一団となって土曜日に方々へスケッチ遠足を行った、其の第一回遠足の目的地が鞍馬山であった事から生れた。其の後大正六年三月には第二回洋画展覧会が開かれて、前回に比して良い作品が現はれた。此の間、会場として教室を使用する事に就いては、波多野先生の御同情を忝うし、画く道に於ては絶えず三輪先生の御親切なる御言葉を戴いた。斯くする中に、学校当局は会員の努力を認め鞍馬画会に対して公然学友会に入会せん事を勧告した。画会の中では種々議論もあったが、結局入会しても其の行動は絶対に自由なる事と云ふ条件付で愈々大正六年四月から学友会に入会した。依て従来は大学及中学内有志者の団体であったのが、分離して大学絵画部及中学絵画部となり、鞍馬画会の名称は大学絵画部に於て引き継ぐ事となった。(当会の組織に就いては学友会規則参照)斯くして第三回洋画展覧会を大正六年十月に、第四回(大正七年三月)第五回(同年十月)、第八回(大正九年十一月)、第九回(大正十年四月)、第十回(同年十月)を開いた。(後略)


c、『田中良一文書』、「鞍馬画会小史」(資料d発行以前)部分

 (前略)今記憶をたどり、展覧会目録をたよりにして、会の出来た当初より今迄の経過を極く簡単に筆録してみる。
大正五年当時の普通学校五年生の中で、絵画に趣味を有する山口敬一郎、中村弥三郎、片岡思拙の三氏が集って、ゴンドラクラブといふものをつくり、同年三月十七、八の両日普通学校通学生控室(現在立志館第九番及第十番教室)で展覧会を催した。今、当時此の会の成立事情を明らかにするために片岡君の手稿を次に引照する。
 前略
 ゴンドラクラブは山口敬一((ママ))君と私とでお互に画を好んで居る事だし卒業記念に展覧会をやってはといふ話を出して完然に間に合せの名につけたのでした。山口君は其頃前田紫舟氏の指導を受けて居ましたので八号を四,五,点持って居た様です。私は出したい様なのが無いので勉強はそこのけでかきました。勉強がすむとすぐ写生にはしったものです。その■■故中村弥三郎君、伊達宗敏君で、そのために中村君も同人として出す事になったのでした。私は卒業のその朝まで自分の卒業を知らなかった位でした。卒業等その時の私には問題ではなかったのです。後略。
 此の会は今から思ふと極く幼稚な絵ばかりの集りであったが総数六十八点、出品人二十一人といふ大勢であった。当時普通学校の図画師範であった明治末期の住吉派の老大家守住勇魚翁は武者絵と白衣観音との二幅の日本画を出品せられた。武者絵は正確な故実に基いた非常に精巧な住吉派の密画であったが、白衣観音は主題からして当分に狩野派の影響を受けたものであったと記憶してゐる。そして学生の出品は、皆洋画のみであった。青田五良氏の絵は此の当時から既に一風変ってゐたし、山口敬一郎氏の趣ある糺の森のスケッチは■■の■■と朱塗の垣に当る光線の美しさを描いたもの、又中村弥三郎氏は『弥生』と号して『駅路』、『野営地』などの叙情的な風景スケッチをものし、片岡思拙氏は又天地鞭也とも号して中学■■の学生とは思はれない素人離れのした着実温健((ママ))な画風を以て一同から尊崇を受けてゐた。山口氏には智があり中村氏には才があり片岡氏にはすぐれた技があった。かくて鞍馬画会の前身といふ可きゴンドラクラブが成立した。然しゴンドラクラブと言ふ名称はそれのみで立ち消えて同年十月十四と十六日とに開かれた展覧会には出品者に大学生をも交へてサイエンス■■■階西南、西北の二教室を会場として開かれた展覧会には『鞍馬画会第一回洋画展覧会』と■称せられた。(後略)


d、『同志社五十年史』三七四頁~三七七頁、「文芸 絵画 鞍馬画会」の項(昭和五年(一九三○)七月一五日)部分

鞍馬画会 此会の成立に就いては、田中良一氏の手記があるから、それを左に掲げる事とした。
 此の会は最初より今日に至るまで各時代を通じて絵画趣味に依って在学生の少数が自然と連結された集団であった。大正五年以来、大正十四年に至る迄、約十年間歳月の流れに従って、会員に移動があり、展覧会、作品批評会、美術講演会、スケッチ遠足会、等々色々なものを催して来たが、要するに、お互の趣味満足以外に、理屈めいた、むづかしい目的を持ってゐなかった。会の規則も無ければ、会長もなく、(最も学友会に属してからは、学友会会則に従って一人の理事を選出し、二人の幹事を置き、教授の一人を絵画部部長に戴く事になったが。)お互に心情をよく理解し合って、眼と眼でものを言ひ、絵と絵で意思の交換が出来得る、極く少数の者と、鞍馬画会といふ名称とのみが存在した。そこで、鞍馬画会といふ名称に就いて、一つ説明を要するが、世間では、天狗ばかりが集ってゐるから鞍馬画会と称してゐるのだと、合点したやうな事を言ってゐる人を、相当多く見受けるが、それは余りに穿ち過ぎた説明でも無いやうである。実際はゴンドラクラブ展覧会当時の者達が、屡々一団となって、土曜日にスケッチ遠足を行った、その最初の地が鞍馬山であったところから、其後間も無く会名選定の際、誰かが第一に鞍馬と云ふ文字を、頭に浮べたと見えて、鞍馬画会なる名称を提出した。すると鞍馬は大変語呂がよく耳ざはりがよかった為め、直ちに一同の賛同があり、会名は『鞍馬画会』と決定してしまった様な次第で、名称の裏にむづかしい意味も何にも無い。
 さうして此の会がその前身ともいふべき、同志社画会から生れ更った許りの赤ん坊が、即ち前記のゴンドラクラブで、之も田中君の筆に由れば、
 大正五年当時の普通学校五年生の中で、絵画に趣味を有する、山口敬一郎、中村弥三郎、片岡思拙の三者が集ってゴンドラクラブといふものを造り、同年三月十七、八の両日普通学校通学生控室(立志館現在第九第十教室)で展覧会を催した。
といふやうなしだいで、之が鞍馬画会となって、
此の会は今から思ふと、極く幼稚な絵ばかりの集りであったが、総数六十八点、出品人二十一人といふ大勢であった。
そして第二回の展覧会は、其後又理化学館で開かれてゐる。斯く一、二回の展覧会によって、会の存在が校内の人々に可なり強い印象を植ゑつけたと見えて、学友会は鞍馬画会に入会を勧告して来た。会の内部には、学友会への合流に対する反対議論も、可なり強硬であったが、結局勧誘に応じて、大正六年四月から学友会に入会して、会は二分せられ、一つは大学部学友会芸術部の一部となり、一つは中学部学友会絵画部となり、鞍馬画会といふ名称は、大学部に於て引継いだ。
以後今日まで十数回の展覧会を催してゐる。(後略)


e、『田中良一文書』、「鞍馬画会創立の回顧そのほか」(昭和二五年六月一五日)部分

昭和廿五年六月十六日稿。
         (四百字詰16枚) 
 鞍馬画会創立の回顧そのほか
          田中良一
 此の原稿は私の手許に写しがありませんので御使用済みの上は御返却を御願い致し度う存じます。
   鞍馬画会幹事様  田中良一


   鞍馬画会創立の回顧そのほか
              田中良一
  一、同志社と芸術境
 初期の同志社では、当時の学園を支配した米国の清教徒的感化と、熊本伝来の武士的な素養とは両々相俟って、同志社として造形美術の温床たらしめなかった。同志社に永く国文学を講ぜられた故三輪源造先生の談にすれば、明治二十二、三年頃、先生の学生時代、クラスの演説会で美術に関する演説をされたら、同級生が『美術!?』と云って盛んに冷笑したさうである。美術なるものを全く遊芸視したのであった。
 当時同志社では、日本文明の進歩に貢献するとか或は社会改革をやるには、先づ基督教を伝道するより他に途が無いとの考が、一般学生の間に満ちていたらしい。後年日本の微量分析化学界に偉大な貢献をせられた故中瀬古六郎博士は、同級生が皆伝道師たらんと競ふ中に在って自然科学者たらんことを志し、独りなやまれたと云ふことを博士から聞いたことがある。斯かる環境のもとに於て芸術境発達の素地が出来なかったことは当然であった。
 故に同志社二万八千の男女卒業生中、画家を探すなら、古くは新島先生在世中、明治二十一年普通部卒業の故湯浅一郎画伯(湯浅総長の長兄、二科会創立者の一人)と古い時代に文展に入選したことのある名古屋の兼松芦門と云ふ日本画家とただ二人で、現代では飯田清毅氏、田代正子氏、中山泰輔氏、谷出孝子氏の四人である。然も中山氏は英文科に一寸在学されただけの推薦校友であり、その他の諸氏は皆同志社を去ってから自ら辛苦してその途を開拓された方々で、同志社が育てたとは云い難い。若しこれ等の人々が万一もっと長く同志社に在学していたら、中途半ぱな人間に成り終り、遂に自己の真価を発揮することが出来なかったであらう。
  二、同志社を飾る絵画
 初代の同志社は、神学館に穹窿式の高い天井を有する礼拝堂をつくり、素朴ながらゴシック風の礼拝堂を建てた。然しニューイングランド直伝の組合協会であるから画像や壁画は掲げないし、学園には凡そ絵画らしいものは全く無かったやうである。
 その後米国から贈られた理科学館寄付者ハリス氏の画像、若王子神社の祠官伊藤快彦画伯寄付の同氏筆新島先生画像、原田直次郎氏筆山崎為徳氏画像の三枚以外に絵は無かった様子である。画像に成る資格の人物が未だ出なかった故もあらう。次いでアメリカの家庭雑誌の表紙絵のやうな甘ったるいデヴィス博士画像が米国から贈られて来たのが明治四十二、三年の頃で、その他の画像は最近十五年以来のものである。その中には湯浅一郎氏筆、ラーネッド博士、デントン女史、中村栄助氏、岡精一氏筆原田社長、中掘愛作氏筆牧野総長、さきのハリス氏像などの名作もあるが、反対に画像の主その人に失礼に当るやうなのもある。京大へ行くと歴代学部長や教授の肖像は皆名家の筆に成る名作が揃っているが、同志社と名作とは悲しいことに縁が遠い。同志社にある画像は何れも画像の主の門人かその関係者が遺徳を追慕して作成し、これを寄付したもので、その縁起は実に美わしいが、寄付者の絵画への理解度の深浅によって画像に斯くも神品と駄作とが出来たのである。
 学生会館に二、三の絵が掛っているが、会館が出来上がった当時、島本財務部長が、学生会館は鞍馬画会員の絵で装飾してほしいと、絵の寄付を勧められたので、私は鉛筆の『藪の小径』を、有賀先生は『風景』を二点、住谷先生は大作『礼拝堂』を、目良忠正君は卒業に際し『京域風景』を寄付して行った。今後続々会員の作品が寄付されて会館の壁面を美わしく埋めてほしいものである。
  三、同志社画会とゴンドラクラブ
 同志社に万一芸術境の発達することがあっても、同志社は美術学校でわないから、若し画家たらんと志す者があったら一日も早く同志社を飛び出して、あらゆるものを放棄、素裸になって画を取組むべきである。貧困恐るるに足らず、飢餓憂うるに足らず。然し画家を志さなくても、絵画を鑑賞し之を深く理解するためには自らその境に入る方がよい。(私は絵の全然描けない美学者の美術批評を信じないものである。京大の井島博士やラスキンの美術批評に権威のあるのは彼((ママ))も亦画が立派に描けるからである。)大学に学問する青年が人生行路に於て高い教養を身につけるため薔薇の花咲く絵画の小径に歩を踏み入れることは意義あることである。斯る意味でピューリタニズムの同志社にも時代の下降するに従って漸く絵筆を執る学徒が生じて来た。文献にすれば、同志社創立から三十三年を経た明治四十一年に始めて同志社画会なるものが誕生している。当時普通学校に在学した七人の同好学生の集りである。不幸にして此の会は続かなかった。然し、その中の一人、中井政次郎氏が京都絵画専門学校へ進み、在学中文展に入選した。今熊野の陶窯に取材し代赭系の岩絵の具を厚ボッたく重ねた洋画風の日本画であった。
 次いで六年((ママ))を経、大正五年普通学校五年生山口敬一郎、故中村弥三郎、故片岡思拙の三氏がゴンドラクラブを組織して、三月卒業期に展覧会を開き、当時四年生であった故伊達宗敏君や私も招かれて出品した。今もそのプログラムが残っている。
  四、鞍馬画会の誕生
 同年四月片岡、中村二氏は同大へ、山口氏は官立高校へ、伊達君と私とは普通学校五年生に進学した。大学には同好の士黒田英三郎、久保嘉太郎、陌間欣三郎、故小野鎮の諸氏が在学していたので大に力を得、之等が集って共に土曜日を郊外スケッチや批評会に費した。半ドンの午後、教室に集って、出町の六方焼や上立売のボタ餅を食べながら、大学の先輩諸君の語る芸談を聴くのは非常な楽みであり、啓発を受けたことも大きかった。
 その第一回写生会を開いた地が鞍馬街道であったから、帰途上賀茂橋東詰のボタ餅屋に休息して、談たまたま会名に及び、誰かが鞍馬画会は何うかと云った。白馬会などと云ふ名も先入していて、語呂も調子よく、それが良かろうと一決に及んだ。清々しい若葉の頃であった。
  五、当時の絵
 当時私は絵を描くと云っても、今の諸君のやうに研究所通いをしたり、裸体写生をしたり又むやみに構図を気にすることもなく、まして教養の一つにしやうなどと云ふ作為もなく、自然界の美しさに接すると反射的に起る描き度いと云ふ衝動にかられて、めくらめっぽうに筆を執ったので、手近な材料を用い鉛筆や水彩が多かった。殊にチェッコスロヴァキア製6Bの鉛筆は盛んに用いた。後に油彩を得てからも精々六号が最大で、ずっと後に到って八号人物迄行った。大学の諸君もその程度であった。
 当時はまだまだ清教徒的空気が学園の主流をなしていて、演劇(芝居と云った)は勿論映画(活動写真と云った)を見ることは良くないことの一つに数えられていたから、裸体写生などは想いもよらぬことで、そんなものは見るどころか考えても悪いことであった。よその学校でわ石膏のミロのヴィナスを木炭で写生するのに、同志社ではチャペルの前の節くれ立った椋の木の太い幹の凹凸を丹念に写生するのである。当時私は十代の子供で画界の大勢も知らなければ無論欧州に何んな絵が流行しているかも知らなかった。だから守住勇魚先生と云ふ六十才位の図画の老先生(土佐画系住吉派の家に生れ、工部大学の伊太利人御雇教師フォンタネージや本田錦吉郎の門に学んだ)から、浅井忠著わす図画手本により、教室で教へられた絵を絵と心得て写生をやった。先生が先の太くなった4Bの鉛筆で一本一本たしかな線を引いて陰影をつくって行かれるのであるが、自分がそれを真似すると、かびが生えているか、よごれているやうに見えるので閉口したことを今でも記憶している。
 大学の諸君は当時流行の印象派や未来派などと云ふものに接していたので、そんな影響のある絵も描かれていた。何んでもスーラのやうな点描もあったやうに思ふ。然し概して時代の波に超然として自分独自のものを描いていたのでわないかと思ふ。或る時の展覧会の評に、何れも奥行きの無い絵であるが、専門画家の真似をせず、素人らしく思い思いに描いているのが嬉しい、とあった。又もっと自然を愛さねばならぬ、との評も受けた。年長の大学生諸君には此の意味がよく解ったらしいが、精神年齢の至って低い私には、自分より小さな犬猫小鳥などを愛すると云ふことは解るが、大きな自然を愛するとは何んなことをするのか一向わけが解らなかったと云ふ珍談もあった。
  六、鞍馬画会の学友会入り
 鞍馬画会は発会一ヶ年の成績を大学中学の両校学友会に認められて、双方の学友会から入会を勧誘されたので大正六年四月から学友会絵画部として存在することになった。こちらから頼んで入れてもらったのでわない。此の時学友会からいくら年額予算をもらったか不明であるが、三十五円程でわなかったか。三十五円あれば年に三度の展覧会を開いた上、茶話会費も出たと思ふ。当時、これしきの経費をもらって学友会にしばられるのは画会の自由のために悲しむと云ふ入会反対論もあったが、大勢は入会に決した。爾後画会は大学と中学に二分してしまった。それで中学の方は『同志社中学学友会絵画部』と云い、大学の方は『同志社大学学友会絵画部』と云ふ可きで、『鞍馬画会』と呼ぶ場合は以上両絵画部及先輩卒業生をも全部引っくるめての全同志社の団体と云ふわけになる。然し実際問題として鞍馬画会は大学絵画部の連中が中心となり運営して来た。
  七、交友と絵画への開眼
 この項は私事が中心になるが、一言触れて置かぬと本稿の目的を完うしない。
絵に対する私の眼を開くことに最も大きな影響を与えたのは畏友故青田五良氏と級友河辺篤寿君とであった。それは画会創立よりずっと後のことに属するが、青田氏がセザンヌを語りゴッホに傾倒した頃、絶えず口にした言葉は『物が在るやうに描こう』と云ふことであり、又、哲学概論の時間でも久保正夫先生からアピアランス アンド リアリティの問題について講義を聴いたりした時であったのでそれ等の影響により、私の絵は急に進化した。当時描いた静物の一、二枚を先にふるさとの土蔵の中で見出したが、色彩が単純ながら、よくもこれだけしっかり対象と取組んだものだと、我ながら思った。河辺君は私の級友である。油絵をよくし、俳画にたくみに、漫画を描き、版画をつくった。又和歌をよみ俳句をものし、津田青楓を語り小杉放庵を話し、尾上八郎の上代様の書を論じ句作に於て河東碧梧桐に私淑した。同氏の下宿が相国寺東門前町に在ったので同じく趣味の広い級友宮田治郎君(現富士銀行西陣支店長)と共に河辺君の室に上り、北に緑の空地の見える窓べりに寄って芸談を交えた。斯くて河辺君の芸談が広く日本趣味への開眼を輔けてくれた。河辺君は明治生命の本社に就職したので東上の際には会うこともしばしばあるが談は絵や趣味談以外に出ることはない。以上の友人に対する感謝の念は綿々として尽きない。
序に当時私が尊敬した画家の名を回顧してみると、セザンヌ、ゴッホ、中川一政、石井鶴三、坂本繁治郎、中村彝、曽宮一念などを挙げ得る。これは今日も尚変り無い。但し年を重ねた今日、浦上玉堂や岡田米山人をこれに加える。自然を愛する私は、両高士の絵が発散するすごい森林の気に打たれるのである。又肖像画にも特に興味を持つ。鎌倉時代禅僧の頂相(チンゾウ)や信実、豪信の似絵や東州斎写楽や渡辺華山の描いた肖像には、洋画の肖像画以上の興味を覚える。自らも紙本に白描で先づ祖父の像を描いてみたら、岡精一先生が材料も様式も日本画のそれであるが、本質はやはり洋画だ、と評され、父は亡父が今にも語らんとし給ふごとくであると云ってくれた。此の次は父を描くつもりでいる。年を重ねて東洋的なものに親しみを覚ゆるのは、常人の歩む常道であらう。
  八、画会が同志社に負ふ責任
 回顧すれば楽しかった想い出はつきぬ。発会してから早くも三十四年の歳月が流れた。当時十代であった私は五十歳になった。発会以来今日迄を回顧すれば随分永い物語とならう。その間直接間接画会の上に親切な助言を下さった諸先生方の御恩を忍び深い感謝を捧げねばならぬ。
 普通学校教頭故波多野培根(マスネ)先生は発会当時、展覧会のため教室使用の許可を得に行った私に、
 『若し諸君の企が成功すれば、ピューリタニズムの同志社に欠けたる重要なる一面を補ふことが出来るから努力してほしい。学校側は出来るだけの便宜をはかり後援を惜しまぬ。』
と云われた。私は片岡、中村、黒田諸氏が集っている所に走り、教室がたやすく借りられたことと波多野先生の右の言葉を伝えたら、皆が目を円くして『バイコンがそんなことを云ひよったか……』と驚くと同時に非常な激励を感じ自信を得た。波多野先生と云へばピューリタンの親玉で、生徒から畏敬せられていたから、よもや先生の口から今のような言葉がもれるとは思はなかったのである。
 この言葉は鞍馬画会の今後の在り方についとも雲の柱、火の柱となって行く手を教え示すものである。のみならず音楽部、茶道部等、学友会文化団の存在意義をも強く裏付け、更に同志社教育の在り方にも重大な指針を与ふるものである。
 波多野先生と同じ意味に於て大工原総長は画会へ銀製カップ一基を恵与してその活動を奨励せられた。画会ではその年に一番優秀な作品を公表した者が一年間これを保持することに定めた。
 波多野先生の言葉の如く、大工原総長の期待の如く、鞍馬画会が同志社に負ふ責任は実に大きい。努めざる可けんや、である。
 聞けば大学学友会関係者か自治会関係者かしらないが、本年度学友会予算編成に際し、絵画部や茶道部は趣味団体であるから、部外団体として学友会外に追い出せ、と論じた者があったと云ふが、暴論も甚だしく、斯様の愚論横行は、美術を遊芸と誤認して冷笑した同志社六十年前の啓蒙時代に逆転するものである。斯様の愚論こそ学友会の本質を解せぬ暴論である。画会の諸君は、日本民主化運動の時勢に便乗し、進歩派と自称し合法に名を仮る少数能弁の徒の言論暴論に負けてはならない。全文化団が強く団結し輿論に訴え斯る愚論の少数者を啓蒙すると同時に今後再び斯る愚論の徒を学生代表の位置に座せしめない方法を講ずる必要がある。学友会や自治会役員の選挙に当っては候補者を慎重に吟味し、斯る愚論の徒を選出しないやうにし度い。
 最後に画会が御世話になった諸先生の名を記して感謝の意を表したい。波多野先生、大工原総長の好意は上述の通りである。故守住勇魚先生は図画の先生として、故三輪源造先生、発会当初批評家として親切な助言を下さった園頼三、片桐哲、本宮弥兵衛、故久保正夫、有賀鉄太郎、真下信一、六先生は学友会絵画部長として学友会で一番弱体の当部を保護下さり、殊に久保、有賀両先生は自ら立派な作品を展示されて会員を指揮された。浅野恵二先生は大工原総長時代に何くれとなく尽力下さった。中堀愛作、伊谷賢蔵、水清公子、飯田清毅諸先生は作品を特別出品し、或は実技の指導に於て一方ならぬ御尽力に預った。満腔の謝意を表します。(二五・六・一五日)
(筆者・同志社秘書課長)

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