
10日は午後から佐久市で北方領土返還要求県民大会が開かれました。県の市議会議長会も主催団体に加わっているとのことで動員要請があり新人議員中心に参加したものです。主催者を代表して寺島県議会議長が挨拶。その後大会宣言や返還要求の標語の表彰式があり、引き続き高校生による北方領土訪問報告がありました。
その後元外務省に勤務していた方から、北方領土に関する歴史的経過についてのお話しがありました。私たちも北方領土のことは聞いたことがあっても、その歴史的経過について聞くことはほとんどありません。とてもよくわかりました。かいつまんでご紹介させていただきます。

1、左上 1855年、日露通商友好条約で日本とロシアの国境は択捉島とウルップ島の間に決められ、樺太は両国民の混住の地として定められました。
2、右上 1875年、日本は千島列島をロシアから譲り受けるかわりに樺太全島を放棄しました。
3、左下 1905年、日露戦争の結果日本とロシアはポーツマス条約を締結。北緯50度以南の南樺太が日本の領土となりました。
4、右下 1951年、日本はサンフランシスコ平和条約で千島列島と南樺太の権利を放棄しました。しかし放棄した千島列島には択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島は含まれていません。しかも放棄した地域が最終的にどこに帰属するかも定められてはいません。
第二次世界大戦末期の1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦。戦争が終わった8月18日から千島列島への攻撃を開始しウルップ島まで侵攻。択捉島以南に米軍がいないことがわかると9月5日までに北方4島を占領し、これまで不法に占拠しています。
終戦時のソ連のふるまいはまさに火事場泥棒的でした。あのシベリア抑留とそれに引き続く強制労働は何の国際法の根拠もなく不当なものです。シベリアに抑留された旧日本軍は60万人、シベリアの地で命を落とされた方は6万人とも言われています。
国際法上捕虜への虐待は禁止されています。ポツダム宣言でも兵士は家庭に返すことが明記されています。しかしソ連は酷寒の地シベリアにおいて満足な食料や生活環境も保証することなく、鉄道の建設や森林伐採などに使役し、その結果多くの若い命が奪われました。
北方領土については歴史的経過からもロシアの占拠は不当なものであり、その返還を求めるのは至極当然のことです。この問題をもっと多くの方々に知っていただき解決のために力をあわせて行きたいと思います。