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是非にあらず

小手前の安心は無い

下山事件 関係した諸々

2012年02月22日 12時59分49秒 | 事件
多くの情報があり、前に書いたものは一部に過ぎない。
他殺説に至ってはあまりある情報がある。
例えば下山総裁の死体を運んだ男というのもある。

さて、

三越失踪までのルートは何を意味するのか?
三越失踪から東武鉄道五反野駅までの空白は何をしていたのか?
五反野駅周辺での行動は何を意味するのか?

この3点は気になります。


最後に。

下山総裁を轢いたD51 651機関車は、1943年(昭和18年)10月26日に死者110名、負傷者107名を出した常磐線土浦駅列車衝突事故を起こした車両でもある。

捜査には平塚八兵衛も参加していた。

色々推理小説家たち江戸川乱歩、木々高太郎、水谷準、香山滋、高木彬光氏らが推理をしている。

ヤクルトスワローズは当時国鉄総裁の2代目に就任した加賀山之雄総裁が設立を発案した。




全研究下山事件様、下山資料館様、ぴゅあ☆ぴゅあ1949様、無限回廊様、銀座一丁目新聞様、Wikipediaを参考にさせて頂きました。



下山事件 最後は

2012年02月22日 10時29分44秒 | 事件
朝日新聞記者矢田喜美雄と東大法医学教室による遺体および遺留品の分析では、下山総裁のワイシャツや下着、靴下に大量に油(通称「下山油」)が付着していた。上着や革靴内部には付着の痕跡が認められず、油の成分も機関車整備には使用しない植物性のヌカ油であった。
→当時は物資不足で、機関車の油に植物油を混入することは通常行われていたという反論もある)ことや、衣類に4種類の塩基性染料が付着していたこと、足先が完存しているにも拘らず革靴が列車により轢断されているなど、遺留品や遺体の損傷・汚染状況等に極めて不自然な事実のあることが次々と浮かび上がっていた。特にヌカ油と染料は、下山総裁の監禁・殺害場所を特定する重要な手掛かりになる可能性もあるとして注目された。

昭和24年7月5日午後6時半過ぎ、五反野の轢断現場近くで下山氏によく似た紳士が、かがんで草をいじっているのが目撃されている。この目撃証言は、後に下山氏の衣服のポケットの中からカラス麦が発見された事実と整合しており、五反野を徘徊していた紳士が下山氏本人であった可能性を示唆するもの。衣服のポケットを注意深く調べ、重要な証拠となるカラス麦を発見したのが、当時警視庁捜査一課の刑事だった金井岩雄氏である。

金井岩雄氏は法医学の人が、服には全然血が付いてなかったと言っている点は、肉が付いていましたねえ。血もね。
油は、そんなに付いてないですね、油はね。絞れば滴るほどの油は。と。

警視庁は最終的に自殺の結論を公表しなかった。
それはGHQや日本政府からの圧力があったからだという説がある。
実際金井岩雄氏は、官房長官が緒方竹虎。増田甲子七。他殺の線でいってくれという感じの…。
後にGHQの内部文書も公表され、事実だったようだ。

1964年(昭和39年)7月6日、殺人事件である場合の公訴時効が成立した。
事実上の迷宮入りである。





下山事件 判明した事

2012年02月21日 20時04分07秒 | 事件
捜査報告書に下山はベッコウの眼鏡に帽子は被っておらず、薄ネズミ色で格子縞の背広とズボン、チョコレート色の靴、緑色の手編みのネクタイをしており身長は5尺7寸(1m73cm)であった。 とある。
前回の目撃証言からして、三越から銀座線で浅草方面へ。その後東武鉄道五反野駅周辺にて目撃者がある。
何よりも下記の証言だ。

警視庁捜査一課は、末広旅館での目撃証言により、ストレス等による発作的自殺説に傾いていった。
しかし、五反野駅周辺から末広旅館にかけて目撃された人物について、旅館滞在中と、旅館を出てトンネルと土手で目撃された18時40分までは、メガネをかけていたが、夕方にかけての3人の目撃証言では、ネクタイとメガネを外しており強度の近視でメガネを常にかけていた下山にしては不自然との指摘や、旅館滞在中に煙草を一本も吸っていないのも、タバコ好きの下山にしてはおかしいとの指摘がある。
また、下山は東武鉄道の優待乗車証を所持していたが、五反野駅の改札では駅員に切符を渡しているなど疑問点が多数指摘され、五反野周辺で目撃された人物を下山本人とみるか替え玉と見るかで意見が錯綜した。
→末広旅館のご主人は元警察(特高)関係者で捜査一課主任も顔見知りだった。
→高橋(毎日新聞記者)さんは、下山氏の着衣などを詳しく証言した女主人が「男は右手で財布を出し、左手で百円札を私にくれました。左利きかな、とはっきり覚えています」と言ったのを忘れられない。それは、家族などごく親しい人しか知らない下山氏の癖だった。
→ネクタイとメガネは結局、最後まで見つからなかった。わたくしも近視だがメガネを外して歩くことはままある。
→愛煙家らしが、一本も吸っていない。普通は吸うだろう。
→切符使用は身分を隠す為なのか。宿帳の記載も拒んでいる。

D51 651号は、事件当日は主発電機が動かず、灯具類は非常用電池で発光させていたが、前照灯は 10 W 相当の光量しかなく、そのため乗員は下山総裁を轢断した瞬間にも気づかなかった。
ただし,死後轢断は直ちに他殺を意味しない。錫谷徹『死の法医学―下山事件再考』(1983、北海道大学図書刊行会)は「生体」の「死後轢断」も起こりうるとする。
→必然の10Wなのか。また当直がこの日寝坊したらしく定刻より8分遅れの出発である。

轢断地点から上り方面の荒川鉄橋までの、数百メートルの間の枕木上に、断続的に続く多数の血痕を確認した。血痕は、最後に上り方向の線路へ移り途切れたが、さらにその土手下にあった「ロープ小屋」と呼ばれた廃屋の扉や床にも血痕が確認されたため、これらの血痕は下山総裁の遺体を運搬した経路を示しているのではないかと注目された。
→後の調査で1946年(昭和21年)2月から1948年(昭和23年)5月まで所有者から釣り糸製造業者が借り受け、その間に薪割り中に斧で大けがをしたため血痕が付着した事が分かった。
→断続的に続く血痕は、女性の生理血である可能性を指摘している(当時の列車のトイレは外に垂れ流し)。

吉松富弥氏証言
平成元年(1989年)7月21日付の毎日新聞夕刊には、“下山事件から40年 「自殺」と夫人語った 親交の当時学生が新証言 「口止めされていた」”という記事が掲載されている。
彼は下山氏の死亡が発覚した直後、直接芳子夫人から「夫は自殺したと思うが口外しないでほしい」という言葉を聞いている。
→自殺より他殺であった方が後々手当て等がもらえる(子供を育てなければならない)ので、都合がよかったとも。




下山事件 生体轢断か死後轢断か

2012年02月21日 10時40分03秒 | 事件
そもそも自殺か他殺かはここで分かれている。

死体の状況図

司法解剖の指揮を執った東京大学法医学教室主任の古畑種基教授は、回収された下山総裁の遺体に認められた傷に「生活反応」が認められない事から、死後轢断と判定した。

一方、現場検証で遺体を検分した東京都監察医務院の八十島信之助監察医は、それまでの轢死体の検視経験から、既に現場検証の段階で自殺と判断していた。

古畑種基教授は、遺体及び轢断現場では血液が殆ど確認されず、「失血死」の可能性が指摘された。加えて遺体の局部等の特定部位にのみ、内出血などの「生活反応」を有す傷が認められ、該当部分に生前かなりの力が加えられた事が予想され、局部蹴り上げなどの暴行が加えられた可能性も指摘された。

八十島信之助監察医は、遺体の局部などの特定部位にみられた内出血などの「生活反応」を有す傷については、轢死体では頻繁に生じる事象であり、血液反応が僅かなことも、遺体発見時の現場周辺で降った雨に流され確認できなかったもので、他殺の根拠にはなり得ないと主張した。

そう、深夜から雨が降り続いていた。

更に慶應義塾大学の中舘久平教授が生体轢断を主張(ただし中館教授は下山総裁の遺体を実見していない)。

※生活反応:生きている人間、動物の身体組織のみに発生する変化のことである。法医学では最も基本的かつ重要な要素となる。呼吸、皮下出血、炎症、化膿などが挙げられる。これらの生活反応は死体には決して発生しないため犯罪捜査において事故又は自殺か他殺かを見極める上でも非常に重要である。

しかし、古畑種基教授はのちに(死亡後)冤罪事件(いくつかの事件で被告人を有罪とする鑑定によって有罪が確定した後に再審で無罪が判明)があり、さらに謎を深めたのである。

※古畑種基教授:日本の法医学の草分けの一人である。ABO式血液型の研究に多大な功績を残す。

Wikipediaより

さらには、独自に新聞記者、松本清張らが調査をしそれぞれの論を発表するのである。



下山事件 下山総裁の目撃証言

2012年02月20日 19時36分25秒 | 事件
当時の写真や地図などがあり、興味深い。


三越に入った後の総裁の目撃証言。
銀座線に乗ったようです。

三越から浅草駅間の目撃者証言

一方、下山宅では。
午前10時頃、下山夫人受け:下山が自宅を出たかどうかの電話が来た。アリマ?オノデラ?と名乗ったという。

他、三越情報。
三越の5、6階は貸事務所になっているが、ここで管理人は洗面所から出てきた下山総裁らしき人に「何か御用でしょうか」と尋ねたところ「ちょっと待つ人がある」といって階段を下りていったと証言もある。なをこの6階には「労働調査協会」があったが、国鉄関係者の出入りはないということで捜査対象からはずされている。

三越劇場が6階にある。時々ここに来ていたのを知っていた。大西運転手より。

他、情報。
下山総裁が三越店内に姿を消してから一時間後(午前十一時頃)、当時の佐藤栄作民自党・政調会長の秘書である大津正が「日比谷方面から平河町へ向う黒塗りのアメリカ車とすれ違ったが、この車の中に2~3人の男に前後左右を囲まれた下山さんらしい人を見た」と、7月8日付の読売新聞に載せている。(国鉄副総裁の加賀山はこれを根拠の一つとし他殺説を主張)
→しかしながらこんな情報も有、ホントなのか。


五反野轢断現場周辺の目撃者証言
東武鉄道で五反野駅に到着したようです。

五反野轢断現場周辺の目撃者証言

一方、下山宅では。
午後9時過ぎ 同居の仲村量平受け:「今、総裁不明のニュースをラジオで聴いた。総裁は今日、自分のところに立ち寄ったが、元気だったので心配はいらないと思う」とアリマを名乗る人物からかかってきた。
警察は有馬の名刺を見つけ、出向いたが友人の結婚式に朝から出かけてついさっき帰ってきたことが分かり証明された。


最後の目撃証言から約1時間後、轢断死体となって発見されるのである。






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