是非にあらず

小手前の安心は無い

もう何年も前

2013年01月29日 21時06分57秒 | はがゆい日常
こんなわたくしにも彼女がいましてね。
これを幸せと言う日々を過ごしておりました。
当時の仕事は新たな場所での仕事でもございました。
ドアをあけた瞬間、嫌だと思いましてね。
馴染むことなく辞めました。
毎朝、帰りのことを考えておりましてね。
週末なんかは彼女と何をして過ごそうなどど考え
なんとかその日が終わるという毎日でした。
言わば、わたくしの支えとなっていたのかもしれません。

今の仕事もまた、似たようなことでございます。
支えがない今となっては、一人で解決する他ないのです。

最近、散歩が趣味となりましてね。
あの時の彼女の住んでるとこも通ったりするのです。
もう何年も経っているのに、記憶は蘇りますね。
なんとなく切なくなったりもしているわけです。
近くのドラックストアやパン屋は無くなり
ラーメン屋もなくなり街は変化しております。
彼女ももう、そこには住んでいないのかもしれませんね。

近くに住んでいたのですが中々その地域にも行く理由もなくなると全く行かなくなるものですね。

どこかで幸せに暮らしているでしょうか。


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津軽 承昭

2013年01月27日 11時06分55秒 | 歴史
津軽 承昭(つがる つぐあきら)は、陸奥国弘前藩の第12代(最後)の藩主。和歌にも優れていたと言われている。

熊本藩主・細川斉護の四男として江戸に生まれる。安政4年(1857年)、第11代弘前藩主・津軽順承の婿養子となり、その偏諱を受けて初め承烈(つぐてる)と名乗り、後に承昭と改名した。
※細川斉護:細川 斉護(ほそかわ なりもり、熊本藩の第10代藩主。代々の藩主による出費などで、すでに80万両という膨大な借金を抱え、財政は破綻寸前となっていた。しかもこのような中で、アメリカやイギリスなどの日本接近もあって、幕府から天草地方や相模湾警備を命じられ、その出費で財政はさらに悪化した。改革派と保守派が対立し、かえって藩内が二分された。このような混乱と苦悩の中で万延元年(1860年)、斉護は57歳で死去した。

安政6年(1859年)2月7日、養父の隠居で家督を継ぐ。藩政においては洋式軍備の増強に努めた。明治元年(1868年)の戊辰戦争では、官軍に与して箱館戦争などで功績を挙げたため、戦後に新政府より1万石を加増された。明治2年(1869年)、版籍奉還により知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官。東京へ移る。明治17年(1884年)に伯爵となる。
※知藩事:知藩事(ちはんじ)は、明治時代初期に置かれた地方行政官の名称。県令(都道府県知事)の前身に当たる。藩知事とも言う。
※伯爵:伯爵(はくしゃく)とは爵位の一つである。侯爵(こうしゃく)の下位、子爵(ししゃく)の上位に相当する。古くは中国での名称で、のちに近代の日本の華族(「五爵」の第3位)やヨーロッパ・ロシアの貴族の階級を表す訳語として用いられた。
※爵位:爵位(しゃくい、Title)とは主に古代から中世にかけての国家や現代における君主制に基づく国家において、貴族の血統による世襲または国家功労者への恩賞に基づき授与される血統別・等級別の栄誉称号のことである。



その後は第十五国立銀行取締役となる。大正5年(1916年)7月19日、77歳で死去した。跡を養子の英麿(近衛忠房次男)が継いだ。
※第十五国立銀行:第十五国立銀行(じゅうごぎんこう)はかつて日本に存在した銀行である。1944年帝国銀行に吸収合併された。
※近衛忠房:近衛 忠房(このえ ただふさ)は、幕末期の公卿。過激な尊王攘夷運動には反対で、文久3年(1863年)の八月十八日の政変においては父と共に薩摩藩に協力して、長州藩の勢力を京都から追放することに尽力した。慶応2年(1866年)、第二次長州征伐が起こったときには、長州征討を強行する幕府と、長州藩を擁護する薩摩藩の仲介を務めている。明治維新後は神官となった。明治6年(1873年)、父に先立って36歳の若さで死去した。死の前年からは伊勢神宮の祭主となっていた。
※公卿:公卿(くぎょう)とは公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。
※祭主:祭主(さいしゅ)とは、伊勢神宮にのみ置かれている神職の役職である。「まつりのつかさ」とも読む。


Wikipediaより



ということで、津軽 承昭の墓と思われるのを撮って来ました。
四方コンクリートに囲まれ、中に入るにはどうしたら良いのか謎の墓です。





ちょうど、1ヶ月のスペシャル企画となりました。
色々な歴史がありましたね。

そうそう!この間、津軽家の下屋敷に祀られていた稲荷を撮って来ました。










では、また。





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津軽 信順

2013年01月26日 19時32分42秒 | 歴史
津軽 信順(つがる のぶゆき)は、陸奥国弘前藩の第10代藩主。

弘前藩では第7代藩主・信寧や第8代藩主・信明の下で藩政改革が行なわれ、大いなる成功を収めた。しかし、名君と謳われた信明は早世した。

信明には継嗣がなく、そのために養嗣子の寧親が藩主となった。これが信順の父である。しかし、寧親は信明と違って有能ではなかった。そしてそのような藩主の息子として生まれた信順も暗愚の器で、後世に「夜鷹殿様」と渾名された。

しかし、この暗君親子には一つの野望があった。それは、中央政界への進出、つまりは幕政への参与である。そのために寧親は世子である信順の正室に、特に身分の高い娘を選ぶことで、強力な門閥関係を作ろうとした。文化8年(1811年)、信順は内大臣・近衛基前の娘と婚約した。しかし、2年後にこの娘は夭折する。次に信順は徳川斉匡の六女・鋭姫と婚約する。斉匡は第11代将軍・徳川家斉の弟である。このため、将軍の一門衆となった信順は文政3年(1820年)12月、それまでの歴代藩主の官位よりさらに高い、侍従に叙任された。しかし鋭姫は信順が叙任された日に夭折する。
※夭折:年が若くて死ぬこと。若死に。早世。
※近衛基前:近衛 基前(このえ もとさき、天明3年8月11日(1783年9月7日) - 文政3年4月19日(1820年5月30日))は江戸時代後期の公卿。
※徳川斉匡:徳川 斉匡(とくがわ なりまさ)は、徳川御三卿の一つ田安徳川家第3代当主。
一橋徳川家2代当主徳川治済の五男。母は丸山氏。江戸幕府11代将軍徳川家斉の異母弟にあたる。
※御三卿:御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期に徳川氏の一族から分立した大名家である。

翌文政4年(1821年)年4月に、今度は斉匡の九女・欽姫と婚約し、文政5年(1822年)12月には結婚するに至った。しかし、この3度に及ぶ結婚騒動のために公家や幕閣にばら撒いた金銀は数十万両に及び、この膨大な資金のため信明時代に再建されていた財政は破綻した。

信順は父親以上に暗愚であった。参勤交代で宿泊した所で、夜中は女と酒に入りびたりであった。しかも信順は昼頃に起きるという不健全な生活を繰り返した。そのため、参勤交代の行列の進み具合は遅れる一方であった。当時、参勤交代には決められた期日までに江戸に到着しないといけない決まりがあった。このため家老の高倉盛隆は、参勤が遅れて主家が改易されることを恐れて、信順に対して諫死した。しかしこの忠臣の死を知っても、信順は「遊興は余の病である」と言い放って遊び呆けたという。

天保5年(1834年)には、本来なら必要の無い大名行列で領内を巡察し、さらに花火見物、ねぶた見物、月見見物と、藩財政を自分の快楽で乱費した。このため、名君・信明が築き上げた財政再建は水泡に帰した。

さらに、正室に将軍家と繋がりのある欽姫を迎えておきながら、江戸日本橋の油屋から娘を入れ込んで側室にするなど、乱行を繰り返した。このため、弘前藩の借金は70万両近くにまで膨れ上がったと言われている。このような失政と乱行に家臣団も絶望した。さらに幕閣もこれを捨ておけず、天保10年(1839年)に強制隠居を信順に命じた。家督は養嗣子の順承(松平信明の七男)が継いだ。

その後、信順は政治の表舞台に立つことなく、1862年に63歳で死去した。


Wikipediaより






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一周年

2013年01月20日 20時39分34秒 | はがゆい日常
一年前の今日、このブログを立ち上げたのですね。
早いものです。
お休みが早いのですから、一年が早いのも納得致します。

さて、未だに希望はないものの何かを見つけなくてはなりません。
最近では、誰もが考える行き着く考えというのにため息が出ております。

休みの日は外出をするようになりましてね。
街の人の人生を考えたりもしているわけです。
この人は今日、良い事があったのだろうか。
悪いことがあったのだろうか。などと・・・
カップルがいるのならば、いつまでその幸せは続くのだろうか。
などと思っているのです。

何気ない思いを書き記しておこうと思ったのは
下山総裁の失踪事件を調べていた時に思いましてね。
あの時、どういう思いであったのだろうと。そう感じましてね。
中々、人の心の中というのはわからない部分でございます。
そういった心の中を書き記してみたいと思ったのでございます。

忘れていた一周年。
密かにお祝いをすることに致しましょう。



こんな雪の日に・・・
ブログを立ち上げるなんて・・・わたくしのなせる技(笑)「是非にあらず」良い言葉ですね!すっかり気に入りまして。使うことにしました。織田信長なんですね~。敦盛の舞も好...
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相馬大作事件

2013年01月20日 16時53分33秒 | 歴史
相馬大作事件(そうまだいさくじけん)とは、文政4年4月23日(1821年5月24日)に、南部藩士・下斗米秀之進(しもとまいひでのしん、諱は将真(まさざね))を首謀者とする数人が、参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽藩主・津軽寧親を襲った暗殺未遂事件。

秀之進の用いた別名である相馬大作が事件名の由来である。事件前に裏切った仲間の密告により、津軽寧親の暗殺に失敗したため、秀之進は南部藩を出奔した。後に秀之進は幕府に捕らえられ、獄門の刑を受けた。

弘前藩主・津軽氏と盛岡藩主・南部氏の確執は、戦国時代の末期から安土桃山時代、弘前藩初代藩主である大浦為信(後に津軽為信)の時代に端を発する。もともと大浦氏は、盛岡藩主となった三戸氏(三戸南部氏。南部氏の宗家。)と同じく、南部氏の一族だった。この大浦氏に久慈氏(南部氏の庶流とされる)から養子に入った大浦為信は、1571年(元亀2年)に挙兵し、同じ南部一族を攻撃して、津軽地方と外ヶ浜地方および糠部の一部を支配した。さらに大浦為信は、1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐に際して、当時の三戸南部氏当主・南部信直に先駆けて参陣し、所領を安堵されて正式に大名となった。このような経緯から、盛岡藩主・南部氏は弘前藩主・津軽氏に対して遺恨の念を抱いていた。

1714年(正徳4年)には、両藩の間で檜山騒動と呼ばれる境界線紛議が起きた。これは、陸奥国糠部郡野辺地(現・青森県上北郡野辺地町)西方の烏帽子岳(719.6m)周辺地の帰属に関して両藩が争った問題である。弘前藩は既成事実を積み重ね、文書類などの証拠を整備して、一件を仲裁する幕府と交渉したのに対し、盛岡藩はうまく対応できなかったため、この地域は弘前藩の帰属と裁定された。 八甲田山山系を境界とするならば一帯は盛岡藩に帰属するはずであったため、この件の処置は盛岡藩に不満をもたらした。なお、この一件は相馬大作事件の107年も前の出来事である。

事件の前年の1820年(文政3年)には、盛岡藩主・南部利敬(従四位下)が39歳の若さで死亡(弘前藩への積年の恨みで悶死したと伝わる)。利敬の養子・南部利用が14歳で藩主となるが、若さゆえにいまだ無位無官であった。同じ頃、弘前藩主・津軽寧親は、ロシアの南下に対応するために幕府から北方警備を命じられ、従四位下に叙任された(従来は従五位下)。また、高直し(藩石高の再検討)により、弘前藩は表高10万石となり、盛岡藩8万石を超えた。盛岡藩としては、主家の家臣筋・格下だと一方的に思っていた弘前藩が、上の地位となったことに納得できなかった。
※従四位
正一位
従一位
正二位
従二位
正三位
従三位
正四位
●従四位
正五位
従五位
正六位
従六位
正七位
従七位
正八位
従八位
正九位
従九位
大初位
少初位


1821年(文政4年)、秀之進は寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺を伝える。これを無視した津軽寧親を暗殺すべく、秋田藩の白沢村岩抜山(現・秋田県大館市白沢の国道7号線沿)付近で、陸中国鹿角郡花輪(現・秋田県鹿角市)の関良助、下斗米惣蔵、小太郎らと大砲や鉄砲で銃撃しようと待ちかまえていたが、密告によって津軽寧親は日本海沿いの別の道を通って弘前藩に帰還し、暗殺は失敗した。なお、物語の多くでは紙で作った大砲1発を打ち込んだことになっているが、実際には大名行列は現場を通らず、竹で作った小銃20門を秋田藩に持ち込んだ。

津軽藩に密告した大吉と嘉七、徳兵衛の3人はこの功績により津軽藩に仕官することになる。
※大吉と嘉七、徳兵衛:仙台藩出身の刀鍛冶。

暗殺の失敗により、秀之進は相馬大作と名前を変えて、盛岡藩に迷惑がかからないように、江戸に隠れ住んだ。江戸でも道場を開いていたと言われている。しかし、幕吏(実は弘前藩用人・笠原八郎兵衛)に捕らえられ、1822年(文政5年)8月、千住小塚原の刑場で獄門の刑に処せられる。享年34。門弟の関良助も小塚原の刑場で処刑されている。
※小塚原の刑場:小塚原刑場(こづかっぱらけいじょう、こづかはらけいじょう)はかつて江戸時代から明治初期にかけ東京都荒川区南千住2丁目に存在した刑場である。
吉田松陰も埋葬された。

その後、寧親の隠居により、結果的に秀之進の目的は達成された。

当時の江戸市民はこの事件を赤穂浪士の再来と騒ぎ立てた。事件は講談や小説・映画・漫画の題材として採り上げられ、この事件は「みちのく忠臣蔵」などとも呼ばれるようになる。

この事件は水戸藩の藤田東湖、長州藩の吉田松陰にも影響を与える。

妙縁寺には秀之進の首塚がある(住職の日脱が秀之進の伯父であったため首を貰い受けた)。
※妙縁寺:妙縁寺(みょうえんじ)は、東京都墨田区吾妻橋に所在する日蓮正宗の寺院。山号は正栄山(しょうえいざん)。


また、東京都台東区の谷中霊園には招魂碑がある。この招魂碑は歌舞伎役者の初代市川右團次が、相馬大作を演じて評判を取ったので1882年(明治15年)2月、右団次によって建立された。

Wikipediaより


ということで、写メを撮って来ました。





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