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是非にあらず

小手前の安心は無い

下山事件 下山総裁の事件同年~7月4日(失踪前日)まで②

2012年02月19日 20時39分14秒 | 事件
これは他殺なのか!?

これも記載しょうと思いまして。


国鉄工作局長の島秀雄。親友である。
高橋団吉「新幹線をつくった男 島秀雄物語」にはこんな記述がある。

そのころ島は下山の社用車で出勤することが多かった。(中略)島は、国鉄幹部の当然の務めとして電車通勤をしようと下山に勧めるのだが、二日に一度誘われるので、たびたび同乗するようになっていた。しかし、失踪前日の四日、下山は「明日は他の所を回るので出社は遅れる」と島に伝えていたのである。

※総裁を轢断した列車が皮肉にも昭和10年に島が設計した蒸気機関車D51だった。

八洲ホテル
大西運転手の証言、失踪前日の7月4日の夕方6時すぎ、日本橋交差点付近にビュイックを停めさせた総裁は、およそ30分にわたって車を留守にしていたのだという。しかもこの付近で総裁が車を降りることは、6月の総裁就任以降ずっと続いていた。

三越失踪前までの他殺の情報とすればこんなとこか。

次回、ホントに目撃証言です。。。



下山事件 下山総裁の事件同年~7月4日(失踪前日)まで

2012年02月19日 11時49分54秒 | 事件
これは自殺なのか!?

下記は捜査での聞き込みである。


【本年三月六日下山氏実妹豊島区駒込一丁目二五平野恵美四十二歳は大田区上池上の総裁宅を訪れた折夫人も傍に居られたが「今度大きい首切りをしなければならないが、人の首を切って自分がやっている訳には行かないから六月にはやめる」と言う話をしていたので罷めるものと思っていると新開で総裁就任をしって意外に思った。

当時下山氏の子供達も「今度お父さんも閑になっていいね」と言っていたし、姉(下山夫人)も左様に考えていたので予想外に思ったと感じる。】

【渋谷区千駄谷町五の九〇二東京鉄道病院(副院長医学博士関口六郎)下山総裁診断投薬関係本年六月十五日スト問題で疲労を覚えると云う事でビタミンB1C葡萄糖液20CCの注射をした。

同六月十九日(日)第二回目疲労感ありとの話しで前回同様の注射をした。別に睡眠剤が欲しいと云う事で、プロパリン〇・五、十包、を処方し就床三十分前一包ずつ服用方注意す。

同六月二十二日(水)第三回軽度の胃部疾病があると云うので胃薬一日分三包を処方すると不眠時に使用するから睡眠薬が貰いたいとの求めに応じ、プロパリソ〇・五、五包を持帰られた。

同六月二十六日(日)之の際もビタミンB1C注射、プロパリン〇・五、十包を持参し帰った、病名は軽度の神経衰弱症と胃炎。】

【本年七月二日午前十一時半頃千代田区永田町二の七貸席登原事登原久美五十二歳方へブラリと来て腹が空いたので御飯を食べさせてくれと云ったので食事を出すと一口食べては外を見て約三十分位かかっで女中難波が大変ですねと云うと「うんうん」と返事する丈で、運転手は食事は済みましたか、と聞かれたので、済みましたと、云うと帰って行ったが飯がのどに通らないでしょうと、女中は話した。】

【本年七月三日午前一時頃シャグノソ中佐(CTS)が下山氏自宅へ見えて午前三時頃迄下山氏と話して帰ったが話は国鉄整理問題の事で叱責されている様な声も聞えた。同件は二日午後十時頃CTSシャグノソ中佐の処へ加賀山副総裁と待合せの上会うことになっていたが総裁は見えなかったので、副総裁は宿直将校にあって話しを伝えて貰う様にして帰った。後同中佐から呼出の電話があったが車がないので行けなかったので来られたものと思われる。行政整理の言渡の事で一日にやるのが二日になり其れも実施不能で三日という話であったが、三日は日曜日で退職金が出せないと言うので四日に決定したが其の事で来られたもの。】



【下山総裁7月4日の足取り】捜査報告書
7月4日の行動
事件前日に下山はあちこちの要人に面会したり面会を要請し、しかしそれらの先々で用件を言うでも無く「嘆願や脅迫が自宅に来る」とこぼして涙ぐんだりするのみだった。

几帳面につけていた手帳が6月28日で途切れている、弁当を食べずに持ち歩いて交通会館の無人の部屋で一人食べるなどしていた。

加賀山副総裁の回想によれば「ドンキホーテみたいな単純な奴」だったそうで、7月3日の午前1時30分ごろ、酒に酔った勢いで洗足池の下山邸まで押しかけ、人員整理の実施時期を迫っている。
その数時間前、加賀山副総裁とシャグノンに面会する予定だった総裁は、銀座の料理屋に入り込んだまま、面会をすっぽかしてしまったのである。

Wikipedia及び下山資料館様より

次回は失踪後の目撃証言へ・・・






下山事件 当日 自宅~三越(失踪)までのルート

2012年02月18日 16時58分41秒 | 事件
住所は大田区上池上町1081番地。
午前7時、起床。
味噌汁、半熟卵、お新香、2杯のご飯を食べる。
9時からの会議は前日に連絡を受けたものであったが、GHQ訪問のほうは総裁自身がアレンジしたものだった。
8時15分、大西政雄運転手の運転する黒塗りのビュイック41年型総裁専用車が自宅前の路上に横付。
8時20分、車はゆっくりと発進。
実はこの日は名古屋大学法学部に通う長男の定彦が夜、帰省する予定だった。


下山総裁画像 中部

大西運転手画像 下部


8時39分 御成門。「佐藤さんのところへ寄るのだった」と、突然総裁が言い出した。既に過ぎていたので「いや、よろしい」と総裁は答えている。
佐藤さんとは当時、民自党の政調会長であった佐藤栄作のことである。

8時40分 日本国有鉄道本庁。毎朝8時45分から9時までの間に到着するはずの総裁を迎えにゆくためである。
総裁秘書の大塚辰治。

8時45分 和田倉門ロータリー(東京駅前ロータリー) 国鉄本庁は目と鼻の先だった。
総裁が、「買い物がしたいから三越へ行ってくれ」と言う。

8時45分 大手町交差点。
総裁が「今日は10時までに役所へ行けばよいのだから」とひとりごとのようにつぶやいたのを耳にしている。

8時46分 呉服橋ガード。
「白木屋(しろきや)・白木屋百貨店でもよいから真っ直ぐにいってくれ」と、総裁は言った。
白木屋にも地下鉄の駅がある。

8時48分 日本橋交差点。
大西運転手が店の方を見るとまだ扉が閉まっている。そこで「まだ開店していませんね」と言うと、総裁は「うん」とうなづいた。そこで大西は左折し、当初の指示通り三越百貨店本店へと車を向けた。

8時49分 三越日本橋本店前。
「開店は9時半ですね」と総裁に話しかけた。ところが総裁は「うん」としか返事をしなかった。
「役所にまいりますか?」
「うん」
車を発進させた。

8時50分 常盤橋ガード。
総裁が「神田駅に廻ってくれ」と言った。

8時52分:神田駅西口前で停車。
「お寄りになりますか」と云うと、「いや」と総裁は首を振った。」。

8時57分:本石町交差点
「右に回ってくれ」。

8時59分:呉服橋ガードを通過して左折、交通公社前。
「三菱本店にいってくれ」と、命じた。

9時00分:国鉄本庁裏玄関への至近距離を通過。
「もっと早く走れ」と、怒ったように強い調子でいった。

9時05分:千代田銀行へ入店。
下山総裁が貸し金庫を借りており、9時5分に入り、25分に出てきています。

9時26分:乗車、出発。
座席に腰をおろすと、「これからいけばちょうどいいだろう」と、いった。

9時30分:三越南口到着。
車をおりてから下山さんは同店へ入りかけたが、2、3歩戻ってきて「5分位だから待って居てくれ」と言った。
鞄を車内に置去りにしている。

9時35分:下山総裁、三越へ入店。そのまま失踪。


当日のルート図


下山事件資料館

下山事件資料館様の情報を記載致しました。

次回へ・・・




下山事件

2012年02月17日 09時57分58秒 | 事件
連合国の占領下にあった1949年(昭和24年)7月5日朝、国鉄総裁下山定則が出勤途中に失踪、翌日未明に死体となって発見された事件。
下山事件から約1ヵ月の間に国鉄に関連した三鷹事件、松川事件が相次いで発生し、三事件を合わせて「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれる。



【事件のあらまし】

1949年(昭和24年)6月1日に発足した日本国有鉄道(国鉄)の初代総裁に就任したばかりの下山定則。
7月5日朝、午前8時20分頃に大田区上池台の自宅を公用車で出た。
出勤途中、運転手に日本橋の三越に行くよう指示。
三越に到着したものの開店前だったため、一旦、東京駅前に戻って千代田銀行(現三菱東京UFJ銀行)に立ち寄るなど、複雑なルートを辿った後で再度三越に戻った。
午前9時37分頃、公用車から降りた下山は、「五分くらいだから待ってくれ」と運転手に告げる。
急ぎ足で三越に入りそのまま消息を絶った。

普段、下山は午前9時前には国鉄本庁に出勤し、毎朝秘書が玄関に出迎えていた。
失踪当日は、国鉄の人員整理をめぐり緊張した状況にあり、午前9時には重要な局長会議が予定されていたため、自宅に確認したところ「普段通り公用車で出た」との回答に国鉄庁内は大騒ぎとなり、警察に連絡。
失踪事件として捜査が開始された。
翌7月6日午前0時30分過ぎに足立区綾瀬の国鉄常磐線北千住駅 - 綾瀬駅間で汽車に轢断された下山の遺体が発見された。

Wikipediaより


何故、三越からではいけなかったのか?
五分くらいと言い消息を経ったということは誰かに言われた?


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