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是非にあらず

小手前の安心は無い

神武天皇 八咫烏の道案内

2012年02月12日 09時46分01秒 | 歴史
今日にまたいでしまいました。
続きです。


■八咫烏の道案内と勝利
東征が良くないことを憂えた天照大御神は武甕槌神と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。そこで、天照大御神は八咫烏を送り教導となした。八咫烏に案内されて、莵田の地に入った。

8月、莵田の地を支配する兄猾(えうかし)を討ち、10月、国見岳で八十梟帥を討った。12月、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雹が降ってきた。そこへ鵄(とび)があらわれ、磐余彦の弓の先にとまった。すると電撃のごとき金色の煌きが発し、長髄彦の軍は混乱し、そこへ磐余彦の軍が攻めかかった。饒速日命は長髄彦を殺して降伏した。

翌年3月、現:奈良県中部橿原市(畝傍町の橿原神宮が伝承地)の地を都と定める。大物主の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とした。

※布都御魂:ふつのみたま。霊剣。建御雷神(たけみかずちのかみ)はこれを用い、葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定した。荒ぶる神を退けるちからを持つ。石上神宮の御神体となる。
布都御魂はやがて拝殿の裏手の禁足地に埋められるが、明治7年(1874年)に当時の大宮司の菅政友によって発掘され、本殿内陣に奉安され、御神体として祭られている。その際、刀鍛冶師の月山貞一(初代)が作刀した布都御魂剣の複製2振が本殿中陣に奉安された。

※建御雷神:たけみかずちのかみ。日本神話に登場する神。雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神として信仰されており、鹿島神宮、春日大社および全国の鹿島神社・春日神社で祀られている。

※葦原中国:あしはらのなかつくに。日本神話において、高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界、すなわち日本の国土のことである。

※高天原:たかあまはら他。天上界とされる。

※黄泉の国:よみ。日本神話における死者の世界のこと。

※高倉下:たかくらじ。日本神話に登場する人物である。

※八咫烏:日本神話で、神武東征の際に、高皇産霊尊によって神武天皇の元に遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる烏である。一般的に三本足のカラスとして知られ古くよりその姿絵が伝わっている。ただし、古事記や日本書紀には三本足である記述はない。
三本足の意味には諸説ある。三足烏の伝承はアジアで広範な地域で見られる。

■そして即位へ
52歳であった。

『古事記』には、137歳。日本書紀』には127歳にして崩御した。

Wikipediaより

八咫烏と弓の先にとまった鵄が同一なのかは不明です。
布都御魂が発掘されてるということはあったのでしょうか。
あるのならばこの神話は本当!?




神武天皇 長髄彦との戦いと苦難

2012年02月11日 22時06分37秒 | 歴史
続きです。


■長髄彦との戦いと苦難

兄の五瀬命らと船で東征に出て、現:福岡県(1年)→広島県(7年)→岡山県(8年)過ごして大阪府に着く。その後大阪府東大阪市と奈良県の県境にある生駒山を経て中州へ入ろうとした。この地を支配する長髄彦が軍衆を集めて戦いになった。戦いに利なく、五瀬命が流れ矢を受けて負傷した。

日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。舟で和歌山県経由で進む途中、五瀬命の矢傷が重くなり死去した。

名草戸畔という女賊を殺して、熊野に経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。陸でも海でも進軍が阻まれることを憤慨した兄の稲飯命と三毛入野命が入水した。息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔女賊を殺したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。

※名草戸畔:なぐさ とべ、?。特定の人物の名ではなく、「名草の長」という地位を表す言葉であるという。現在の和歌山市名草山周辺の統治者。日本書紀や和歌山市の伝承に登場する。伝承によると女性。

※長髄彦:ながすねひこ。自らの妹を妻としている。戦国の武将山形の織田家(後に織田信長を輩出)や仙台の伊達家が長髄彦の子孫であると言われている。


ずいぶんと長い期間を経て近畿に着きますね!
のんびりとした旅です。

神武天皇は三男とも四男とも言われ、兄がいたみたいですが亡くなったのか神になったのかはわかりませんが・・・

Wikipediaより


そして、八咫烏の道案内へと続きます。。。




神武天皇 東征

2012年02月11日 19時23分13秒 | 歴史
ちょっと長かったので分けます。



『日本書紀』『古事記』の神武天皇の記述は東征が大部分を占めており、大略は同じだが遠征の経路などが若干異なる。

■東征
『日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった。兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、179万2470余年。未だに西辺にあり、全土を王化していない。
東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。諸皇子はみなこれに賛成した。

※饒速日命:ニギハヤヒ。日本神話に登場する神。大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する(古事記)


何故、最初から東の土地に天孫降臨しなかったんでしょう。
これは現在の宮崎県の高千穂であろうとなかろうと他の場所であろうと謎ですね!
とまぁ、現在の奈良県へと向かうわけです。

Wikipediaより


続きは次回へ・・・



建国記念日=神武天皇

2012年02月11日 14時22分16秒 | 歴史
では、由来です。


【神武天皇】
『古事記』では神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)。
『日本書紀』では神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、狹野尊(さののみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)。


日本神話に登場する人物で、日本の初代天皇である(古事記、日本書紀による)。

天皇が即位した年月日は、西暦紀元前660年2月11日と比定される。これにより、2月11日は日本が建国された日として、明治6年(1873年)に祭日(紀元節)と定められた。

紀元節は昭和23年(1948年)に廃止されたものの、昭和42年(1967年)には建国記念の日として、祝日とされた。

※比定:ある物が一定の物として認められない場合、他の類似の物と比較して、その性質がどういうものであるかを判断すること。


当時の文部省天文局が算出したんですね。凄い計算をしたものです。
神武天皇が即位をしたのがこの日だったんですね!
不思議な歴史です。

神武天皇という名前はこれから書く天皇達もそうですが、淡海三船によるものです。

この神武天皇といえば、八咫烏が出てくる神武東征ですね!


また後ほど・・・





紫 式部

2012年02月07日 10時52分11秒 | 歴史
紫式部を検索してみました。
いまだ不明な人なんですね!
平安時代というのですから無理もないですね。


紫式部:平安時代中期の女性作家、歌人。『源氏物語』の作者と考えられている。本名は不明であるが「藤原香子」(かおりこ / たかこ / こうし / よしこ)との説がある。
女房名は「藤式部」。生没年不詳。
※女房名:女房が出仕にあたって名乗る名前のこと。主人や同輩が呼ぶために、実名とは別につける。
※女房:平安時代から江戸時代頃までの貴族社会において、朝廷や貴顕の人々に仕えた奥向きの女性使用人。

紫:一般的には「紫」の称は『源氏物語』または特にその作中人物「紫の上」に由来すると考えられている。
式部:「式部」は父:為時の官位(式部省の官僚・式部大丞だったこと)に由来するとする説と同母の兄弟惟規によるとする説とがある。

※式部省:日本の律令制における八省のひとつ。文官の人事考課、礼式、及び選叙(叙位及び任官)、行賞を司り、役人養成機関である大学寮を統括。
※式部大丞:しきぶたいじょう。位階制度:正六位下。
※位階:官吏における個人の地位を表す序列・等級である。また、国家に対して勲功・功績のあった者に授与される栄典の一つ。

清少納言に対する悪口・陰口が有名。実際に面識は無かったものと見られる。
紫式部が『紫式部日記』(『紫日記』)で清少納言の人格と業績を全否定するかのごとき筆誅を加えているのに対し、清少納言が『枕草子』で紫式部評を残していない一方的な関係からもこの見方は支持される。

墓所:紫式部の墓と伝えられるものが京都市北区紫野西御所田町(堀川北大路下ル西側)に残されている。

Wikipediaより

清少納言とに何があったのでしょうか。
清少納言の少納言も女房名らしいです。
今使ってる女房ってあまり良い言葉ではないですね。

かなり才女だったみたいです。
結婚について一度だけだと言われているが、一回限りではなく、それ以前にもあったのではとの説がある。
また、藤原道長のアプローチに最後はどうなったのか今現在不明である。




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