goo blog サービス終了のお知らせ 

是非にあらず

小手前の安心は無い

福沢諭吉と豊臣秀吉と

2012年02月03日 11時34分03秒 | 歴史
昨日の続きです。

この人こそ最後は知らないでしょう。


【福沢諭吉】:19世紀後期の学者、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者、新聞『時事新報』の創刊・発行者。慶應義塾の創設者。

1835年1月10日(天保5年12月12日):大坂堂島浜(現・大阪府大阪市福島区福島1丁目で誕生。
1898年(明治31年):脳出血で倒れ、いったん回復。
1900年(明治32年):再び倒れ意識不明になったが、約1時間後に意識を回復。
1901年(明治34年):1月25日、再び脳出血で倒れる。2月3日、再出血し、午後10時50分死去。

ちなみに、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は福沢の言と誤解されることが多いが、学問のスゝメ冒頭には「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」と書かれており、正しくは福沢の言ではない。勝海舟と福沢は共に咸臨丸に乗っていたが、性格的に合わなかったとされる。

墓所は東京都港区元麻布一丁目の麻布山善福寺。


そして、この人こそ有名なのに最後は知らない。


【豊臣秀吉】:太閤検地や刀狩。天下統一で有名。

慶長3年(1598年)3月15日:醍醐寺諸堂の再建を命じ、庭園を造営、各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて秀頼や奥方たちと一日だけの花見を楽しんだ。
同年5月:秀吉は病に伏せるようになり日を追う毎にその病状は悪化していった。
8月18日:その生涯を終えた。62歳。死因は今も不明である。

秀吉は神体として祀られたために葬儀は行われなかった。これは遺言による為である。
豊国神社に祀られている。(現在のは明治時代に再建された京都の豊国神社)

ちなみに、秀吉は指が1本多い多指症だったと記録され、右手の親指が1本多く、信長からは「六ツめ」と呼ばれていた。


Wikipediaより


知らない歴史は興味深い。





夏目漱石と平賀源内と

2012年02月02日 20時10分09秒 | 歴史
人の最後で有名なのは織田信長や三島由紀夫が有名だが、普通に有名な人物の最後はあまり知られていないんじゃないでしょうか。
気になった人物を検索してみました。



【夏目漱石】:日本の小説家、評論家、英文学者。吾輩は猫であるで有名。

1867年2月9日(慶応3年1月5日):江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)に誕生。
1887年(明治20年):3月に長兄・大助と死別。同年6月に次兄・栄之助と死別。
1890年(明治23年):悲観主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。
1891年(明治24年):三兄・和三郎の妻の登世と死別。登世に恋心を抱いていたとも言われ句を何十首も詠んでいる。
1894年(明治27年):肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。
1896年(明治29年):結婚をするが、妻は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。
1903年(明治36年):第一高等学校と東京帝国大学から講師として招かれる。当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳の滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2ヶ月別居する。
※藤村操:華厳の滝で投身自殺した。遺書「巌頭之感」によって当時のマスコミ・知識人に波紋を広げた。
1904年(明治37年):処女作になる「吾輩は猫である」を執筆。
1910年(明治43年):6月、執筆途中に胃潰瘍で東京の病院へ入院。8月、伊豆の修善寺に出かけ転地療養する。800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。
同年10月、東京へ戻り再入院。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。
1911年(明治44年)8月:関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪で入院。東京に戻った後は、痔にかかり通院。
1912年(大正元年)9月:痔の再手術。
1913年(大正2年):神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。
1914年(大正3年)9月:4度目の胃潰瘍で病臥。
1915年(大正4年)3月:京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。
1916年(大正5年):糖尿病にも悩まされる。
同年、結婚式に出席して後の12月9日、大内出血を起こし「明暗」執筆途中に死去(49歳10ヶ月)。

墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園。

身内の死別などもありかなり病弱である。
今回、取り上げたのは主に亡くなるまでの経緯についてだが、それでも世に出るべく人物だったのだろうか。実際、有名なのだからそうなのであろう。
神経衰弱は芥川龍之介も同様である。
※神経衰弱:めまい、筋緊張性頭痛、睡眠障害、くつろげない感じ、いらいら感、消化不良など出る。現在の病名には使われていない。



【平賀源内】:江戸時代の日本の本草学者、蘭学者、医者、作家、発明家、画家(蘭画家)である。

安永8年(1779年):大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄。
同年12月18日:破傷風により獄死、享年52。ただし晩年については諸説あり。

平賀源内墓 - 東京都台東区橋場二丁目 旧総泉寺墓地

※本草学:中国で発達した医薬に関する学問である。

エレキテルで有名な、土用の丑の日にウナギを食べるで有名ですが、事件を起こしていたとは。。。


以上、Wikipediaより


次回は、福沢諭吉と豊臣秀吉の最後です。





御師(おし・おんし)

2012年02月01日 20時15分00秒 | 歴史
御師(おし・おんし)

聞きなれない言葉かもしれない。
古い時代に活躍をした人達である。


特定の寺社に所属して、その社寺へ参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者のことである。
御師(オンシ)となると伊勢神宮の下級神職。

平安時代:元は「御祈祷師」を略したもので、寺に所属する僧に対して用いられるようになり、後に神社の参詣の世話をする神職についても用いられるようになった。
代表的:熊野三山の熊野御師。

鎌倉時代~室町時代初期:代表的:伊勢神宮や富士講。
※富士講:富士信仰

江戸時代:百姓と神職の間の身分。経済の安定と庶民の隆盛とともに、寺社詣りが信仰と遊興の側面を持ち出したことが要因で発達。

明治時代:政府主導の神祇制度が整備されたため、急速に御師は衰退した。


記憶の中にある人もおおいのでは。
神無月:出雲大社に全国の神が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神がいなくなると言われるのは、後付けの中世以降、出雲大社の御師が全国に広めたと俗説とされる。

お札を広めたのも御師である。
神宮大麻:神棚へのお札。御師が広め神棚で祀る様になった。

ちなみに、伊勢神宮に行かなくても神社庁に所属する神社で神宮大麻は購入出来ます。
今年購入したお札、入っている封筒を開けてみると間違えて二札入ってましてね。返すのもどうかと思い(一度わたくしが触れているので)そのまま神棚へ。。。
神宮大麻:天照大御神のお神札。

本居宣長の学問の普及にも役立ったと言われる。
※本居宣長:江戸時代の国学者・文献学者・医師。古事記の解読に成功。
※古事記:日本最古の歴史書。


消えていく歴史もあるのですね。
とはいえ今も残ってますよ!




織田信長は平氏!?

2012年01月28日 11時24分44秒 | 歴史
織田信長は平氏らしいと書きましたが、実は去年興味深いものが見つかっていたんですね!
織田氏の祖とされる親真。没年が記されている親真を供養した五輪塔の一部が発見されていた。

平資盛の子とする織田氏の家系図はどうも書き換えられたものかもしれない。

※平資盛:たいらのすけもり 壇ノ浦の戦いで自害。


信長は平氏ではない!


平資盛の子とする説が正しいとなると親真は105歳近くで死亡したことになり理論的にありえないらしい。

もう少し調査が必要ですね。


織田信長は現在、建勲神社に祀られている。
京都市北区の船岡山にあり明治天皇により創建。



織田信長の運の強さ その3

2012年01月27日 19時31分26秒 | 歴史
そして、織田信長と武田信玄。


1569年1月、将軍としての権力を制限するため、『殿中御掟』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、義昭と信長の対立は決定的なものになったわけではなく、両者はお互いを利用し合う関係であった。

※殿中御掟:将軍足利義昭に対する21か条の掟。

1570年6月、姉川の戦い

1570年8月、三好三人衆の反乱。石山本願寺が反信長を明確にする

1571年浅井氏・朝倉氏・三好氏・石山本願寺・延暦寺・六角氏・甲斐の武田信玄らに御内書を下しはじめた

※御内書:室町幕府の将軍が発給した私的な書状の形式を取った公文書。

1571年9月、比叡山延暦寺焼き討ち

1571年末、一方、信玄は後北条氏との甲相同盟を回復し徳川領へ侵攻を開始。
信長は足利義昭の命で武田・上杉間の調停を行っており、信長と武田の関係は良好であったが、信長の同盟相手である徳川領への侵攻は事前通告なしで行われた。
信長の姪も勝頼に嫁がせている。

※後北条氏:代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため伊勢平氏の北条氏には「後」をつけて「後北条氏」と呼ぶようになった。

1572年3月、石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反。

1572年10月、義昭に対して17条からなる詰問文を送り、信長と義昭の関係は決定的に悪化。

1572年11月、12月、家康は一言坂の戦いで武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。これに対して信長は、家康に3,000人の援軍を送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に大敗。

1573年1月、2月、武田軍は三河国に侵攻し野田城を攻略。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵。信長は京へ挙兵する。
徳川家の三河防衛網が崩壊し、いよいよ徳川家の重要拠点であった吉田城や岡崎城が危機に陥った。

1573年4月、しかし信玄の急病に伴い、甲斐国へ撤退するがその道中で信玄は亡くなる。



これこそ、信長最大の危機ではないでしょうか。
将軍義昭からの御内書、何より仏教を保護していた信玄にとって延暦寺の焼き討ちに怒ったんでしょうか。進軍して行きます。
事実、信玄は信長に「天魔ノ変化」と非難してます。
信長は滋賀・京方面で手いっぱい。徳川家康は武田軍に大敗し重要拠点まで目前。

信玄の寿命がもう少し長かったら。
家康を破り、尾張まで侵攻なんて事になったかも。
とは言え、若い頃から体調を崩しており三河へ侵攻する時点で持病が悪化した可能性がある。


不思議ですね!

こうなる宿命だった。


運の強さ編、完結です。







人気ブログランキング


人気ブログランキングへ

オカルト


オカルト ブログランキングへ