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是非にあらず

小手前の安心は無い

欠史八代

2012年02月28日 11時21分00秒 | 歴史
天皇は神から続いているなんて言われてますけど、それはかなり怪しいのです。
どうも歴代天皇の中には怪しい天皇もあるようで・・・


欠史八代:正確な表記は、缺史八代、また別体で闕史八代。
『古事記』および『日本書紀』において、系譜(帝紀)は存在するもののその事績(旧辞)が記されていない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のこと、あるいはその時代を指す。
天皇は実在せず後に創作された架空のものだとする考えが史学界で支配的であるが、一方で実在説もある。

※漢風諡号は日本書記より

2:綏靖天皇 - すいぜいてんのう。神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)
3:安寧天皇 - あんねいてんのう。磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)
4:懿徳天皇 - いとくてんのう。大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)
5:孝昭天皇 - こうしょうてんのう。観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)
6:孝安天皇 - こうあんてんのう。日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)
7:孝霊天皇 - こうれいてんのう。大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)
8:孝元天皇 - こうげんてんのう。大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)
9:開化天皇 - かいかてんのう。稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおびびのすめらみこと)

尚、奈良時代後期の文人である淡海三船が歴代天皇の漢風諡号を一括撰進したときに○○天皇と付されたとされる。
※淡海 三船:おうみ の みふね。722年-785年、奈良時代後期の文人。

2:南北朝時代に安居院澄憲の子孫によって編まれたとされる『神道集』によれば、綏靖天皇には食人の趣味があり、朝夕に7人もの人々を食べ、周囲を恐怖に陥れたため、人々は「近く火の雨が降る」との虚言を弄し、天皇を岩屋に幽閉して難を逃れたという逸話があるが、実在が定かでないだけに造作された可能性が高い。
『古事記』には、45歳で没したといい、『日本書紀』によれば、綏靖天皇33年(紀元前549年?)5月に84歳で没したとされる。

3:『古事記』に49歳、『日本書紀』に57歳(67歳?)という。

4:『古事記』に45歳、『日本書紀』に77歳。

5:『古事記』には93歳、『日本書紀』に114歳。

6:『古事記』に123歳、『日本書紀』に137歳。

7:『古事記』に106歳、『日本書紀』に128歳とする。

8:『古事記』に57歳、『日本書紀』に116歳。

9:鳥居がないことで知られている調神社を創建した。『古事記』に63歳、『日本書紀』に115歳(111歳?)。

Wikipediaより

各天皇が何をしたのか書いてないのです。
非実在説と実在説があり、要はどちらか不明なのです。

今後の発掘や書物発見に期待したい!
でなければ、いつまでもダラダラ論じるだけであるのだから。


大正天皇って知ってる??

2012年02月26日 20時08分40秒 | 歴史
現天皇で125代目です。
何人の天皇を知っていまか??
近年でいうと、明治天皇、昭和天皇が有名ですが大正天皇はどうでしょう??

第123代天皇。明治以降で初の一夫一妻制をとった天皇。
「母は皇后・一条美子である」と聞かされて育ったため、「生母が柳原愛子」と言われても、それを信じなかった。
あまり健康は良くなかったようです。
政治的な判断が苦手でもあった。
人物としては非常に庶民的だったと思われます。

創作した漢詩の数は実に1367首もあり、質量とも、歴代天皇のなかでも飛びぬけている。

同年12月25日午前1時25分、静養中の葉山御用邸において、長く会えなかった実母・柳原愛子(二位局)の手を握ったまま崩御。宝算47。
臨終の床に生母を呼んだのは皇后の配慮だったという。

前にも書きましたが、神前結婚式は大正天皇と貞明皇后の婚儀を、東京大神宮が一般向けにアレンジしたものである。

遠眼鏡事件。
大正天皇が進行した脳病により帝国議会の開院式で詔勅を読んだ後、大正天皇はその勅書をくるくると丸め、遠めがねにして議員席を見渡した」とされる「事件」。

本当かは分かりません。

知られてませんね。。。





天皇

2012年02月23日 10時03分02秒 | 歴史
最近、天皇が何かと話題になっているので。
調べてみました。


「天皇」という称号の由来には、複数の説がある。


【御紋】
十六弁八重表菊紋。天皇および皇族の御紋である。後鳥羽天皇の日本刀の御所焼に付した菊紋に始まる。

【古代】
天皇という称号が生じる以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王「おおきみ」(治天下大王)あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された。
古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した。

【律令制での称号】
祭祀においては「天子」
詔書においては「天皇
華夷においては(対外的には)「皇帝」
上表(臣下が天皇に文書を奉ること)においては「陛下」
譲位した後は「太上天皇(だいじょうてんのう)」
外出時には「乗輿」
行幸時には「車駕」
という7つの呼び方が定められている。
どう書いてあっても読みは風俗(当時の習慣)に従って「すめみまのみこと」や「すめらみこと」等と称するとある。
死没は崩御といい、在位中の天皇は今上天皇(きんじょうてんのう)と呼ばれ、崩御の後、追号が定められるまでの間は大行天皇(たいこうてんのう)と呼ばれる。配偶者は「皇后」。一人称は「朕」。臣下からは「至尊」とも称された。
神武天皇から持統天皇までの41代、及び元明天皇・元正天皇の漢風諡号である天皇号は諡号(一人一人の名前)であって「天皇」という称号とは直接関係ない。

【中世】
順徳天皇(在位1210年-1221年)以来、光格天皇(在位1791年-1817年)の諡号が復活するまで、「天皇」の号は生前も死後も正式には用いられなかった。
「今上天皇」は当今の帝(とうぎんのみかど)などとも呼ばれ、譲位した太上天皇は上皇と略称され、仙洞や院などともいった。出家すると太上法皇(略称:法皇)とも呼ばれた。光格天皇が仁孝天皇に譲位して以後は事実上、明治以降は制度上存在していない。これは現旧の皇室典範が退位に関する規定を設けず、天皇の崩御(死去)によって皇嗣が即位すると定めたためである。

【明治以降】
大日本帝国憲法(明治憲法)において、初めて天皇の呼称は「天皇」に統一された。ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」が多く用いられ、日本国内向けの公文書類でも同様の表記が何点か確認されている。
また、天皇は陸海軍(大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍)の統帥権を有することから「大元帥(大元帥陛下)」とも称された。

【現在】
一般的に各種報道等において、天皇の敬称は皇室典範に規定されている「陛下」が用いられ、「天皇陛下」と呼ばれる。
一部の出版物においては、平成22年(2010年)現在の天皇に対して、「平成天皇」という称号を用いる事例が散見される。しかし、明治天皇・大正天皇・昭和天皇の3代の「○○(元号)天皇」という呼称は、その天皇の崩御後に贈られる諡号であり、現在の天皇に対する呼称としては誤りである。また諡号が元号と同一であるのは先の3代の天皇のみの事情であり、今上天皇の崩御後に平成天皇という諡号が贈られると確定している訳ではない。


元々は五七桐は菊紋の替紋として使用されていた。最近では、日本国外において日本の内閣総理大臣の紋章として定着しつつある。桐紋はもともと政府を表す紋章としての性格がある。
五七桐 Wikipediaより

Wikipediaより



元伊勢

2012年02月14日 19時14分52秒 | 歴史
少し前に東京大神宮を記事にしました。
記事はこちら↓
東京大神宮

この中で、倭姫命:やまとひめのみことが祀られていますと書きました。
今日はこの倭姫命のお話です。


天照大神の御杖代として大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされる。
倭姫命が伊勢神宮を創建するまでに天照大神の神体である八咫鏡を順次奉斎した場所は「元伊勢」と呼ばれる)。

伊勢神宮を創祀したときの天照大神から倭姫命への神託は『日本書紀』に次のようにある。

訳した意味は、伊勢は常世の国からの波が何重も寄り来る国であり、辺境ではあるが美しい国なのでこの国に鎮座しよう、ということである。

※元伊勢:疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。
崇神天皇の時代までは天皇と「同床共殿」であったと伝えられ、つまり皇居内に祀られていたが、その状態を畏怖した同天皇が皇女である豊鋤入姫命にその神霊を託して倭国笠縫邑に移したのに始まり、更に理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、垂仁天皇の第4皇女倭姫命がこれを引き継いで、およそ90年をかけて現在地に遷座したと伝わっている。

※崇神天皇:第10代天皇。

※豊鍬入姫命:とよすきいりびめのみこと。崇神天皇の皇女。

※笠縫邑:かさぬいむら、かさぬいのむら。宮中に奉祀していた天照大神を移し、豊鍬入姫命に託して祀らせた場所。比定地は奈良県桜井市の大神神社、奈良県磯城郡田原本町の多坐弥志理都比古神社(おおにますみしりつひこじんじゃ)、他いくつかある。


倭姫命:記紀に伝える古墳時代以前の皇族。第11代垂仁天皇の第4皇女。
伊勢の地に天照大神を祀った(現伊勢神宮)皇女とされ、これが斎宮の直接の起源であるとも伝えられている。

※記紀:『古事記』と『日本書紀』との総称である。


元伊勢各地の地図

元伊勢の巡歴 Wikipediaより

Wikipediaより

とにかくあちらこちらに行ってます。とはいえ主に近畿ですね。
最終的に今の伊勢神宮の地に落ち着くわけですが、昔からこの地域は地震が多い。







神武天皇 歴史学的には

2012年02月12日 18時35分47秒 | 歴史
最後に。


【歴史学界における神武天皇】
神武天皇が即位したという辛酉の歳(紀元前660年)は弥生時代にあたる。
しかしこの原則を古代史に当てはめると、皇室の歴史を直接疑うことにつながる故に、長らく本格的な史料批判は行われないままであった。
日本古代史に真の意味での史料批判が展開されるのは大正期。その後戦後になって皇室のタブーが解かれると、多くの歴史学者によっておおむね妥当な推論であるとして支持されるようになった。


■神武東征の出発地
南九州説
日向の高千穂を文字通り日向の国(宮崎県)の高千穂とするもの。根拠は以下の通り。

・日向は日向の国である。
・日本書紀によれば天孫降臨後、ニニギは移動しているので天孫降臨の地を北九州とすると、神武東征の出発地は別の場所である。

北九州説
本来の伝承は九州北部とするもの。根拠は以下の通り。

・日向国ではなく日向と書かれており、日向国は景行天皇の言葉が基で命名されたとあるので、神武天皇即位以前には存在せず、日向はヒュウガではなくヒムカと読み、東向き、南向きの意か美称である。
・高千穂は高い山の意でその証拠に複数存在する。
・『古事記』では天孫降臨で日向の高千穂を韓国に向かい笠沙の岬の反対側の所としている。
・舟軍で出発したので現高千穂峰ではない。
・南九州を出発すると豊後海峡より流れの速い関門海峡を二度通ることになり、記述が不自然である。
・寄港地の岡の水門(港)は九州北部の遠賀とされる。
・東征して大和に到るのは北九州しか有得ない。南九州では四国の南に出る。
・経路が瀬戸内海の北側である。
・南九州は熊襲の本拠地である。

否定説
神武天皇が九州から近畿へと遷ったとすることに否定的な意見もあり、主に邪馬台国畿内説支持者の立場の研究者による考古学的観点からの否定説がある。

・西谷正は、北部九州が近畿を征服する状況が想定できないとする。主な理由として、近畿の方が石器の消滅が早く、鉄器の本格的な普及が早い。さらに方形周溝墓は近畿から九州へも移動するが、九州の墓制(支石墓など)は近畿には普及していないことが挙げられる。
・邪馬台国の時代の土器である庄内式土器の移動に関する研究から、近畿や吉備の人々が九州へ移動したことは確認できるが、逆にこの時期(3世紀)の九州の土器が近畿および吉備に移動した例は見られず、邪馬台国の時代に九州から近畿へ集団移住は考え難い。
・4世紀代の九州に大和に見られるような大規模な古墳・集落遺跡が見られないので、この段階での九州勢力の東征は想定できない(山中鹿次)。したがって、応神期に東征の史実があったとも捉え難い。
・大和朝廷による南九州の支配は、推古朝から記・紀の完成にかけての時期に本格化したと想定され、608年の隋の琉球侵攻に対応し、隣接の南九州の領土権を強く主張する為、この説話が形成されたと原島礼二は見解を示している。元は隼人の説話であり、それを天皇家が取り入れたとも。

Wikipediaより

まだまだこれからの解明ですな。




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