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是非にあらず

小手前の安心は無い

新年スペシャル

2013年01月04日 10時58分40秒 | 歴史
ということで、勝手なスペシャル企画です。

少し前に、隣に居た同僚からこんな事を言われたのです。

弘前=ひろまえ

「ひろさき」でしょうとすぐさま返したのですが
よくよく考えてみると馴染みのない他の都道府県の人たちは「ひろまえ」と読んでしまいますね。

ということで、第一弾は弘前です。

弘前市によると地名の由来は下記です。

弘前は、以前「高岡」とか「鷹岡(鷹ヶ岡)と呼ばれていたそうです。
これは、城地が高台にあることや、昔は鷹が多く生息していたというところに由来があるようです。
高岡が弘前に改称された理由は、はっきりしておりません。
ひとつには、北海道への海上交通の要地で、その地勢が広大なところから「広崎」と呼び、それが「弘前」になったという説や、十三岬から松前(北海道)までの海を「尾閭(びろ)」と呼び、十三岬を「尾閭ヶ崎」と呼んでいたのをとって「弘前」としたという説のほか、イギリス人チェンバレンが唱えたアイヌ語に起源があるという考え方などがありますが、いずれも明らかではありません。
「信枚君一代之自記」には、「弘前」という名称が用いられたのは、寛永5年(1628
年)の8月20 日からと記録されています。
(参考「弘前市史 藩政編」

はっきりとわからないとは。
しかしながら昨日、Wikipediaで調べていた時に発見致しました。

1628年ですと、弘前藩2代藩主 津軽 信枚の時代になります。
この方、天海に弟子入りをしているのです。
※天海:安土桃山時代から江戸時代初期の天台宗の僧。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。大僧正。諡号は慈眼大師。徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。

寛永4年(1627年)9月、高岡城の天主が落雷で炎上し内部の火薬に引火して大爆発を起こして焼失した。この天守炎上は、信枚の伯母(初代津軽為信の正室・阿保良の姉)が為信のため失意の内に病没した祟りと当時信じられ、それまで「高岡」と呼ばれていた藩都を翌寛永5年(1628年)8月、天海が天台密教での破邪の法から名付けた「弘前」と改めたとあります。
※破邪の法:手刀で空間を「臨兵闘者皆陣烈在前」の掛け声ともに縦横に切り、九字の真言を唱えつつ素早く九字の印を作り神聖な波動を送り邪を払う。

破邪の法でどうやって弘前が出てきたのかはわかりません。
弘く(広く)、そして破邪の法の前で縁起が良いのでしょうか。

さて、次回は弘前藩初代藩主、津軽為信から代々を紹介しましょう。



それぞれの意味は

2012年12月01日 20時58分23秒 | 歴史
知っていたら受験に役立ちますでしょうか。


【法皇】
出家した上皇。太上天皇。またはその称号のことをいう。法皇(ほうおう)と略する。

【天皇】
古代からの日本の王族の長。

【上皇】
皇位を後継者に譲った天皇に送られる尊号。または、その尊号を受けた、その人。太上天皇。

【院政】
在位する天皇の直系尊属である太上天皇(上皇)が、天皇に代わって政務を直接行う形態の政治である。

【摂政】
君主制を取る国家において、君主が幼少、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことができない時、君主に代わってそれ
を行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。

【征夷大将軍】
元来は東方の「蝦夷(蛮族)」を征討することを任とする大和朝廷の役職。令外官。権限の大きさから臨時にしか置かれなかった。

【関白】
天皇が幼少または病弱などのために大権を全面的に代行する摂政とは異なり、関白の場合は最終的な決裁者はあくまでも天皇である

【太政大臣】
日本の飛鳥時代から明治時代まで存続した官職。律令官制の中で最高の役職。

【執権】
鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け政務を統轄した。元来は、政所の別当の中心となるものの呼称であった。


こういう意味って習ったかなぁ。



古史古伝

2012年09月01日 16時12分50秒 | 歴史
古史古伝:日本の古代史で主要資料とされている「記紀(『古事記』と『日本書紀』)」とは著しく異なる内容歴史を伝える文献を一括して指す名称。古史古伝は今のところ、いずれも学界の主流からは偽書とみなされている。

・写本自体が私有され非公開である、などの理由で史料批判がなされる予定がなく、史料として使えないものも多い
・超古代文明について言及されている
・漢字の伝来以前に日本にあったと言われている神代文字で綴られている
・近代以降の用語が使用されている

歴史学的な価値は非常に低く、古代からの伝来である可能性も極めて低いと考えられている。

【 吾郷清彦による分類】
古典四書
・『古事記』
・『日本書紀』
・『先代旧事本紀』(旧事紀)が古典三書
・『古語拾遺』を加えて古典四書

異端としての超古代文書に対して正統な神典としての比較対象のための便宜的な分類。

古伝四書
・『ウエツフミ』
・『ホツマツタヱ』(※漢字ではなくカナ書きするのが吾郷の流儀)
・『ミカサフミ』
・『カタカムナのウタヒ』(いわゆる「カタカムナ」)
「カタカムナ」を除いて「古伝三書」ともいう。

この「古伝四書」は全文が神代文字で書かれているという外見上の体裁による分類であって、内容に基づく分類ではない。

古史四書
・『九鬼神伝精史』(いわゆる「九鬼文書』。『天津鞴韜秘文』(あまつたたらのひふみ)は九鬼文書群の一部である)
・『竹内太古史』(いわゆる「竹内文献」。「天津教文書」「磯原文書」ともいう)
・『富士高天原朝史』(いわゆる「富士谷文書」(ふじやもんじょ)。「宮下文書」「富士宮下古文献」ともいう)
・『物部秘史』(いわゆる「物部文書」)
『物部秘史』を除いて「古史三書」ともいう。

神代文字をも伝えてはいるものの、本文は漢字のみまたは漢字仮名まじり文で書かれたもの。やはり内容による分類ではない。

異録四書
・『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)。いわゆる「和田家文書」の一つ。吾郷がこの著書を著した頃には『東日流外三郡誌』以外の和田家文書は知られていなかった。
・『但馬故事記』(たじまこじき。「但馬国司文書」とも。但馬故事記は本来は但馬国司文書の中の代表的な書物の名)
・『忍日伝天孫記』(おしひのつたえてんそんき):自動書記
・『神道原典』(しんとうげんてん) :霊界往来による霊感の書
『神道原典』を除いて「異録三書」ともいう。

※吾郷清彦:超古代史研究家。

以上、Wikipediaより


他、上げたら切がないほどある。
それぞれの古史古伝各書について、別途記載しましょうね。長くなりそうですから。




日本中央の石碑

2012年07月29日 10時59分19秒 | 歴史
つぼのいしぶみ
坂上田村麻呂が大きな石の表面に、矢の矢尻で文字を書いたとされる石碑で、歌枕でもある。
「つぼのいしぶみ」のことは多くの歌人その他が和歌に詠った。
藤原清輔、寂蓮法師、西行法師、慈円、源頼朝、藤原仲実、和泉式部、南部重信、高山彦九郎、岩倉具視、大町桂月ら。
内容はいずれも「遠くにあること」や「どこにあるか分からない」ということをテーマにしている。数多くの人がこの碑のことを詠ったため、有名な石であったが、どこにあるか不明であった。


文治年間(1185~1190年)に歌学者の藤原顕昭が著した「袖中抄」に、

 『顕昭云、いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有。
 日本の東のはてと云り。
 但田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に
 日本の中央のよし書付たれば石文と云と云り。
 信家の侍従の申しは、石の面ながさ四五丈計なるに文をゑり付たり。
 其所をつぼと云也。(それをつぼといふ也。)
 私云、みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて千嶋とも云ば、 陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ。』


※四五丈:約12m~15m


【多賀城碑壺碑説】
江戸時代の初め頃、多賀城跡付近のある市川村で石碑(多賀城碑)が発見された。
発見当初から「つぼのいしぶみ」であるとされていた。
田村麻呂が到達している地点であることは事実と一致するが、『袖中抄』にあるような、日本の中央のよしを書いたということ、「つぼ」という地名や四、五丈(12~15メートル)の石に書いたという記述とは一致しない。 多賀城碑が「つぼのいしぶみ」と結びつけられたのは江戸時代のことであり、当時は古来からの歌枕を自領に置こうという動きがあった。多賀城碑が「つぼのいしぶみ」となったのも仙台藩の強い意図があったと言われている。

【南部壺碑説】
青森県東北町の坪(つぼ)という集落の近くに、千曳神社(ちびきじんじゃ)があり、この神社の伝説に 1000 人の人間で石碑を引っぱり、神社の地下に埋めたとするものがあった。
明治天皇が東北地方を巡幸した1876年(明治9年)、この神社の地下を発掘するように命令が政府から下った。神社の周囲はすっかり地面が掘られてしまったが、石を発掘することはできなかった。

『6月13日宮内庁から依頼があり、千曳神社の社殿を5間ばかり右方に移してその下左右に長い大穴を穿ち、さらに社殿の前後左右を4ヶ所ほど掘ったが碑らしきものは遂に出土しなかった。』と甲地村史に記載されているという。

※5間:約9m


1949年(昭和24年)6月、東北町の千曳神社の近くにある千曳集落の川村種吉は、千曳集落と石文(いしぶみ)集落の間の谷底に落ちていた巨石を、伝説を確かめてみようと大人数でひっくり返してみると、石の地面に埋まっていたところの面には「日本中央」という文面が彫られていたという。
この地区には田村麻呂は到着していないし、実際に都母(つも)に行ったとされる武将は文屋綿麻呂である。しかし、多くの古い事柄を有名な英雄である坂上田村麻呂に関係づける傾向がこの地方に多い。実際に綿麻呂が書いたとすれば811年(弘仁2年)頃の出来事になる。

発見後、新聞社や学者が調査を行うが、本物の「つぼのいしぶみ」であるとする鑑定がはっきりと出されていないのが現状である。
、『袖中抄』の記述とは一致するが、常識とは違う「日本中央」という文面や、多賀城碑の存在、田村麻呂が現地に到達していないという問題、一見して達筆であるとは言えない字の形も鑑定に影響を及ぼしている。

日本中央とは蝦夷の土地の中央であるから「日本中央」であるという説がある。


§日本中央の碑保存館§
■住所 青森県上北郡東北町家ノ下タ39-5
■TEL 0175-64-7979
■開館時間 9:00~16:00
■休館日 毎週火曜日、年末年始(12月28日~1月3日)
■入館料 無料
■最寄駅 千曳駅(青い森鉄道)/ 駅から車で約6分
■東北町HP 東北町HP


§千曳神社§
■住所 青森県上北郡七戸町字菩提木56
■問合せ 七戸町生涯学習課 TEL 0176-62-9702
■拝観料 無料
■最寄駅 千曳駅(青い森鉄道)/ 駅から車で約11分
■旅の蔵HP 旅の蔵HP


【参考サイト】
石碑の写真もあります。

JANJAN記事
雅爺の小部屋
千曳神社由緒

Wikipediaより



任那日本府

2012年04月21日 11時11分42秒 | 歴史
久しぶりの歴史を一つ。
アメリカ大陸に中国人が渡っていたなんて歴史もある?!ぐらいなのでこういうのがあっても不思議ではないのです。


任那日本府:みまなにほんふ。日本書紀の欽明紀に記されている、古代、朝鮮半島南部の伽耶またはその一部である任那にあった倭国の統治機関。倭の影響力が同地域に及んだとの見方が一般的。
「日本」と定まった後世なので、鎌倉時代末期に成立したと推定される『日本書紀』の注釈書『釈日本紀』では任那之倭宰(みまなのやまとのみこともち) 、任那日本府が存在したとされる時代にあっては、倭府(やまとのつかさ)とも表記したのではないかとされる。日本書紀では任那官家(みまなのみやけ)という表記も見られる。
※伽耶
伽耶の地図

1:『日本書紀』をはじめ、中国や朝鮮の史書でも朝鮮半島への倭国の進出を示す史料が存在すること。
2:『広開土王碑』に倭が新羅や百済を臣民としたと記されているなど、朝鮮半島での倭の活動が記録されており、また幾多の日本列島独特の墓制である前方後円墳が朝鮮半島で発見され始めたこと。
3:新羅・百済・伽耶の勢力圏内で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領では稀)したこと。
等の史実より、倭国と関連を持つ何らかの集団(倭国から派遣された官吏や軍人、百済王に臣従した倭系百済官僚)が現在の全羅南道である地方において一定の軍事的・経済的影響力を有していたのではないかと思われている。

1,2は韓国・朝鮮の学会では他の解釈を取り否定されている。2は前方後円墳が発見された場所は任那ではなく全羅南道なので論難の余地がある。
ヒスイに関して、朝鮮半島には勾玉に使われるヒスイ(硬玉)の産地はなく、東アジア全体でも日本の糸魚川周辺とミャンマーしか産地がないこと。
最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明した。

※全羅南道
全羅南道の地図

以上、Wikipediaより

まだまだ調査不足みたいなので、今後を待ちたいですな。
両国などの思惑が絡んでるのでしょうか。
そんなので歴史を曲げないで欲しいと願うばかり・・・



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