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是非にあらず

小手前の安心は無い

津軽 信寿

2013年01月14日 10時39分47秒 | 歴史
津軽 信寿(つがる のぶひさ・津軽 信壽)は、陸奥弘前藩の第5代藩主。

寛文9年(1669年)5月24日、第4代藩主・津軽信政の次男として生まれる。
42歳で弘前藩主家の家督を継ぐ。

その後、初帰国した際は長大な行列を組んでお国入りし、7日以上も祝宴を開き、将軍から贈られた関ヶ原合戦図屏風を公開し、また父の廟所に高照神社(高照霊社)を創建して遷宮祭事を盛大に執り行った。
※高照神社:高照神社(たかてるじんじゃ)は、青森県弘前市に鎮座する神社である。


信寿自身は小野次郎左衛門忠於・忠一に小野派一刀流を学び直伝を受け、その直伝を小野家の忠方に授け返した程の剣の達人で、また信寿は文化芸術に対する理解もあったらしく、書を良くし、画においても狩野派を学ぶなどした。1737年(元文2年)には自らの手で、絵入俳書である『独楽徒然集』を2冊編纂した。

1723年(享保8年)に江戸の漆芸家・小川破笠をお抱えとして創作活動への援助を行い、この“津軽様お抱え”の看板が、破笠の名声を高めるきっかけとなった。当代有数の教養人という評判もあり、まさに文武両道を極めた人物であった。
※小川破笠:小川 破笠(おがわ はりつ、寛文3年(1663年) - 延享4年6月3日(1747年7月10日))は江戸時代の漆芸家、画家(浮世絵師)、俳人。


『津軽一統志』(藩史、地域史)を編纂させたことが挙げられる(ただしこれは先代からの継承事業とも言われている)。
※津軽一統志:津軽一統志(つがるいっとうし)は、弘前藩(津軽藩)が編纂した官撰史書。1731年(享保16年)刊行、全10巻(首巻・附巻除く)。
※官撰史書:政府で編集あるいは選定する歴史書。


信寿の治世中に平内山の国境の件で隣国の盛岡藩との争いが起こり、幕府が裁断することとなった、弘前藩側の緻密な調査と資料作成提示、対する盛岡藩の不備によって、この一件は弘前藩の全面勝訴に決した。


趣味や風雅は金がかかるものである。相続時にも藩主が率先して、前述のような派手な振る舞いを挙行していたが、その裏で藩財政は極めて悪化していた。前代から続く凶作や治世中の天災のために藩収入は減少しつつあり、急場をしのぐためにも弘前藩は家臣の給与をそれまでの俸禄制から知行制へと、むしろ古式に変更している。
※俸禄制:藩主の領地から上がる年貢収入は一旦すべて藩の蔵に入れ、そこから藩士に蔵米を年俸として支給する。
※知行制:武家社会において、家臣に一定の土地の支配権を与える制度。主従関係の基礎。


また倹約令を発布する傍ら、藩士の給与を一律1割カット、さらには大量リストラを断行している。領民に対しては年貢率のアップを行い、豪商、豪農には御用金や御用米をも命じている。この状況の中、領内にいても温泉巡りや別邸での大宴会を楽しみ、江戸出府中の交際費も増加する一方であり、また遊興費もかさむ一方であったが、家臣団をも引き連れての吉原遊びをやめることはなかった。

当初、藩財政をみていたのは先代からの武田定清であったが、徹底した倹約と検地による徴税強化で藩内の恨みをかっているとみるや、信寿は無理やり武田に切腹を命じた。代わってイエスマン的家臣を重用し、特に佐藤著恒は信寿に重用され、江戸の屋敷に池を造り、「敷地内に隅田川と直結する池を作って、池から直接舟を仕立てて信寿一行と共に吉原に通う」などの遊びをプロデュースし、主の歓心を買うことに精を出した。ある意味忠臣ではある。
※武田定清:武田 定清(たけだ さだきよ、承応2年(1652年)-正徳2年2月13日(1712年3月19日))は、江戸時代前期の津軽藩家臣。新田開発など功績を上げ、勘定奉行、元締役を経て大目付に任じられた。しかし飢饉があった際に飢饉の責任を追及され、馬廻組番頭に左遷。再度、勘定奉行に任じられるが信政が没し信寿になると、突如全ての役職と俸禄を奪われ、翌月には嫡男とともに切腹を命じられて武田家は断絶した。

これら遊興費のため藩の借金が増えると、佐藤は国許に帰っては借金返済の金策を行った。前述の豪農や豪商に御用金・御用米は、実はこれに充てられた。これらの行動は、質素倹約を旨とする享保の改革を推し進める時の将軍・徳川吉宗の耳に入ることになる。

1730年(享保15年)、嫡男の信興が早世したため、1731年(享保16年)5月16日に信興の嫡男、つまり嫡孫である信著に家督を譲って隠居し、剃髪して竹翁、後に栄翁と号した。楽隠居として趣味風雅の道に遊びたいところではあるが、当時信著はいまだ13歳であったため、後見人としてなんらかの補佐は行っていたものと考えられる。信寿は老齢のため隠居・引退というのが表向きの理由であったが、次代の13歳での相続はさすがに早い。これは信寿の派手な暮らしぶりに対する、質素倹約を推進する将軍・徳川吉宗および幕閣による懲罰的措置であるともされている。

1744年(延享元年)に、今度は信著が26歳で早世する。弘前藩主は信著の嫡子・信寧が相続するが、いまだ幼年(当時6歳)であったため、曾祖父の信寿が補佐を行った。『津軽一統志』が完成した1746年(延享3年)1月19日、78歳で死去した。


Wikipediaより





津軽 信政

2013年01月13日 19時50分52秒 | 歴史
津軽 信政(つがる のぶまさ)は、陸奥国弘前藩の第4代藩主。

幼少であったため、しばらくは叔父に当たる津軽信英が補佐を務めた。信政は幼少期から聡明な人物で、山鹿素行に師事して儒学や兵学を学び、吉川惟足の師事も受けて神道を学んだ。そして、惟足からは吉川神道の奥義を授けられている。
※山鹿素行:山鹿 素行(やまが そこう、元和8年8月16日(1622年9月21日) - 貞享2年9月26日(1685年10月23日))は、江戸時代前期の日本の儒学者、軍学者。山鹿流兵法及び古学派の祖である。
※忠臣蔵の大石内蔵助良雄と津軽信政は共に山鹿素行の元で学んだ兄弟弟子の間柄。
※吉良上野介は領民や家族・友人などの身内に対してはやさしかったらしいが、 津軽信政公に招かれた宴席で「飯がまずい」と高言。
※元禄赤穂事件(忠臣蔵):雪のイメージが強い事件だが、この日の「弘前藩庁日記」(江戸日記)には、「天気好し」と記されている。
※古学派:古学(こかく、聖学)は、山鹿素行が興した学問で、儒教の一派。
※吉川惟足:吉川 惟足(よしかわ これたり、元和2年(1616年) - 元禄7年11月16日(1695年1月1日))は、江戸時代前期の神道家。吉川神道の創始者。
※吉川神道:吉田神道を受け継ぎながら、それに朱子学的な解釈を加えた。吉川神道では、神道を祭祀や行法を中心とした行法神道と天下を治める理論としての理学神道に分類し、理学神道こそが神道の本旨であるとした。
※吉田神道:吉田神道(よしだしんとう)とは、室町時代京都吉田神社の神官吉田兼倶によって大成された神道の一流派。唯一神道、宗源神道とも。


津軽新田の開発、治水工事、山林制度の整備、植林、検地、家臣団の郊外移住による城下町の拡大、養蚕、織物、製糸業、紙漉の発展・育成などに努めた。民政においても善政を敷き、弘前藩の藩政確立と発展に尽力し、藩の全盛期を築き上げた。
文化面においても、豊田雅一や渋江道陸ら40名にも及ぶ文化人を招聘して藩の文武発展に努めた。
対外的には寛文9年(1669年)のシャクシャインの蜂起鎮圧、天和3年(1683年)の日光山宮普請役などで功績を挙げている。

しかし晩年の貞享4年(1687年)、烏山藩主・那須資徳(信政三男)の相続問題で幕府より叱責を受けたうえ、烏山藩那須氏改易という、那須家の御家騒動に巻き込まれる(武家の名門である那須家は、交代寄合1000石として存続した)。
※烏山藩:烏山藩(からすやまはん)は、下野国那須郡烏山(現在の栃木県那須烏山市城山)に存在した藩。藩庁は烏山城に置かれた。
※那須家の御家騒動:養父資弥の次男である福原資寛とその生母が、資徳の家督相続を不当であると訴えたことに始まる。
※那須氏:那須氏(なすし)は、日本の氏族。下野国那須郡を発祥とする。
この那須氏の末裔(直系に当たる)が昭和初期に起きた弘前大学教授夫人殺人事件の被告人となったが、裁判により冤罪とされている。

弘前大学教授夫人殺人事件はこちら


元禄8年(1695年)、藩内を襲った大飢饉で3万人以上の死者を出すなど、藩政にも行き詰まりが見え始める。元禄16年(1703年)にも播磨国赤穂藩における旧浅野氏藩士処分などの失態事件を起こすなど、次第に信政自身にも老耄が見え始め、藩政は衰退の一途をたどった。

宝永7年(1710年)10月18日、弘前にて死去、享年65。

晩年は失態を重ねたが、それでも弘前藩の全盛期を築き上げた手腕は高く評価され、江戸時代前期の名君、並びに弘前藩中興の英主と言われている。


Wikipediaより
陸奥新報より








津軽 信義

2013年01月13日 11時39分26秒 | 歴史
津軽 信義(つがる のぶよし)は、江戸時代の大名。陸奥国弘前藩の第3代藩主。

寛永8年(1631年)、父・信枚の死去により13歳で家督を相続、異母弟の津軽信英とともに将軍徳川家光に拝謁する。

若年で藩主となったため、譜代の老臣たちと信義の近従たちとの対立を抑えられず、やがて御家騒動にまで発展した。
これは幕府の助力を得て喧嘩両成敗により、両派から多数の処罰者を出して何とか沈静化したが、このために信義は積極的な藩主権力の強化に臨んだ。
※寛永11年(1634年)船橋騒動:元和9年(1623年)に辰姫が死去したため信義は江戸弘前藩邸に引き取られ、信枚の死後寛永8年(1631年)に13歳で藩主となった。それに伴い信義が幼少の頃から近侍していた船橋半左衛門親子の権力がにわかに強力となる。藩内では元々古参の譜代家臣と新参者の家臣の間に対立が生じており、これを契機に新参家臣らが船橋半左衛門に集まって対立は決定的となった。

寛永11年(1634年)7月、信義は3代将軍徳川家光の上洛に同行、翌月江戸藩邸に帰りつく。この時譜代派の家臣が江戸の町家に立て篭もり「船橋半左衛門らの放逐」を藩に求めた。藩は説得にあたったが失敗、結局幕府が介入し藩主信義、船橋派の代表、譜代派の代表らを喚問して騒動解決をはかった。

裁定が下ったのは2年後の寛永13年(1636年)、信義は若年であり態度も神妙であることから咎めはなく、喧嘩両成敗として譜代派中心人物は長門の毛利家、船橋半左衛門親子らは伊予の松平家にお預けとなった。
※船橋半左衛門:旧宇喜多秀家家臣


正保4年(1647年)、これに反発する家臣たちの、信義を強制隠居させ、信義の異母弟・信英(母が徳川家康の養女で、旗本として取りたてられていた)を新藩主として擁立する主君押込の陰謀が発覚し、連座者は粛清された。
※正保の騒動:正保4年(1647年)、3代藩主信義を強制隠居・嫡子信政を廃嫡させ、信義の異母弟で幕府旗本の信英を藩主に擁立しようとする主君押込の企てがあった。計画段階で信義へ密告があり大きな騒動となる前に防がれている。(この密告者が信英の弟・津軽百助信隆だとされている。)異母弟や妹婿も処罰したが、信英については関与が明らかでないことやすでに旗本の身分であったことなど信義自身が信英に好意的であったことからなにも咎められなかった。
※信英:母は満天姫とされ徳川家康の義理の孫。黒石領5000石の初代当主。


治績においては、強力なリーダーシップを発揮し、治水工事、津軽新田の開発、尾太鉱山の開鉱、牧場の開設など多くの功績を挙げている。また、25男26女(一説では男女合わせ38人)という多くの子女をもうけた。
※尾太鉱山:尾太鉱山(おっぷこうざん)は、青森県中津軽郡西目屋村にある鉱山で、銀・銅・鉛を産出、1979年に閉山した。

明暦元年(1655年)11月25日、江戸神田邸にて死去した。享年37。
暗君とは言われるが、死後、家臣の4人が後を追って殉死している。








津軽 信枚

2013年01月12日 12時21分42秒 | 歴史
津軽 信枚(つがる のぶひら、信牧とも書く)は、陸奥弘前藩2代藩主。
正室は徳川家康の養女・満天姫(松平康元の娘)。側室に高台院の養女・辰姫(石田三成の娘)。
※信枚は参勤交代のたびに辰姫を訪ね仲は睦まじかったと伝わっている。
※弘前藩は上野国大館に飛び領地がある。辰姫はそこに住んでいた。
※上野国:領域は現在の群馬県とほぼ同じだが、群馬県桐生市のうち桐生川以東は含まれない。
※辰姫が大舘の地で信義を産んだ縁により、群馬県尾島町(現在の太田市)では昭和61年(1986年)の尾島まつりに津軽特産のねぷたが登場。現在は毎年8月に尾島ねぷた祭りが開催されている。


慶長元年(1596年)、父の命により兄の津軽信建・信堅とともにキリスト教徒となっていた。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの折、親子兄弟が分かれて東西陣営両天秤にかけたとも言われている。石田三成の遺児である石田重成と辰姫を匿ったことが確認される津軽氏だが、ある関ヶ原合戦図の東軍家康本陣には「卍」の旗が書かれている。これが津軽信枚が家康本陣に詰めていたとされる一史料である。戦後数々の親石田・西軍方的な動きなどが不問となり、津軽一族で父・為信、兄・信建を差し置いて、ひとり信枚だけが論功叙任されていること、わずかながらも上野国大館に加増2,000石を受けていることなどから、前述の説が真実味を増す。

慶長12年(1607年)、父・為信の死により家督を継承し、家督相続のお礼言上に江戸へ伺候した際、天海に弟子入りする。

慶長13年(1608年)、兄・信建(父・為信より先に夭逝)の遺児・熊千代(大熊)を擁する家中一派との、家督を巡る争いが起こる。一時津軽氏は取り潰しの危機にさらされたが、信枚は幕府に対して親睦策を取り、幕府人脈および幕閣の対立を背景にしてこの争いに勝利し、改易の危機を免れたという。

慶長17年(1612年)に2代藩主津軽信枚と、津軽騒動で信枚側につき活躍した重臣高坂蔵人が、1人の児小姓を奪い合った騒動もある。
騒動の発端は慶長17年2月27日津軽信枚のお気に入りの児小姓八木橋専太郎を高坂蔵人が久里九兵衛の屋敷に招き、幾度もの命令にも関わらず八木橋専太郎を帰さなかったため、八木橋専太郎を弘前城に呼びつけ殺した。そして、3月3日久里九兵衛の屋敷を攻め立て、久里九兵衛は寺に逃げ込み切腹して果てた。さらに、高坂蔵人の南部藩への脱藩計画も発覚、その翌日弘前城に挨拶に来た高坂蔵人を竹森六之助、東海吉兵衛、服部孫助、兼平源助が殺した。
高坂蔵人の母・同士、連判の士80名余りの家族・親類・縁者が斬罪になり、逃亡する家臣も多数出たため、弘前藩の家臣数が半分にまで減ったといわれている。


5万石に満たない大名としては破格の五層の大天守をも持つ城郭を、着工から1年2ヶ月という早さで慶長16年(1611年)構築し、城下に現在の弘前市に繋がる城下町を整備した。「幕府は北辺警備の都合も考慮して、大城郭築城を許可した」とも言われている。

元和2年(1616年)家康が没し、家康を祀る日光東照宮が翌年建立されると、津軽家からも東照宮勧請願いが出され、徳川御三家や親藩を差し置いて許可される。これには天海の強い意向があったと言わる。
※領地に家康の威光の象徴である東照宮(弘前東照宮)がある。
元和5年(1619年)6月、幕府は安芸広島藩主である福島正則に津軽への転封を、津軽家には越後への転封を命じる内示を出した(福島正則は満天姫の前夫である福島正之の義父である)。
しかし内示から1ヶ月も経たない内に津軽家の移封は取り消しされた。

寛永4年(1627年)9月、高岡城の天主が落雷で炎上し内部の火薬に引火して大爆発を起こして焼失した。この天守炎上は、信枚の伯母(初代津軽為信の正室・阿保良の姉)が為信のため失意の内に病没した祟りと当時信じられ、それまで「高岡」と呼ばれていた藩都を翌寛永5年(1628年)8月、天海が天台密教での破邪の法から名付けた「弘前」と改め、藩名も以後、弘前藩と呼ばれるようになった。弘前だけではなく陸奥湾の奥に青森港の港湾施設および街を構築し、蝦夷または江戸との交易ルートを整備した。これが現在の青森県庁所在地である青森市となる。領内の新田開発、農地整備、新規人材登用も積極的に行い、弘前藩の基礎を整えた。

寛永8年(1631年)1月14日、江戸藩邸にて死去した。48歳。
10人近い男子に恵まれたが、跡を継いだのは辰姫の子、つまりは石田三成の孫である長男の信義であった。
長男であること、そしてなにより信枚の強力な意志によって、信義跡目と定められたと伝わっている。

Wikipediaより







津軽 為信

2013年01月05日 17時56分35秒 | 歴史
津軽 為信については、下記をご覧頂ければ良いでしょう。
それでは、これで終わってしまいます。
やはり、特出すべきところをかいておかねばなりません。

津軽 為信 Wikipedia

【謀反】
津軽氏側資料によると、元亀2年(1571年)5月(天正9年(1581年)説もある)自分の支城の堀越城から出撃、2キロメートルほど離れている石川城を突如攻略し、南部宗家である三戸南部家当主・晴政の叔父にあたる石川高信を自害に追い込んだ(生き延びたとする説もある)。

※堀越城(ほりこしじょう)は、青森県弘前市堀越字川合・柏田にかつてあった城。国の史跡となっている。城である。城址は熊野神社となっている。
1336年(建武3年)、北朝方の曾我太郎貞光により築城される。1615年(元和元年)の一国一城令により廃城となる。
※石川城(いしかわじょう)は青森県弘前市に築かれていた城。 津軽の曽我宗家である平賀の曽我道性により建武元年(1334年)に築城されたと伝わる。慶長16年(1611年)、弘前城築城に際し石川城は廃城となった。
※南部 晴政(なんぶ はるまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐源氏の流れを汲む。南部氏第24代当主。
※石川 高信(いしかわ たかのぶ)は、戦国時代の武将。

南部晴政は、この頃には石川高信の実子でかつ晴政の長女の婿となり養嗣子であった石川信直と争っており、三戸南部家と石川家の内部抗争をいいことに為信は周りの豪族を次々に攻め始める。晴政が対立する石川家を弱体化させるため石川家の津軽地方をかすめ取るよう、為信を密に唆したとの説もある。天正2年(1574年)大光寺城の城代滝本重行を攻め、翌年(1575年)攻め落とす。 天正6年(1578年)7月、あらかじめ無類の徒輩を潜入させておき放火、撹乱で浪岡城を落城させ浪岡御所・北畠顕村(北畠親房の後裔)を自害させる。
※大光寺城(だいこうじじょう)は、青森県平川市大光寺にあった平城。慶長15年(1610年)、弘前城築城のため破壊され、建材が利用された。また、弘前城亀甲門は、大光寺城の追手門を移築したものであり、本丸御殿の欄間は弘前の専光院に使われた。
※浪岡城(なみおかじょう)は青森県青森市にかつて存在した平城で、国の史跡に指定されている。築城以前は、1373年(文中2年)に平安京を模して敷地の四隅に祇園(現・北中野広峰神社)、八幡(現・浪岡八幡宮)、加茂(現・五本松加茂神社)、春日(現在は廃社)の各神社が配置されていた。

【大光寺城城代、滝本重行との戦】
天正3年夏、大浦(津軽)為信が4000人もの大軍を率いて攻めてきた。しかし、城代滝本重行が700の手勢を率いて、本陣に切り込んだ。大浦為信は馬の足を泥田にとられるも、近習の機転により辛くも窮地を脱し、堀越城に逃げ帰った。
しかし、天正4年(1576年)正月元旦、新年の祝賀中を大浦為信に奇襲され、支城の尾崎城、新屋城などと共に落城し、滝本重行は南部に逐電した。
天正7年(1579年)7月、滝本重行・北畠顕則らと共に1000人の兵で津軽に侵攻した。
乳井城を奪取・沖館城を攻撃したが、城方の反撃で敗れる。その間に大浦為信は兵を集め、六羽川流域で衝突し激戦を繰り広げた。戦いは夕暮れまで続き、大浦勢は次第に追い詰められ、為信本陣の旗本もほとんどが討ち死にした。すると、本陣にいた田中太郎五郎が為信の身代わりとなって突撃、為信を討ち取ったと思い込み油断した比山勢は隙をつかれ、大将比山六郎が討ち死にした。これによって、総崩れとなった比山・北畠・滝本勢は敗走し、大館に撤退した。
※近習:主君の側近にあって奉仕する役。〈きんじゅ〉と読むことが多い。
※乳井城:青森県弘前市大字薬師堂の崖縁城
※六羽川:青森県平川市を流れる河

とまぁ、長くなってしまいました。
長い歴史ですから、長くなるわけでございます。

しかしながら歴史は真実を伝えてない場合もあるようで・・・


南部氏側資料によると、石川高信が津軽に入ったのを元亀3年(1572年)として、天正9年(1581年)に(為信に攻め殺されてなく)病死としている。
そして為信は、高信から津軽郡代を継いだ二男(石川信直にとり弟)の石川政信に重臣として仕え、主君に取りいるために自分の実妹・久を政信の愛妾に差し出していた。同役の浅瀬石隠岐が死ぬや政信に、もう一人の同役の大光寺左衛門尉光愛を讒言し出羽国に追放させた。そして天正18年(1590年)政信と於久をともども宴席に招待し油断させて毒殺し、その居城だった浪岡城を急襲占拠して津軽地方を押領したとある。

しかし、これに関しては南部氏側の作意を示す証拠が存在する。

民間記録『永禄日記』、『南部晴政書状』、『南慶儀書状』

南部氏側の主張が事実なら天正18年に挙兵した為信は、同年の小田原征伐での豊臣秀吉の元へ参陣していないことになる。

津軽氏系譜に為信の妹は載っていない。

天正17年(1589年)、石田三成を介して豊臣秀吉に名馬と鷹を献上、津軽三郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)ならび合浦一円の所領を安堵された。

一方、南部家では前田利家を頼って、為信を惣無事令に違反する逆徒として喧伝し秀吉に訴え、一度は為信は征伐の対象にされかける。 だが早くから豊臣政権に恭順の意を示すなど工作し、天正18年4月小田原へ兵1000を連れて参陣した南部信直に先駆け、その前月に小田原への途上の沼津で秀吉に謁見を果たしていた為信は、石田三成、羽柴秀次、織田信雄を介しての釈明が認められ独立した大名として認知されることに成功した。

以後も三成とは親密で、後年、関ヶ原の後に三成の次男・重成を保護したり、高台院の養女になっていた三成の三女・辰姫を息子の信枚の妻に迎えているのは、それに対する報恩という説もある。
※高台院:豊臣秀吉の正室である。

また、大浦政信が近衛尚通の落胤だという伝承にちなみ、為信は早くから近衛家に接近して折々に金品や米などの贈物をしている。
近衛家に限らずその頃の公家は窮乏しており、関白職に就きたいが家柄の無い羽柴秀吉を猶子にして藤原姓を授けた近衛前久は、為信からの財政支援増額により為信も猶子にした。このときから為信は本姓を藤原として、近衛家紋の牡丹に因む杏葉牡丹の使用を許され、姓を大浦から津軽に改めている。これで形式上は、秀吉と為信は義兄弟となった。
※落胤:落胤(らくいん)とは父親に認知されない庶子、私生児のこと。
※猶子:猶子(ゆうし)とは、明治以前において存在した他人の子供を自分の子として親子関係を結ぶこと。ただし、養子とは違い、契約関係によって成立し、子供の姓は変わらないなど親子関係の結びつきが弱く擬制的な側面(その子の後見人となる)が強い。


関ヶ原の戦いでは両軍生き残り策を取ったとも言われる。
関ヶ原出陣中に家臣が反乱するのを恐れ、出陣前に一族である重臣・森岡信元を暗殺している。
※森岡信元:大光寺城攻めでは泥に馬の足を取られた為信の窮地を救った家臣。

慶長12年(1607年)、病に伏せた嫡男・信建を見舞うために上洛するが、到着前の10月に信建が病死し、自身も12月に京都で死去した。享年59。


為信が着手して信枚が完成させた弘前城には、「館神」という守り神の社があった。この社は稲荷社であったが実はその稲荷様の後ろに厨子があり、その厨子は一度も開かれることがなく「館神」はその中に安置されていると言われていた。明治になってその「開かずの宮」の扉が開けられると、中には豊臣秀吉の木像が入っていた。為信は、幕府による改易の危険を顧みずに、津軽家を大名にしてくれた秀吉を城内に祀っていたのである。
※改易:江戸時代においては大名・旗本などの武士から身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること。

Wikipediaより
















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