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是非にあらず

小手前の安心は無い

相馬大作事件

2013年01月20日 16時53分33秒 | 歴史
相馬大作事件(そうまだいさくじけん)とは、文政4年4月23日(1821年5月24日)に、南部藩士・下斗米秀之進(しもとまいひでのしん、諱は将真(まさざね))を首謀者とする数人が、参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽藩主・津軽寧親を襲った暗殺未遂事件。

秀之進の用いた別名である相馬大作が事件名の由来である。事件前に裏切った仲間の密告により、津軽寧親の暗殺に失敗したため、秀之進は南部藩を出奔した。後に秀之進は幕府に捕らえられ、獄門の刑を受けた。

弘前藩主・津軽氏と盛岡藩主・南部氏の確執は、戦国時代の末期から安土桃山時代、弘前藩初代藩主である大浦為信(後に津軽為信)の時代に端を発する。もともと大浦氏は、盛岡藩主となった三戸氏(三戸南部氏。南部氏の宗家。)と同じく、南部氏の一族だった。この大浦氏に久慈氏(南部氏の庶流とされる)から養子に入った大浦為信は、1571年(元亀2年)に挙兵し、同じ南部一族を攻撃して、津軽地方と外ヶ浜地方および糠部の一部を支配した。さらに大浦為信は、1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐に際して、当時の三戸南部氏当主・南部信直に先駆けて参陣し、所領を安堵されて正式に大名となった。このような経緯から、盛岡藩主・南部氏は弘前藩主・津軽氏に対して遺恨の念を抱いていた。

1714年(正徳4年)には、両藩の間で檜山騒動と呼ばれる境界線紛議が起きた。これは、陸奥国糠部郡野辺地(現・青森県上北郡野辺地町)西方の烏帽子岳(719.6m)周辺地の帰属に関して両藩が争った問題である。弘前藩は既成事実を積み重ね、文書類などの証拠を整備して、一件を仲裁する幕府と交渉したのに対し、盛岡藩はうまく対応できなかったため、この地域は弘前藩の帰属と裁定された。 八甲田山山系を境界とするならば一帯は盛岡藩に帰属するはずであったため、この件の処置は盛岡藩に不満をもたらした。なお、この一件は相馬大作事件の107年も前の出来事である。

事件の前年の1820年(文政3年)には、盛岡藩主・南部利敬(従四位下)が39歳の若さで死亡(弘前藩への積年の恨みで悶死したと伝わる)。利敬の養子・南部利用が14歳で藩主となるが、若さゆえにいまだ無位無官であった。同じ頃、弘前藩主・津軽寧親は、ロシアの南下に対応するために幕府から北方警備を命じられ、従四位下に叙任された(従来は従五位下)。また、高直し(藩石高の再検討)により、弘前藩は表高10万石となり、盛岡藩8万石を超えた。盛岡藩としては、主家の家臣筋・格下だと一方的に思っていた弘前藩が、上の地位となったことに納得できなかった。
※従四位
正一位
従一位
正二位
従二位
正三位
従三位
正四位
●従四位
正五位
従五位
正六位
従六位
正七位
従七位
正八位
従八位
正九位
従九位
大初位
少初位


1821年(文政4年)、秀之進は寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺を伝える。これを無視した津軽寧親を暗殺すべく、秋田藩の白沢村岩抜山(現・秋田県大館市白沢の国道7号線沿)付近で、陸中国鹿角郡花輪(現・秋田県鹿角市)の関良助、下斗米惣蔵、小太郎らと大砲や鉄砲で銃撃しようと待ちかまえていたが、密告によって津軽寧親は日本海沿いの別の道を通って弘前藩に帰還し、暗殺は失敗した。なお、物語の多くでは紙で作った大砲1発を打ち込んだことになっているが、実際には大名行列は現場を通らず、竹で作った小銃20門を秋田藩に持ち込んだ。

津軽藩に密告した大吉と嘉七、徳兵衛の3人はこの功績により津軽藩に仕官することになる。
※大吉と嘉七、徳兵衛:仙台藩出身の刀鍛冶。

暗殺の失敗により、秀之進は相馬大作と名前を変えて、盛岡藩に迷惑がかからないように、江戸に隠れ住んだ。江戸でも道場を開いていたと言われている。しかし、幕吏(実は弘前藩用人・笠原八郎兵衛)に捕らえられ、1822年(文政5年)8月、千住小塚原の刑場で獄門の刑に処せられる。享年34。門弟の関良助も小塚原の刑場で処刑されている。
※小塚原の刑場:小塚原刑場(こづかっぱらけいじょう、こづかはらけいじょう)はかつて江戸時代から明治初期にかけ東京都荒川区南千住2丁目に存在した刑場である。
吉田松陰も埋葬された。

その後、寧親の隠居により、結果的に秀之進の目的は達成された。

当時の江戸市民はこの事件を赤穂浪士の再来と騒ぎ立てた。事件は講談や小説・映画・漫画の題材として採り上げられ、この事件は「みちのく忠臣蔵」などとも呼ばれるようになる。

この事件は水戸藩の藤田東湖、長州藩の吉田松陰にも影響を与える。

妙縁寺には秀之進の首塚がある(住職の日脱が秀之進の伯父であったため首を貰い受けた)。
※妙縁寺:妙縁寺(みょうえんじ)は、東京都墨田区吾妻橋に所在する日蓮正宗の寺院。山号は正栄山(しょうえいざん)。


また、東京都台東区の谷中霊園には招魂碑がある。この招魂碑は歌舞伎役者の初代市川右團次が、相馬大作を演じて評判を取ったので1882年(明治15年)2月、右団次によって建立された。

Wikipediaより


ということで、写メを撮って来ました。






津軽 寧親

2013年01月19日 19時01分51秒 | 歴史
津軽 寧親(つがる やすちか)は、江戸時代の大名。交代寄合黒石藩の第6代当主。のち陸奥国弘前藩の第9代藩主。

藩政においては信明の改革を受け継いで、他藩から開拓者を求めて人寄役を設置し、寛政8年(1796年)には藩校・稽古館を創設する。寛政9年(1797年)には寛政律という法令を制定したが、信明には遠く及ばない人物で、信明時代に行なわれていた武士による半農農村復興政策は失敗に終わった。

文化2年(1805年)、蝦夷地の警備における功績により、幕府より高直しが行なわれて7万石、後に10万石の大名となった。四品に叙任された翌年の文化6年(1809年)には支藩である黒石藩を立藩している。しかし相次ぐ改革と蝦夷地警備などにおいて出費が莫大なものとなり、それを賄うために領民に重税を強いたため、文化10年(1813年)に民次郎一揆が起こった。

文政4年(1821年)には家格が盛岡藩より上昇したことを妬まれて、相馬大作事件と呼ばれる暗殺事件も発生している。このような中で失意に落ちた寧親は、文政8年(1825年)4月10日に家督を次男の信順に譲って隠居し、向陽館・広州と号した。

以後は俳句の世界に没頭して、如山・栖鶴・琴亭という俳号を残している。天保4年(1833年)6月14日、江戸で死去した。享年69。

※相馬大作事件については、別途後日記載致しましょう。


Wikipediaより



津軽 信明

2013年01月14日 19時03分19秒 | 歴史
津軽 信明(つがる のぶあきら)は、江戸時代後期の大名。陸奥国弘前藩(津軽藩)の第8代藩主。

宝暦12年(1762年)6月22日、第7代藩主・津軽信寧の長男として生まれる。幼少期から才能に恵まれ、宇佐美恵助、戸沢惟顕らから教えを受けてその才能に磨きをかけた。
当時名君と呼ばれていた肥後国熊本藩主・細川重賢や出羽国米沢藩主・上杉鷹山(治憲)、そして陸奥国白河藩主・松平定信らと親交を持ったことも、信明の才能と見識を広げる一因となった。
※細川重賢:細川 重賢(ほそかわ しげかた)は、肥後熊本藩6代藩主。肥後の鳳凰と賞された名君。

天明4年(1784年)、父の急死により家督を継いで藩主となった。
この頃、弘前藩では天明の大飢饉では、死者13万人と言われるほどの大被害を受け、その救済費などによる出費から財政が悪化していた。このため信明は藩財政改革に乗り出し、乳井貢、毛内有右衛門ら有能な士を登用、不正を行なう家臣に対しては厳しい処罰で臨んだ。

改革のうち珍しいものとして、有右衛門の進言を容れての藩士の帰農、土着策がある。有右衛門は武士の窮乏化が促進するのは武士が年貢である米に頼りすぎるからであるとし、藩士を織田信長の兵農分離以前の半農半士の状態に戻そうとしたのである。
この頃、弘前藩では飢饉という天災が相次いで領地は荒廃し、百姓は差し出す年貢さえなく、田を捨てて逃亡するという有様であった。そこで藩士を半農半士にすることで、荒廃した田畑を復興させようとしたのである。しかし、当初は反対論が多く、はじめは希望者のみにとどめた。その後、赤石安右衛門や菊地寛司らの尽力もあって、荒廃した田畑のうち1000町歩が復興した。
※1000町歩:1000町歩地主」(1町歩=3000坪、1000町歩はおよそ1000haで、東京ドームのグラウンド面積の約770個分相当)、

信明はさらに倹約令や出費の大幅削減、義倉設置による食糧備蓄、藩校の開設と教育の普及、藩法の制定、年貢徴収方法を定免法から検見法に改めるなどして、着実な改革を行なって財政を再建した。
しかし寛政3年(1791年)、30歳の若さで急死し、改革は後一歩というところで挫折した。これには毒殺説もある。

嗣子がなかったため、跡を養嗣子の津軽寧親(別家の津軽著高の子)が継いだ。
※嗣子:家を継ぐべき子。あととり。

津軽 信寧

2013年01月14日 16時29分09秒 | 歴史
津軽 信寧(つがる のぶやす)は、江戸時代後期の大名。陸奥国弘前藩(津軽藩)の第7代藩主。

元文4年(1739年)2月27日、第6代藩主・津軽信著の長男として生まれる。延享元年(1744年)、父・信著の跡を継いで藩主となった。

信寧の治世中、弘前藩は飢饉が相次いで領地は荒廃し、借金は35万両にも及んでいた。しかも重臣である3名が商人と結託して藩内の米を買い占めて江戸へ売却して暴利をむさぼるなど、不正も起こった。

やがて天明元年(1781年)から起こった天明の大飢饉は藩にとどめを刺すこととなる。このため信寧は財政改革に乗り出そうとしたが、その矢先の天明4年(1784年)に急死し、跡を長男の信明が継いだ。


Wikipediaより



津軽 信著

2013年01月14日 12時03分19秒 | 歴史
津軽 信著(つがる のぶあき)は、陸奥国弘前藩の第6代藩主。

当初は比較的裕福であった藩の財政であったが、風雅趣味であった先代藩主・信寿の浪費に天災なども加わり、この頃の藩財政は困窮気味であった。

藩を継承した信著の治世期は不運にも、凶作・松前大島噴火による津波・数度の洪水、疫病の大流行、害虫の大発生、城下や青森町の大火、蝦夷地の有珠山の噴火の影響による群発地震、果ては領内大地震など、天災が相次いだ。領民は困窮を極め、結果として藩財政も著しく悪化した。
※蝦夷地:蝦夷地(えぞち)は、日本人がアイヌの居住地を指して用いた言葉で、江戸時代に使われた。

藩の危機的事態を打破するためにも、信著および津軽藩は藩政改革を断行する。当初は13歳での相続でもあり、先代からの家臣や藩政をそのまま継承していたが、15歳ごろから家臣の入れ替えを行い、様々な改革に着手し始めた。改革の内容は倹約令や借米制度を中心とした、当時の幕府の方針に沿ったものであった。

方向性としては幕府の享保の改革のプランに沿ったものである。藩士には倹約令を出し、また正装の簡略化を命じて無駄を減らした。天災で困窮する農民に対しては、富豪から御用金を徴収して救済に当てた。城下に訴訟箱を設置して広く民間の意見を求める政策も行った。その他蘭学を中心とした文武を奨励するなど、倹約消極策だけではなかったが、これも吉宗の方策に近いものである。これは幕府におもねったわけではなく、全国的な当時の改革のスタイルだったと思われる。

延享元年(1744年)5月11日には弘前城下で大火が起こった。この直後の5月25日に信著が26歳の若さで病死したため、藩政改革は一旦頓挫してしまう。





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