2023/9/14
地元では、一応進学校と呼ばれる高校に進学しました。
進学校と言っても、県下では中の上程度のところで、大学への現役での進学率もあまり良くありませんでした。
私は、剣道部に所属していました。
毎日、練習練習で、かなりハードな稽古をしていました。
血の小便が出たことも何度もあります。
したがって、部活に一生懸命で、勉強は二の次でした。
成績は、あまりよくありませんでした。
ちょうど真ん中あたりというところでしょうか。
一学年に360名で、学力テストで上位5、60位くらいに入っていないと、国立大学に合格することは難しいと言われていました。
私は、部活の練習でいつもくたくたになって帰宅していたので、食事をとって、風呂に入ると、宿題もろくにせずに、寝てしまうことが多々ありました。
そして、成績としては、一年生のときの最初の学力テストで、120番だったものが、三年生の夏、部活を引退する直前では、299番まで落ちていました。
360人中の299番ですから、大学進学を考えること自体が間違っているといわれてもしかたありません。
一応、第一志望、第二志望と大学の名前と学部を書いて提出するのですが、当然ですが、判定はいつも「D」ランクでした。
そして、部活を引退し、秋頃までは、なかなか勉強に手がつきませんでしたが、血を吐くような練習をしていたことを考えると、机に向かって勉強するなんてことは、たいしたことじゃない、楽勝だ。
と考えるようになり、一生懸命に勉強するようになりました。
ただ、これまで成績が悪かった分、問題集を開いてもさっぱりわかりません。
なので、問題を読むとすぐに解答を読んで、それをノートに丸写ししました。
一回丸写しすると、今度はこれを手で隠しながら、書けるところまで書きます。
これを繰り返して、解答を丸暗記していきました。
成績は、数ヶ月の間に徐々に上がって行き、模擬試験の点数も次第に上がっていきました。
そして、センター試験を受け、自己採点したときが、これまでで最も良い点数でした。
しかし、志望する大学の合格レベルには達していませんでした。
けれども、合格率の判定は「C」になっていました。
合格の可能性は、全くないわけではない、ここであきらめるわけにはいかない。
剣道のあの稽古に比べれば、受験勉強なんてたいしたことない。FANZAおすすめ
自分に言い聞かせ、猛勉強しました。
問題集を開いて、分からなければ、すぐに解答を見て、解答と参考書の内容を何度も紙に書いて、丸暗記しました。
一日に、5、6時間は、自宅の机に向かっていたと思います。
そして、試験本番、出来はあまりよくありませんでした。
落ちて当たり前だから、当たって砕けろという気持ちでした。
それから、合格発表の日、私の受験番号がそこにありました。
合格です。
奇跡です。
高校の先生も、大逆転だとびっくりしていました。
そうして、私は、晴れて第一志望の大学に入学することができました。
受験勉強は身体的にも精神的にも本当につらく大変な日々でしたが、自分の将来のために私も毎日必死で勉強をしました。
私が目指したのは地元ではなく県外の大学だったので、前日から父親と一緒に大学のある県へ新幹線で向かいました。
母は専業主婦ですが、大病を患って退院してきたばかりだっただめ、父がわざわざ私の大学受験の日に合わせて有給休暇をとってくれ、一緒についてきてくれたのでした。
こんな風に父と二人きりで遠出をするなんて、考えてみれば人生で初めてのことでした。
新幹線に乗って父と二人で泊まりで受けに行く受験は、毎日学校や家で勉強尽くしだった私にとって、久々のちょっとした小旅行の気分でもありました。
受験の地へは、新幹線や電車を乗り継いで半日がかりでつきました。
ホテルに荷物を預け、少し辺りを散策したり、目指している大学を外から見に行ったり、ご当地の食事を食べに行ったりしました。
翌日の受験日当日は、父と一緒にタクシーで大学まで行きました。
そして、私の受験が終わるころに父がまた迎えに来てくれることになりました。
まわりに友達もなく、たった一人で入っていった受験会場はとても緊迫していて緊張の連続でしたが、何とか自分の力を出し切ることができました。
試験が終わって大学から出ると、父が少し心配そうな顔で、でも笑顔で私を迎えてくれました。
父の顔を見たとき、一気に緊張が解けて涙が出そうになりました。
この受験の日のことは、私にとって忘れられない一生の思い出になりました。
絶対にダメだと分かっていても諦めなかった大学受験
私は田舎に住んでいます。地元では、一応進学校と呼ばれる高校に進学しました。
進学校と言っても、県下では中の上程度のところで、大学への現役での進学率もあまり良くありませんでした。
私は、剣道部に所属していました。
毎日、練習練習で、かなりハードな稽古をしていました。
血の小便が出たことも何度もあります。
したがって、部活に一生懸命で、勉強は二の次でした。
成績は、あまりよくありませんでした。
ちょうど真ん中あたりというところでしょうか。
一学年に360名で、学力テストで上位5、60位くらいに入っていないと、国立大学に合格することは難しいと言われていました。
私は、部活の練習でいつもくたくたになって帰宅していたので、食事をとって、風呂に入ると、宿題もろくにせずに、寝てしまうことが多々ありました。
そして、成績としては、一年生のときの最初の学力テストで、120番だったものが、三年生の夏、部活を引退する直前では、299番まで落ちていました。
360人中の299番ですから、大学進学を考えること自体が間違っているといわれてもしかたありません。
一応、第一志望、第二志望と大学の名前と学部を書いて提出するのですが、当然ですが、判定はいつも「D」ランクでした。
そして、部活を引退し、秋頃までは、なかなか勉強に手がつきませんでしたが、血を吐くような練習をしていたことを考えると、机に向かって勉強するなんてことは、たいしたことじゃない、楽勝だ。
と考えるようになり、一生懸命に勉強するようになりました。
ただ、これまで成績が悪かった分、問題集を開いてもさっぱりわかりません。
なので、問題を読むとすぐに解答を読んで、それをノートに丸写ししました。
一回丸写しすると、今度はこれを手で隠しながら、書けるところまで書きます。
これを繰り返して、解答を丸暗記していきました。
成績は、数ヶ月の間に徐々に上がって行き、模擬試験の点数も次第に上がっていきました。
そして、センター試験を受け、自己採点したときが、これまでで最も良い点数でした。
しかし、志望する大学の合格レベルには達していませんでした。
けれども、合格率の判定は「C」になっていました。
合格の可能性は、全くないわけではない、ここであきらめるわけにはいかない。
剣道のあの稽古に比べれば、受験勉強なんてたいしたことない。FANZAおすすめ
自分に言い聞かせ、猛勉強しました。
問題集を開いて、分からなければ、すぐに解答を見て、解答と参考書の内容を何度も紙に書いて、丸暗記しました。
一日に、5、6時間は、自宅の机に向かっていたと思います。
そして、試験本番、出来はあまりよくありませんでした。
落ちて当たり前だから、当たって砕けろという気持ちでした。
それから、合格発表の日、私の受験番号がそこにありました。
合格です。
奇跡です。
高校の先生も、大逆転だとびっくりしていました。
そうして、私は、晴れて第一志望の大学に入学することができました。
父との思い出が詰まった大学受験
私が通っていた高校は地元では有名な進学校で、高校三年生ともなるとクラスのみんなが有名大学合格を目指して受験勉強に励んでいました。受験勉強は身体的にも精神的にも本当につらく大変な日々でしたが、自分の将来のために私も毎日必死で勉強をしました。
私が目指したのは地元ではなく県外の大学だったので、前日から父親と一緒に大学のある県へ新幹線で向かいました。
母は専業主婦ですが、大病を患って退院してきたばかりだっただめ、父がわざわざ私の大学受験の日に合わせて有給休暇をとってくれ、一緒についてきてくれたのでした。
こんな風に父と二人きりで遠出をするなんて、考えてみれば人生で初めてのことでした。
新幹線に乗って父と二人で泊まりで受けに行く受験は、毎日学校や家で勉強尽くしだった私にとって、久々のちょっとした小旅行の気分でもありました。
受験の地へは、新幹線や電車を乗り継いで半日がかりでつきました。
ホテルに荷物を預け、少し辺りを散策したり、目指している大学を外から見に行ったり、ご当地の食事を食べに行ったりしました。
翌日の受験日当日は、父と一緒にタクシーで大学まで行きました。
そして、私の受験が終わるころに父がまた迎えに来てくれることになりました。
まわりに友達もなく、たった一人で入っていった受験会場はとても緊迫していて緊張の連続でしたが、何とか自分の力を出し切ることができました。
試験が終わって大学から出ると、父が少し心配そうな顔で、でも笑顔で私を迎えてくれました。
父の顔を見たとき、一気に緊張が解けて涙が出そうになりました。
この受験の日のことは、私にとって忘れられない一生の思い出になりました。